第14話 好きになっても、言うことを聞くとは限らない
好きになっても、全部は渡さない
「あなたが私を好きなら、私は全部言うことを聞かないといけませんか」
用意していた説明が、喉の手前で止まった。
ノアは、提出する資料の一覧を見ている。
俺の下書き。最初に入れた三行。操作の記録。台本と、保存してある打ち合わせのメモ。
その全部を、同じ袋へ入れようとしていた。
「好きって、そういう話じゃ」
「大切だから、守りたいから、協力してほしい。その話なら、昨日も聞いたそうです」
ノアが、三行目を自分の側へ戻した。
今日も名前と担当を伝えたあと、俺は昨日、彼女が留保した案を説明し直していた。
莉乃との偽装契約が終わったことも、彼女の日記にはある。二行目の『好き』を誰が言ったのかは、先に確かめられた。
その返事より、目の前の赤い印のほうが、いまは難しかった。
「何も出さなかったら、続けていいって確かめてもらえない」
「何も出さないとは、言っていません」
俺は一覧へ手を伸ばしかけ、止めた。
文化祭まで六日。ここから一つずつ必要か確かめるより、今あるものを見てもらったほうが、早いと思った。
俺の私的な文章も一緒に出す。それで釣り合う気がしていた。
「俺の分だけ隠して、君の分を出すつもりじゃない」
「ハルが見せていいと決めたことは、分かりました」
ノアは一覧の、台本の下を指した。
「私が作業に使っていいと言った言葉を、別の人にも全部見せていいかは、まだ聞かれていません」
机の隣で、莉乃が紙を引き寄せた。
署名の並んだ契約書は、今日は机にない。代わりに、白い紙が一枚置かれた。
「全部なら説明を選ばずに済む。それを、本人が協力しない問題にしないで」
「でも、足りなかったら、確認のやり直しになる。もう一度確認する日まで、間に合わなくなるかもしれない」
言い終わった自分の声が、大きかった。
ノアは一度、目を伏せた。
「私だけ、確認しなくていいとは思っていません」
「うん」
「全部出さない方法が、ないんですか」
「まだ、作れてない」
答えると、彼女は顔を上げた。
「だったら、私も考えます。渡す前に、考えさせてください」
俺は一覧を閉じなかった。
赤い印を消す代わりに、横へ、書き込める余白を開いた。
*
無断で入力したことを示す資料と、今も書き換えられることを示す試験を、別の列へ分けた。
前者には操作の記録と、元の文章の必要な抜粋。後者には、仮の三行を使う黄色い検証画面。
みちるが対応を書き、莉乃が、九条さんへ尋ねる箇所に丸をつける。
「ここに、私の今の日記は要りますか」
ノアが指した項目へ、俺は最初、印をつけたままにしていた。
「……最初の入力の証明には、ならないな」
本文を開く代わりに、印を消した。
何を出すかが減るほど、俺たちが説明する欄は増えた。時計を見ても、まだ半分も進んでいない。
「ここの試験なら、私も見たいです」
ノアが黄色い枠を指す。
俺は次の紙へ移すはずだった手を戻し、彼女の見たいところへ画面を寄せた。
天音の席には、誰も座っていなかった。
案内の試験に必要な確認を、委員会の連絡先へ出してある。携帯が震えたので見ると、音声を出す順番と、図面の修正箇所だけが返っていた。
今日も部室には行かない、と最後に一行ある。
『受け取った。こっちで確かめる。ありがとう』
それだけ返した。
どこを試すかは、送られた紙から分かる。来てくれれば早いとは、書かなかった。
天音の試験メモも、必要な箇所だけを候補に移す。
莉乃が横へ『作成者へ確認』と書いた。今度は、書かれた理由を聞かずにうなずけた。
*
顧問に同席してもらい、九条さんへ画面をつないだ。
俺たちはノアへ、相手の名前と今日尋ねたいことを伝える。彼女は確認を終えると、自分から一覧の表示を選んだ。
「一括で出す案を、取り下げたいです」
俺は、修正した資料を送った。
「見せたくないから減らすだけではなくて、確認する目的ごとに分けました。この範囲で足りるか、見てください」
画面の九条さんは、最初の列をしばらく読んだ。
次に、操作の記録と、検証の手順へ目を動かす。
「入力元のファイルを、すべて提出する必要はありません。経路と使用した部分が分かること、今後の扱いが確認できることが必要です」
「会話のメモは?」
ノアが聞く。
「検証に関係するものがあれば、該当する部分を確認します。本人たちが何に同意したか分からないものは、まずその点からです」
莉乃が鉛筆を動かした。
「それなら、出す人と範囲を選ぶ人を、項目ごとに決められます」
「はい。ただし、資料を絞れば、その資料で必要な確認ができることも示してもらいます。実演と、結果を確認する時間が増えます」
九条さんは、まだ空いている試験結果の欄を指した。
丸をもらったわけではない。
ここから埋める仕事を、俺たちへ返された。
「やります」
口にしてから、俺は公演の予定表を開いた。
二つの追加演出には、もう中止の線が引かれている。それを消して、空いた時間をもう一度作ることはできない。
残していたのは、校門からこの部屋までを一本につなぐ導入映像だった。
ノアを端末で運びながら、初めて来た人と同じ道を見せる。曲がる場所ごとに字幕を入れて、最後に舞台の画面へつなぐ。
撮影の日と、編集の日。その二つを囲んだ。
下には、昨日までに描いた絵コンテがある。廊下の窓で画面を明るくして、扉を開けた瞬間にノアへつなぐ。その絵コンテを並べた画面に曲を当て、一人で何度も再生した。
消してよい失敗作だから、諦めるわけではなかった。
「これも、やめる」
みちるが顔を上げた。
「最初は、どう始める?」
「ノアが挨拶して、案内図を出す。映像をつなぐ時間を、こっちの試験に回す」
端末のノアが、予定表を見た。
「その映像をやめるから、私が同意しないといけない、にはしませんよね」
「しない。俺が、この時間を使うと決める」
線の引き始めが、少し曲がった。
俺は定規を出し、最後まで引いた。
「客席の顔は、見えるんですか」
ノアが聞いた。
「カメラを向ける。明るさも、確かめておく」
「挨拶のあと、返事を待つ時間がほしいです。地図を出す前に、どこから来たか聞いてみたい」
「予定の道と、違うほうから来るかも」
「では、その話も聞きたいです」
俺は絵コンテを裏返した。空いた面へ、ノアの言った順番を書いてみる。
映像なら同じ秒数で進められる。返事を待ったら、何秒になるか分からない。いま彼女が見せたい始まりは、俺の描いた絵の中にはなかった。
九条さんとの確認を終えても、莉乃は鉛筆をしまわなかった。
みちるも検証の準備を始める。俺は、増えた欄を埋めるために、新しく空いた時間を書き込んだ。
ノアも、隣から質問をした。
さっき反対した相手と、同じ表を読んでいる。
*
「切り替えの試験は、明日の昼にしよう」
みちるが、保守の変更案を机へ広げた。
学校と貸与元へ手順を確認してもらい、ノアにも何を変えるか説明する。まず複製環境で試し、その結果を見てから、本番の保守構成を変更する。
「日記を選ぶ機能を分けたら、もう書き換えられないんだよな」
俺が聞くと、みちるは首を振った。
「そこまでできたかは、最後の検証が済むまで言えない。先に動く部分を直して、止めたときに残るものも確かめる」
ノアが、自分の日記の枠を出した。中身は見せず、三つあることだけを示す。
「確定する前に止まったら、今日の私はどうなりますか」
「作業中の会話と、未確定の三行は戻せない。零時を越えたら、前夜に確定した三行から始まる」
みちるが、枠の外を指した。
「だから、その直前に止める試験は本番ではしない。時刻を進めるのも複製だけ。実際の切り替えは、昼に、みんなで確認してから」
「明日の私にも、先に説明してください」
「うん。説明して、確認をもらってから始める」
俺は日程の紙へ、開始前の確認を一行足した。
最後に検証を受ける日まで、あと五日。文化祭までは六日ある。
数字を取り違えないよう、予定表の上へ両方書いた。
「試験の予定は、日記にも入れておく?」
「明日の私に、この予定表を見せてください。三行を全部、その説明にはしたくないです」
俺は予定表を複写した。開始前に説明するための紙へ、みちるが、補助処理の登録と終了確認の項目を書き込んだ。
部室を閉めるころには、机の上から、ひとまとめの提出袋がなくなっていた。
*
夜、ノアは日記を書いたあと、俺へ一行だけ見せた。
俺の部屋の時計は、二十三時五十六分。
今日、何度も開いては戻した資料より、ずっと短い。
『好きでも、日記は全部渡さない。』
「文章として、通じますか」
ノアが聞いた。
俺は最後まで読んで、もう一度、先頭へ戻った。
「……通じる」
「では、残します」
彼女はその一行を、自分の側へ戻した。
画面には、明日の試験時刻だけが出ている。
聞き返せることは、まだあった。今日、反対されたことの意味は、時間をかけて聞いた。
あの短い文の前半だけ、俺は聞けなかった。
*
今夜の三行
一 好きでも、日記は全部渡さない。
二 ハルとは、反対したまま作業を続けた。
三 私は、私が選んだ条件で舞台に出たい。




