第13話 恋愛を否定する彼女が、第7条を破った
偽装恋人は、契約を終わらせて告白する
「案内の試験、今日はどうしますか」
ノアに聞かれて、俺は原稿を裏返した。
そこにあるのも、同じ校内図だった。天音が付けた印は読める。けれど、どの順番で誰に歩いてもらうかは、紙のどこにも書いていなかった。
「昨日、相談したはずなんだけど」
携帯を出すと、莉乃がこちらを見た。
俺は天音の名前を選び、文字を打ちかける。
「彼女が引き受けないと回らない計画なら、計画から直して」
指が止まった。
旧視聴覚準備室に、椅子は四つある。一つだけ、机の下へきれいに収まっている。
今日は委員会の仕事をする。部室には来ない。天音がそう伝えてきたのを、俺は朝から知っていた。
「確認するだけだよ。引き継ぎが」
「昨日まで任せていた分を、今日も引き受けてもらう確認?」
打ちかけた文字を消した。
何を聞けば、一言だけで済むか考えていた。天音が答えるために、どの紙を開くかまでは考えていなかった。
ノアが、机の端の予定表を見る。
「天音さんは、今日は来ないんですね」
「うん。自分の用事をするって」
今朝、ノアが見せてくれた三行には、天音が約束書を返したとあった。どんな声だったかは書いていない。
莉乃とみちるも、名前と担当から伝えていた。文書を作る人と、承認を受けて技術の作業をする人。
「じゃあ、今日、試す道を一つに絞る」
俺は携帯を伏せた。
文化祭まで、七日。昨日の予定から天音の名前を消すだけでは、今日の仕事にはならなかった。
*
「俺が歩く。莉乃に、案内の原稿を見てほしい。みちるは音声と通信。ノアは、分からないところを俺に聞いて」
「原稿の確認なら、できるわ」
莉乃が紙を受け取り、みちるは設定のメモを俺とノアへ見せた。
前は、困ったと気付くより早く直してくれた。今日は、何を頼むか、俺が先に言わなければ始まらない。
最初の試験は、扉の前で止まった。
「左の通路へ、進んでください」
「目の前に、左へ行く通路が二つあります」
ノアが黙る。
手前には短い階段、奥には渡り廊下。同じ原稿を聞いても、立つ場所が少し違えば、別の左が見える。
「いま、床はどんな色ですか」
俺はレンズを下げた。
「さっきと同じ、薄い灰色」
「床では、分かりませんでしたね」
「俺の靴なら、よく映ってる」
「その靴は、地図にありません」
端末の向こうで、莉乃が原稿へ線を引いた。
俺は扉へ戻り、今度はノアの質問を待った。右側に見える部屋の名前を答えると、進む通路が決まる。
短い道を一つ通るだけで、思ったより時間がかかった。
部室へ戻って、試験の表を描き直した。原稿を書いた人以外でも歩けるか、聞いて直せるか。
天音の名前だけで埋まっていた欄へ、今日の結果と自分の名前を書いた。
「これ、最初に作るべきだったな」
「明日から使えるなら、今日作った意味はあるでしょう」
莉乃が言った。
慰められた感じはしなかった。彼女はもう、次の試験の日付を見ている。
俺は携帯を取り、一つだけ送った。
『昨日、君の気持ちも時間も、俺の都合で待たせた。ごめん。』
その下へ、今日の仕事の相談を書き足しかけた。
消して、送信する。原稿の写真も付けない。
返事の来る場所へ携帯を置かず、鞄のポケットへしまった。
*
みちるが、顧問へ確認事項を持っていったあとだった。
莉乃が一枚の紙を、俺の前へ置いた。
全十二条。署名欄の二つの名前は、同じままだった。
「契約の修正?」
「終了の申告」
俺は顔を上げた。
莉乃の指が、第七条へ置かれている。
「気持ちや都合が変わったら、申告する。どちらからでも、続けないと決められる」
「俺が、何か」
「理由を、あなたに納得させる必要はない。そういう約束だったわね」
「……うん」
紙の横に、彼女が今日直した案内の原稿がある。
書類も交渉も、莉乃がいないと困る。そう思ってから、その言葉で引き留めるところだったと気付いた。
「分かった。終わりにする」
莉乃は鉛筆を持ち、終了する日付を書いた。
文化祭まで続けるはずだった契約が、七日を残して今日で終わる。
「帰ってきたばかりの頃、誰かと昼ご飯を食べるのにも、約束が要ったの」
莉乃が、日付を見たまま言った。
「約束?」
「そういうものだと思っていた。どこへ行く、何時まで、何を話す。決めておけば、途中で困らないでしょう」
「決めたのか」
「決めようとして、誘う前に昼休みが終わった」
笑っていい話か分からず、俺は黙った。
莉乃は鉛筆を置いた。
「みんなが昨日の続きを話しているところへ、どう入ればいいか分からなかった。分からないなら、要らないと言うほうが簡単だったわ」
彼女が、端末のノアを見る。
ノアは口を挟まず、話すほうへ顔を向けていた。
「今回も、先に役割を決めた。誘いを断りたい私と、宣伝をしたいあなた。その関係なら、必要な話はできると思った」
「それは、できてたと思う」
「ええ。でも、それだけではなくなった」
俺の手元にある契約書を、莉乃が指した。
「これがあれば、隣にいる理由を聞かれずに済む。恋人のふりなら、特別に扱われても、仕事だと言える」
「莉乃」
「そのまま続けたくなったから、終わりにするの」
紙の角を、俺は押さえていた。
いま離せば、契約そのものまでなくなるような気がした。
「恋人のふりは終わり。好きなのは、本当。別々に伝えておくわ」
窓の外で、運動部の笛が鳴った。
俺は、最初の二つの言葉を一緒に受け取ろうとしていた。好きなら、恋人のままでいいはずだ、と。
まま、も何も、俺はまだ一度も答えていなかった。
「分かった。契約が終わることと、いま聞いたことは、別にする」
返事になっていないと、自分でも分かった。
莉乃はうなずいたが、笑わなかった。
「ノア。恋人のふりが終わったこと、明日も分かるようにしてもらえる?」
頼んでから、莉乃が端末へ向き直る。
ノアは、まず机の上の原稿を見た。
「紹介の文章は、直せます。でも、私の三行に何を書くかは、私が決めます」
莉乃の指が、紙から離れた。
「そうね。あなたの枠を、私の手続きに使わせるところだった」
「人間、やっぱり難易度が高いですね」
「同意するわ」
莉乃は短く答え、契約書を畳んだ。
ノアはいつもの画面へ戻ったが、俺を見るまでに少し間があった。
*
偽装を伝えていた相手には、どう知らせるか。
俺たちは、終了したことを同じ範囲へ伝えると決めた。理由は莉乃の気持ちだと、言いふらさない。
紹介文の『代表の彼女』を消す。残った『文書担当』の文字を、莉乃が読み直した。
「この作業、続けていい?」
彼女が聞く。
「頼みたい。でも、今までの続きだから、当然やってもらうとは」
「私も、自分で続けると言っているの」
俺はうなずいた。
仕事へ戻れることに、ほっとしている。それだけでは済まない話を聞いたばかりなのに。
「理由も、全部あなたのためにはしないわ」
莉乃は余った紙へ、相談先、という文字を書いた。
「AIを使うのをやめたあと、話すところがない人もいる。始める前でも、困った途中でも。小さくても、聞いてもらえる場所を作りたい」
「学校で?」
「どこからできるか、顧問に聞く。ノアの活動を続けるための交渉とは、別の仕事よ」
莉乃は紙へ、自分が確認することを書いた。
俺も、自分の提出資料へ向き直った。
*
顧問へ相談していたみちるが戻り、企業へ出す資料を並べた。入力元、操作記録、台本、保存の許可を得たメモ。
人間側の手元にあるものを、漏れなく集めたつもりだった。
「全部の中身を、まとめて送るの?」
莉乃が聞いた。
「そのほうが、確認し直す回数は減ると思って。足りないと言われてから探すより、先に」
九条さんは、何が必要か協議できると言っていた。
でも、切り分けるにも時間は要る。案内の試験も、保守の改修も、七日の中へ入れなくてはいけない。
「まだ、送ってない。ここから確認する」
ノアへ一覧を向けた。
彼女は、公演の台本と、打ち合わせのメモを順に開いた。
「この一行は、公開テストで見せたものですか」
「うん。君が選んで公開したところ」
「この発言の抜粋は?」
「打ち合わせで、ここまでは残していいって、確認したメモ」
ノアが、もう一度その文を読む。
保存するとき、公開するとき。そのたびに聞いたはずだった。だから、出せるものを集めたつもりでいた。
「残していいことと、今度の確認へ渡していいことは、同じですか」
俺は手元の提出欄を見た。
必要なところは、あとで貸与元に選んでもらえばいい。そう考えて、付けた印だった。
「状況を説明できないと、活動を続ける条件が」
言いかけると、ノアが一覧の一項目を赤くした。
『関係資料一式 本文を添えて提出』
彼女は、そこだけを指した。
「これ、私が嫌だと言っても、出すつもりですか」
*
今夜の三行
一 莉乃さんは、偽装の契約を終わらせた。
二 ハルが好きなのは、本当だと言った。
三 私も、守る計画に嫌だと言ってよい。




