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第12話 約束書を、返す日

約束書を返す。今の私を見て


「天城院天音です。案内を作りに来ました」


 朝の準備室で、天音が端末へ身をかがめた。

 ノアは画面の中央へ寄り、きちんと頭を下げた。


「初めまして。ノアです」


「うん。毎朝、私から名乗るって約束したの。だから今日も来た」


 天音が微笑む。手には、茶色い封筒があった。

 角を留めたテープが、窓の光を鈍く返している。


「そうだったんですね。ありがとうございます」


 ノアの視線が、俺へ移った。

 俺は端末の隣へ立ち直る。


「一ノ瀬ハル。制作会の代表で、君の画面と演出を担当してる」


「初めまして、ハルさん」


 さん、とついた。

 名前を呼ばれるまでの一拍が、いつもより長かった。

 昨夜、ノアは三行を全部空欄にした。確定したあとも、もう一度考えないかとは聞かなかった。

 ここへ来るまでは、知っているつもりだった。自分の名前も、何を一緒に作ったかも、今朝は知らないことを。


「今日は、原稿を置いていくね」


 天音は封筒から手を離さず、鞄の書類を机へ置いた。

 案内の原稿だった。読みづらい教室名の横に、小さく振り仮名がある。

 俺が手を伸ばすより先に、彼女は紙をノアのカメラへ向けた。


「昨日まで、これを一緒に作ってた。声に出すと、つまずくところがあるから、放課後に確認したい」


「はい。そのとき、読ませてください」


 ノアは原稿を見てから、天音の手元へ目を戻した。

 封筒の端が、指の間でわずかに曲がっている。


「天音、それ」


「放課後、話す。委員の確認じゃないから」


 俺は、うなずいた。

 彼女は端末へ「またあとで」と言い、原稿だけを残した。

 机の上には、いつもの付箋が何枚もある。

 封筒を持って出る手が、少し震えていたことは、そこに書いていなかった。


     *


 放課後、天音は腕章を外して部室へ来た。

 机の上へ、原稿ではなく封筒を置く。

 俺が椅子を引くと、彼女は座った。端末の横から見れば、最初に約束書を見せた日と同じ並びだった。


「昨日のことを、説明したほうがいいかな」


 俺はノアへ聞いた。

 どうして三行を空欄にしたのか。何を聞いて、どんなふうに選んだのか。

 彼女が尋ねれば、答えるつもりでいた。


「どこから知りたい?」


 ノアは俺と天音を見比べた。


「今は、天音さんのお話を先に聞きたいです」


「私?」


「朝から、その紙を置くかどうか、迷っているように見えたので。違ったら、すみません」


 天音が封筒を見た。

 人差し指で、開き口の補強テープをなぞる。


「ううん。迷ってた」


 彼女は紙を取り出し、花が描いてある側を上にした。


「返します」


 俺のほうへ、机を滑らせる。

 紙が手に当たる前に、俺はそれを押さえた。


『はるは、あまねとけっこんします。』


 隣にある天音の名前だけが、今見ても丁寧だった。

 折り目の部分は白くなり、花の赤も薄い。裏から透けた青い文字を、彼女の指が押さえていた。


「持ってたら、邪魔?」


 言ってから、自分の言い方が嫌になった。

 天音は少し顔を上げた。


「邪魔になったから、返すんじゃない」


「うん」


「覚えていてくれたのは、うれしかった。何を描いた紙か、すぐ分かったのも」


 俺はうなずいた。

 忘れていないことなら、何度でも言える。

 あの赤い色鉛筆を折ったことも、天音に叱られたことも。


「でも、私が聞いたのは、覚えてるかどうかだけじゃないよ」


 紙の上の俺の指を、彼女は見ていた。


「今の私を、好きか聞いたの」


 答えを待つ顔を、見たことがあった。

 この部屋で。案内図を広げる前に。

 俺はあの日、考えると言って、文化祭のあとまで待たせた。


「ちゃんと考えてる」


 口にすると、天音の肩が少し動いた。


「そう。考えてくれてるんだよね」


「今、運用の変更もあって。文化祭が終わったら――」


 そこまで言って、止まった。

 昨日、自分が何を話したか、覚えていた。誰かを失いたくなくて、別々の相手へ都合のいい返事をしたこと。

 それを言えた次の日なのに、同じ言葉を探している。


「また、そのあと?」


 天音の声は大きくなかった。

 俺が言い直すのを待たず、彼女は続けた。


「忙しいのは知ってる。やることが増えたのも。だから、手伝いたかった」


「助かってる。本当に」


「それは、案内の返事でしょう」


 俺の手元で、紙が少し鳴った。

 力を抜くと、天音が自分の側の端を持ち直す。


「分かってるよ。すぐに好きって言えないのも、同じ気持ちじゃないことがあるのも」


 最後のところで、一度息を継いだ。


「でも、いつかちゃんと考えてくれるって言われると、まだ、待ってていいんだって思うの」


 ノアは何も言わなかった。

 窓の外で、ボールが地面を打つ音がする。


「私が手伝って、ちゃんと役に立ったら、終わったあと、一緒に帰れるかもしれないって」


 彼女は鞄を見下ろした。

 開いた口から、青い表紙の文庫本がのぞいている。


「昨日、友達に本屋へ寄ろうって誘われたの。新しい巻が出たからって」


「うん」


「私も読みたかった。でも、ここに来るかもしれないからって、断った。あとで一人で買いに行ったら、その子はもう帰ってて」


 知らなかった本の背を、俺も見た。

 読んだら、その子と何を話すつもりだったのか。ここへ来る前に、どんな返事を送ったのか。

 俺が作業の予定を聞くとき、天音は大抵「大丈夫」と答えた。


「行こうと思えば、行けたんだよね。ハルは、来てって言ってない」


 天音は唇を結んでから、顔を上げた。


「でも、空けておいたら、今日は返事を聞けるかもって思った。私が、そう思ったの」


「天音に、そんなつもりで手伝ってもらってるんじゃ」


「私が思ったことを話してる」


 遮られて、口を閉じた。

 天音は紙から手を離し、膝の上へ置いた。指先を握り込んでいる。


「そのためだけに来たんじゃない。ノアと案内を作るのは、楽しかった。あの看板を見て、本当に迷わず来てくれた人がいたのもうれしかった」


 ノアが、少し前へ寄った。

 天音はそちらを見て、小さくうなずく。


「それも、本当。でも、ハルに会えるから早く来た日もある。それまで、なかったことにしないで」


 朝、いつも机へ置かれていた原稿。

 角をそろえた紙。先に引き出されていた椅子。

 俺はそれを見て、今日も来てくれたと安心していた。


「考えてくれるって言葉を、好きの代わりに受け取るの、もうやめる」


 天音が言った。

 俺は、うなずくことも、首を振ることもできなかった。

 首を振れば、何を約束することになるのか、分からなかった。


     *


 天音は約束書を裏返した。

 青い色鉛筆の、丸い字が現れる。


『いやなら、いつでもやめていい』


 自分が書いた字だった。

 表へ回り込んだ花の線が、最後の「いい」の横まで伸びていた。


「これも、覚えてる?」


「……うん」


「好きなままでも、手放していいんだよね」


 天音は折り目を、一度だけ指で伸ばした。


「昔のハルに、怒ってるんじゃない。書いてくれて、よかったと思ってる」


 紙を押さえていた俺の手が、止まる。


「今日は、私がやめる。これを持ってたら返事がもらえるかもって、頼るのを」


 彼女はもう一度、紙をこちらへ寄せた。

 今度は、指を残さなかった。


「返したら、何もなかったことになるわけじゃないから」


「分かってる」


 すぐ答えてから、目を下げた。

 分かってる、と言えば、これ以上傷つけずに済む気がした。

 紙の上の名前は、何も変わっていなかった。


「ごめん。待たせた」


 天音は鞄を膝へ載せた。


「うん。待った」


 その短い返事が、胸へ残った。

 俺の謝り方を、優しいと言ってはくれなかった。


 机には、朝置かれた案内の原稿がある。

 俺はそれを、無意識に天音のほうへ向けかけた。

 彼女は手を出さなかった。


「明日の試験、私は来ない。委員会の作業をする」


 膝の鞄へ、文庫本を押し込む。


「そのあと、友達と寄り道する約束もした。先に決めたから」


「案内は」


「今日の確認分は、ここに置いていく。明日どうするかは、決めてください」


 俺は原稿へ目を落とした。

 読めないところを直して、分からなければ天音に聞く。そうやって予定を埋めていた。

 明日の欄にも、彼女の名前を入れるつもりだった。


「ノア。今日は、原稿を読んでもらうところまでできなくて、ごめん」


 天音が端末へ向き直った。


「お話は、聞けました」


 ノアはそう答えた。

 続きを急がず、天音が何か言うのを待っている。


「……うん。ありがとう」


 天音は立ち上がり、空になった封筒を鞄へ入れた。

 俺の前には、約束書が残った。

 返事を伝えるための時間を、頼もうとしていた。自分が話せるようになるまで、もう一度だけ空けておいてほしいと。

 その言葉も、口に出せなかった。


「次に話したいときは、先に聞く」


 天音が俺を見る。


「時間があるか。話してもいいか、ちゃんと聞く」


「そのとき、聞けるかどうかは、私が言うから」


「うん」


 彼女は携帯を取り出し、運営連絡へ明日の欠席を送った。

 送信の小さな音が鳴る。

 俺のポケットの中でも、すぐに携帯が震えた。


「明日は、あなたのための時間を空けません」


 天音はそう言って、鞄を肩へ掛けた。

 扉までの数歩を、俺は呼び止められなかった。

 机の向こうには、空いた椅子が一脚、残っていた。


     *


 今夜の三行


 一 天音さんは、毎朝名乗る約束をしていた。

 二 今日は、ハルに昔の約束書を返した。

 三 私は、今の天音さんの話を聞いた。


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