第三話 SΣTTL⧉MΣNT (1)
触れる事の出来ない薄い膜が幾重にも層になっていました。
虹の揺らぎを持つ奇妙な膜。触れる事ができない、というのは厳密には触れても感覚が無いだけで、実際に手を触れると薄布を繊維に沿って引き裂くように、簡単に裂けて粉々になります。
視界は濃霧によく似ていますが、息遣いで簡単に崩れる膜の中は静かで風もなく、足音が妙に響く場所でした。そのくせ発する声のすべてが消える、アノマリーらしさがありました。
膜の性質に面白がっていたのは最初だけで、油断すれば方向感覚が狂って石橋から転落するかもなんて考えた途端、不安に駆られてリュミンの後ろをぴったりとついて歩くことになりました。
思ったよりも層が厚いな、と思った直後。一気に視界は晴れ、強烈な谷風が全身に叩きつけられます。
前を歩いていたリュミンが脇によけ、飛び込んできた景色に目を丸くした私に楽しそうに言うのです。
「ついたよ。ようこそ、セトルメントへ」
石橋の残り半分。その向こう側にあった景色は散々おかしな景色を見てきた私にとっても、妙な景色でした。
小高い丘を中心にした、穏やかな草原にある小さな村、というのが一番簡単な表現の仕方でしょうか。この草原の中心の丘と、各所に点在する建物を土の道でつなげて、他の部分は背の低い草が敷き詰められた村。ただし、そこかしこに大きな穴が空いていて、それらはどうもパズルのピース型に不自然に穴が開いているようです。
遠目に穴の形がわかるのもそうなのですが、平たいパズルピース型の地面が青空に漂っています。草地や木が生えていたり、小屋ごと浮かんでいるのです。
上下さかさまのパズル型の土地の中には吊り橋で繋がれているものもあり、捩れた橋に重力がどう作用しているのか気になる光景までありました。洗濯ものを干している橋もあります。
橋につながってるピースは空中に固定されているようですが、それ以外のピースは村を周回するように漂っているみたいで移動しています。
「崩壊してます!」
思わず叫ぶ壊れ具合。
世界はとっくに壊れていますが、コロニーはここまで壊れてません。この村の光景に比べれば地味なものです。
『そうか? お前が普段過ごしてきた景色よりはまともだろ。リバインドが無けりゃ、世界中でこういう景色ができてたかもな』
「コロニーって奇跡みたいな場所なのでは? なんなんですかね、これ。私が知らないだけで他のコロニーも似たような感じですか?」
そんな事を言っている間にも、頭上の太陽をそこそこ大きなパズル型の土地が覆い隠して過ぎていきます。雲みたいな感覚なんでしょうかね。
「おいらもよくわからないけど、コロニーとの明確な違いの一つみたいだね。特定のアノマリー現象が露骨に出てる生活圏で、パッチとコロニーの中間みたいな場所かな。あ、地面の穴に落ちると助からないから気を付けてね」
「んー、なんだか人の住む場所に戻った安心感が無いです。むしろさっきより危険度上がってませんか?」
つい癖で後ろを振り返りますが、リムは姿を消しているのでした。たぶん、二つの目が開ききってるぐらいの危険度はあるのでは?
『人の気配も一切ないな。ここにきて騙されたってのは考えたくない、が』
まさかとは思いますが、ガンターに惑わされてつい疑いの目を向けてしまいます。しかしリュミンは慌てる様子もなく答えるのです。
「ちょうどお昼時だし、みんな家の中なんじゃないかな。ほら、寒いしこっちおいで?」
石橋の上は強烈な風が吹き上げ続けてます。ほんのり湿り気もあり確かに寒い。
とりあえず橋を渡り切り、踏み固められた土の地面に立てば、ふわりとどこからか料理の香りが漂ってくるではありませんか。何かのスープの香り、眠れる獣が目覚めんとする感覚をお腹に感じてしまいます。
橋を渡ってすぐの場所、道の脇は草の生えていない敷地があり、丸太が積んであります。その奥は石と、廃材の山。パッチで集めた物資の集積所みたいです。コロニーでも大きな資材というのは入り口付近に一時保管所があったので、これは知識と合致するので安心です。人の生活の気配を感じられますね。
「それで、これからどうすれば? キャラバンにお世話になる身としては、リーダーさんなりに挨拶が自然だと思うんですが」
内心、お昼先に食べたいと思いながらも礼儀を優先する私は大人。しかしリュミンは何やら遠くの空に向かって手を振っていました。話聞いてましたかね?
「それについては丁度いいのが来るから、ちょっと待ってね」
聞いてました。しかし丁度いいのとは? よくわからないですが、予想通りというか予定通りみたいな余裕が大変羨ましいですね。
すぐに手を振るのはやめて、何やら足元を指さしました。誰かと意思疎通をしているようです。空に住まう誰かと思いきや、遠くに浮かぶパズルのピース型の地面。捩れた橋が接続された逆さまのそれに向かって手を振っていたようです。
視力、悪くない方なんですが逆さまになったそこに、誰かいました。青い、空色の点にしか見えないそれは立ち上がり、その場で飛び上がり? 飛び下がり? とにかくジャンプしました。
遠目でよくわかりませんが、なかなかの跳躍力。
「え」
『な』
ガンターもびっくり、その人、やや前方に向かって跳躍、つまり逆さまの地面から飛び降りるように飛んでいたようで、一瞬、体が空に向かって落ちて行きます。
しかしその直後、正常に重力が働いたのか、こんどはちゃんと地面方向に落下をはじめ、その人は器用に空中で回転して煙を吐き出す建物の屋根に着地します。それからそこそこ傾斜のある屋根を滑り降り、屋根の縁で再び前に飛び出し、すぐ近くの木に突っ込んで枝を揺らし、どんどん下に降りていきました。とんでもない身体能力です。
地面に降り立つというか、落下したその人は衝撃を転がって受け流し、勢いを殺し切らずに駆けだします。姿がどんどん近づいてきて、何やら声も。
「しぃぃぃぃしょぉぉぉおおおお! いったいどこに行ってたんですかぁ!」
イコナさんほどではないですが、かわいらしい少女の声で突進してきた全体的に青っぽいシルエットの少女は、リュミンを射程に捉えると自身を弾とする空中体当たりを仕掛けてきます。両手を前に、抱擁するような姿勢の彼女でしたが、先日パッチ内で超高速で飛来する何かに狙撃されたリュミンには時が止まって見えた事でしょう。伸ばされた手を掴み、その場で足を軸に回転。飛び込んできた勢いをそのまま受け流して資材置き場の反対側に向かって放り投げます。気の抜けた「えい」が技量を表しておりました。
向かう先は草地。土まみれになるのも考慮した素晴らしい行き先。
結果、彼女は私の目の前をかっとんでいきます。
「んああああああああぁぁぁ!」
草地を転がる謎の少女。ようやく停止した頃にはお尻を突き出した情けない格好でぴくぴくと白い尻尾を痙攣させておりました。
「んー、状況はわかりませんが、何やらリュミンを心配してきてくれたのでは?」
イコナさんの明晰な頭脳が状況を判断いたしましたが、リュミンはふにゃっとした表情で答えます。
「そうだろうねぇ。おいら昨日には帰る予定だったからねぇ。でもこれでもおいら、打たれ弱いんだ。あの勢いの突進を受け止めたら壊れちゃうよ」
確かに、華奢な体つきが打たれ強いとは思えませんね。力と技量はかなりあると思います。
さて、どうするべきかと悩んだところ、ガンターが言います。
『イコナ。ここは助け起こして恩を売れ。新天地じゃ味方は増やしておいて損は無い』
「なるほど! それは確かに!」
リュミンがなんだか複雑そうな顔をしておりましたが、私は良心に従い謎の少女をお助けすることにします。
整えたのかと思うくらい、高さが均一になった柔らかい草地。そのなかに転がったまま目をまわしている少女の元へ歩み寄り、手を差し伸べます。
「大丈夫ですか? なかなか見事な転がりっぷりでしたね」
「お、おぉぅ…どなたかわかんないけど、かたじけない」
仰向けになり、目を回しながらも私の手を取る彼女。指先に触れた感触は肌ではなく、鱗。
「わ、たッ!?」
そして思いのほか強く引っ張られて、彼女に向かって倒れてしまいました。手をついて押しつぶすことはありませんでしたが、互いの距離が一気に近くなってしまいます。そして互いに息をのんでしまいます。
すぐ目の前には瞳。青い、宝石のような綺麗な瞳の真ん中で、縦に割れた瞳孔がきゅっと引き絞られます。
きめ細かい白い肌。頬に民族的な化粧を思わせる白い鱗。口元には八重歯と言うには鋭い牙。顔立ちは整っていて、耳元には白い角がティアラのように生えており、空色の髪を飾っておりました。
本能的にわかる。濃い、とても濃い、竜の気配。
「竜だ!」
「おわーッ!」
突然抱き上げられ、ぐるぐる振り回されます。
「すごいすごい! 兄さま以外で初めて竜の人みた! あなた何? どこからきたの? 頭の耳はウサギ? しかもかわいい! 師匠! この人ほしい!」
ほしいのタイミングで抱きしめられてしまいます。私より若干背が高く、発育も悪くないみたいで、大変柔らかかったです。
「ほらアマリ、離して。その人、おいらの命の恩人なんだからね?」
「え? こんなに小っちゃくてかわいいのに? 強いんだ!」
可愛いかどうかは個人の感想によるものですが、褒められて悪い気は致しません。とはいえ、初対面でそう連呼されると恥ずかしいものでして。
抱擁が緩み、少し離れてみれば、彼女はまだキラキラした目でこちらを見ておりました。
身に纏う衣服は白と青を意識したもので、動きやさを意識しているように見えます。薄い布地を使ったケープは綺麗な金の刺繍が施されており、下半身も人間らしさがありますが、露出した肌の部分は鱗が装飾的に現れています。
耳元の角に加え、腰元からは白い尾が伸びており、その形状は水中に住むのに適した尾ひれを思わせるもの。内側は水色の蛇腹が見えております。おそらく、水竜の類でしょうか。
背は私より高いですが、浮かべる表情は好奇心に満ちた子供の物。彼女の方こそ、かわいらしいという表現が似合っているような気がします。
「自己紹介! 自己紹介しよ! 私はアマリ! アマリ・ヴァルマード! この村に住んでるドラコニアンだよ!」
自身の胸に手を当てて興奮そのままに自己紹介。誇らしさすら感じるその紹介は、なんだか既視感がありますね。
そしてこの私が勢いに負けている? 会話の主導権を握るには勢いが大事です。第一村人に負けてられません!
「ふっふーん! 刮目するがよいです! この私こそ竜とウサギのキメラにしてリュミンの救世主! そして素敵な少女であるイコナさんです!」
ばーん、と決めポーズこそしませんが、胸を張って言ってやりました。
『なぁイコナ、自分で言ってて恥ずかしくは』
「ありません! 今はちょっとややこしくなるので黙っててください!」
アマリと名乗った少女の興味が私の腰元のお喋り端末に向きましたが、咳払いを一つして注意を戻します。
「すみません、初対面で申し訳ないんですが、ドラコニアンというのは? 竜と何かのキメラではなく?」
彼女の視線がこちらに戻り、それこそ自慢気に語ってくれます。
「ドラコニアンはドラコニアンだよ。竜人っていう、竜と人の種族! この村でもわたしと兄さまだけなんだから!」
「ほほう」
これは大変興味深いお話です。
この世界で暮らす人々は、キメラ種が占めています。
キメラ種というのは、人間を基礎に、二種類の他の生物の特徴がみられる混合種。組み合わせは多岐にわたり、そのルーツは旧文明の末期に生み出された、人工種族です。
壊れ行く世界を見据えて生み出された次世代のヒト種族。様々な過程で最も成功し、安定したのがキメラ種です。キメラ種の特性として、異なるキメラの組み合わせの相手だろうと、互いの間に子を成すことができるという事。その場合、人間をベースに両親に混ざっている生物からランダムに選ばれた二種の組み合わせになります。稀に先祖の組み合わせからもあるそうですが、相手を選ばないという点は種の繁栄と存続に最も貢献した要素でした。
ここからは酒場で語られるような話ですが、キメラ種以外にも人間は他の種族を生み出そうという試みはあったのではという仮説があります。特定の優れた種族さえいれば、それで十分だったのではと。
あり得ない話ではない。所詮ロマンの話。人獣種とでも呼ぶような種族はいるかもしれない程度のお話で、誰も確認したことが無い。でもいたら面白いぞ、くらいの話。
いました。放浪の果てに、まだ確定じゃないけど、自称竜人が。
「なるほど理解しました。どうりでリュミンが初対面で私の事に驚かなったわけです。竜人なんて珍しさを通り越した種族に会ってれば、竜とウサギのキメラなんてかすんでしまいますもんね!」
「んー、まぁ、おいらはまだアマリが本当に竜人なのか疑ってるけどねぇ。たまたま表面に竜が出てるだけじゃないかなって」
ありえない話ではないですが、キメラ種の特性上、どこかしらに種族の特徴が出るはずです。服で隠してる部分の可能性もありますが、個人的にはドラコニアンであってほしい。
なぜならロマンがあるから。彼女の出自について、詳しく知りたいところですね。
「それで? アマリはもう、おいらの心配はしてくれないのかな? ほら、一応怪我してるんだけど」
リュミンは呆れ気味に自身の左腕、包帯の巻かれた部分と黒く変色した袖を見せますが、アマリは何を言ってるんだと、理解に苦しむような顔で首をかしげるのでした。
「師匠ならそのぐらいの傷なんともないですよね? それよりわたし、イコナさんと友達になりたい」
「あぁ、そう」
自分の興味とかそういうのに忠実な子みたいです。リュミンってば可愛そうに。自分の事を師匠と呼んでくれてる子が初対面の人に取られてしまうなんて。心なしか少し気を落としているようでした。
まぁ、これも私が種族的に珍しいのが悪いですね。謝る気はありません。
「二人とも気が合いそうな気はしてたからいいけどね。さてアマリ。おいらの事を心配しないなら、お昼にしたいんだけど、食堂は今日は空いてそうかな?」
「ちゃんと心配してましたよぅ。食堂は今日は開けてたから、案内したげる。そこで色々お話きかせて!」
いよいよ温かい食事の気配に、尻尾がご機嫌になってしまいます。
「それはもちろん。では案内、お願いしますね」
ガンターの事を紹介し損ねましたが、まぁ些細な問題ですね。
アマリの案内で私たちは村の中を移動していきます。
気になる光景はやはり空に浮かぶパズルのピース型をした地面。つなぎ留められていない物に関してはどうやらゆっくりと、それこそ雲のような緩慢さで村の上空を時計回りに周回しているようです。
「空ばっかり見てるとおっこちるよ?」
「おぉ」
不意の指摘に立ち止まれば、あと一歩のところで固められた土の道を外れて、ぽっかりと空いた大穴が待ってました。それも空の景色を映した大穴。形はまさにパズルのピース型です。
「底なしどころか空の底とは。たまにありましたね、こういう穴」
『俺様のいる世界でも地面に設定された場所の情報が読みこめないとこういう穴ができるな。世界中どこもバグってるようなもんだし別に不思議じゃない』
世界の壊れ具合はずっと感じてきましたが、人の住む場所くらいまともであって欲しかったです。アマリの反応を見るに、彼女にとっては日常みたいですけど。
「ねぇ、さっきの声ってその腰の箱? みたいのから聞こえた気がするんだけど」
「彼については後ほどご紹介します。今はお喋り端末ぐらいに考えていてください」
「なるほど?」
リムほどではないですが、ガンターも存在としてはなかなか特殊です。お喋りアノマリーはとても珍しい。歩きながら話すと面倒な類です。
時折穴が開いているとはいえ、道は歩きやすく少しずつ建物が増えてきますが、建物同士の距離はそこそこ遠く、点々としています。
「師匠も最初珍しがってたけど、やっぱり地面の欠片って珍しいんだ?」
「それはもう。コロニーはもちろん、数多のパッチを渡った私でも初めて見ましたよ」
似たように大地が空中に浮かんでいるのは珍しくは無いですけどね。ここまで露骨に剥がれました、というタイプは初めてです。
歩きながら見た所、建物の多くは壁面などをブリキなどで補修した形跡があります。木造を複合素材で修復した形跡があるのは、コロニーでも見られる修繕方法でした。
ただ気になったのは、最初に見かけた一軒の家の敷地内に、固定式のバリスタがあるんですよね。外部の脅威に対したものにしては、ずいぶん上を向いています。空から何か襲ってくるんでしょうか。まさかあの浮いてる地面が降ってくる? バリスタって矢を撃つ道具ですが、対応できるんでしょうか。
アマリが着地した建物の横を通り、頭上に捩れた橋と空に固定されたピースの下を通っていきます。そこからさらに穴の開いてる草地を横目にしばらく進むと、村の中心へと続く広い石畳の道、その末端の広場に出ます。
広場の真ん中には大きな平たい石があり、石畳の続くみちは丘の頂上へ向かうにつれ建物が多くなっていますが、この広場自体に隣接する建物は横に広い大きな建物が一軒と、背の高い塔が一つ。塔の最上部からは橋が架けられていて、繋がってるのは小屋ごと大地から切り離されたピースで、洗濯ものが干されていた橋もコレでした。
「そっちの塔は見張り塔。食堂はこっちだよ」
両開きのドアを押し開けば心地よいベルの音。彼女に続いて横に広い建物の中へ入っていきます。
聞こえてきたのは喧騒、ではなく、石製の床をブラシで擦る音でした。
「おばさま! ごはん!」
アマリの元気な声に、床を磨いていたその人は顔を上げ、腰に手を当てて笑うのです。
「ついさっきまで師匠が戻らないってしょぼくれてたのに、元気になったって事は……あぁ、やっぱりね。我が村の英雄の凱旋だ。それと」
眉をひそめて困惑。見知らぬ人に正しい反応です。
「その英雄さんの命の恩人です。イコナと呼んでくれていいですよ」
腕を組み、口元を手で覆う仕草は品定めをするようなどこか威圧的なもの。ブラシから手を放しても床に落ちなかったのは、彼女の腕が背中にもう三対あるからです。
細い、蜘蛛の足。その先端部分は鳥類のタロン呼ばれるそれで、器用に柄を掴んでいるのです。それ以外の部分は人間のもので、エプロン姿よりも露出の高いドレスとかの方が似合いそうな印象でした。
「そうかいイコナ。あたしはマーニ。蜘蛛と鳥のキメラで、この小さな村で腹を空かした連中にタダ飯をくれてやるのが仕事さ。でもそれはここにある食材が村の共有財産だからだ。よそ者のあんたは村のために何をしてくれるんだい?」
ん、あれ、これ普通に代金支払ってご飯を頂ける感じじゃないですね? 昨夜のうちにこっそりお財布を出しておいたのに!
リュミンの方を見てみると、知らないと首を横に振られてしまいました。どういう事でしょう。
困惑していると、びたん、とアマリが尻尾で床を叩き、怒ってますと腰に手を当てて言うのです。
「おばさま、あんまり困らせないでよ。イコナさんは師匠の恩人で、わたしのお客なんだよ? からかうのはやめて」
一呼吸の沈黙の後、マーニと名乗った彼女の視線が和らぎ、次の瞬間には愛想のいい笑顔を浮かべていました。
「いやいや悪い悪い。外からの客人なんて滅多にいないもんでね。ここに来る村の連中は同じ顔ぶればかりで飽き飽きしてたのさ。そうしたらずいぶんかわいらしいのが来たからついからかいたくなってねぇ。あぁ安心しな、代価なんて必要ない。その代わりメニューを選ぶなんて贅沢は無しだからね」
言うなり彼女は踵を返して、ついでに机の上にあげられていた椅子を背中の腕を使って手早く降ろしていきます。なかなか素敵な女将さんですね?
濡れた石製の床に、並んだ机。火の灯ってない暖炉とシャンデリア。カウンター席もありますが、奥に並ぶのは並んだカマドやオーブンです。厨房が見える類の食堂ですが、外観ほどの広さを感じません。きっと大部分が倉庫とかになってるんだと思います。
「お昼の時間が終わって一段落してたのに悪かったかな?」
「師匠は村のためにがんばってくれたんだから遠慮しなくていいの! それにおばさまいつも掃除終わると暇すぎるって愚痴ってるから大丈夫。この時間は窓際が気持ちいいんだ」
軽い足取りでアマリが向かった窓際の席は、確かに程よく日が差し込んでて気持ちがよさそうです。まだ椅子が円卓の上に乗っかっていましたが、彼女は遠慮なく床に降ろしていきます。
リュミンと共にアマリと同じ席に着くころには、お店のさらに奥で何か準備する音が響き始めてました。
「ここでご飯食べて、お腹いっぱいになったら子供たちが広場で遊ぶ声を聴きながらウトウトするのが一番気持ちいいの。今の時期が特に好きかも」
彼女が窓を押し開けば、心地よい風が室内をかき回します。柔らかい春の風。広場にはまだ誰もおらず静かなものでしたが、村の通りを抜けてきたから、風の匂いは少しだけ人の住む場所の匂いがしました。
首の後ろで細く束ねた空色の髪が風に揺れ、優しい日差しの中で柔らかい笑みを浮かべる彼女は嫉妬してしまうくらい、穏やかな日々を送ってきているのでしょう。
「アマリ、飲み物だけでも持って行っておくれ」
「あ、はーい」
呼ばれた彼女が席を離れ、一度姿が見えなくなります。
「なんだか、いい子ですね」
素直で元気、裏表を感じさせない、お話していて気持ちがいいタイプ。人を疑う事とか知らなそうです。田舎娘ですね。
『そうだな。だが師弟関係を結んでるにしちゃ、師を蔑ろにしすぎてるようにも見える。見慣れちまってるが、片袖が染まるぐらいの出血だぞ? おまけに洗って落ちる類の汚れじゃない』
ガンターの言う通り、乾いて赤黒くなった袖は洗ってどうこうできるとは思えません。旧時代ではこんな汚れも落とせる職人さんがいたそうですが、その技術をコロニーに持ち込めば一財産作れそうですね。
「皆に大事にされてるみたいだからね。悪意なんて向けられた事ないんじゃないかな。服はまぁ、諦めるよ」
今着ているのが鉱員を思わせるシャツなのは、もしや戦闘や怪我の度に血で染めているから? 世の中にはアノマリー由来の素材を使用した、職人いらずの汚れが落ちやすい衣類とか、特定条件で形状が戻る再生布なんてモノがありますが、自身の身体に合わせて作ってもらうから尋常じゃない金額になるんですよね。場合によっては取り換えた方が安上がりです。
ちなみにイコナさんが着ている衣類は最高級までは行きませんが、比較的汚れにくく、見た目以上に柔らかく軽く丈夫です。再生こそしませんが、特注品。お値段に換算するとコロニーで一年は遊んで暮らせますかね。
そんな事を考えているうちに両手に木製ジョッキを三つ持ったアマリが戻ってきます。彼女はゴンっと音を立ててそれらを置き、自らも席に着きました。
「あ、さっきの声の人の分も用意した方がいい? 姿が見えない、透明な人なのかな?」
気遣いもできるじゃないですか。いい子です。
「大丈夫ですよ。残念なことに彼は飲み食いもできなければこの世界に干渉もできないのです。できるのは他者を皮肉るだけ。実に哀れなので、優しいイコナさんは旅の連れにしてあげているのです」
『お礼に寂しい旅路を賑やかにしてやってるんだがな。俺様のできる唯一の恩返しを、こいつは危ないからって電源を落として口封じしやがる。それに忘れちゃいないぞ。連れていくかどうか決める時に、喋るアノマリーってコロニーで高く売れるって言ったのをな。いい機会だから聞くが、良き理解者である俺様を今でも売ろうなんて考えちゃいないよな?』
「わ、なんですかコレ? 甘さと酸味が素敵な感じです」
『おい! 真面目に答えてくれ! 頼む!』
木製ジョッキに注がれていたのは、薄い乳白色の液体。驚くことに冷えていて甘みと酸味のバランスが絶妙です。
さっぱりとした後味はなかなか素敵です。味のついた飲み物はたまに飲んでいましたが、甘い系は本当に久しぶりでした。ガンターが何か言ってますが、聞き流しちゃうおいしさです。
「は、すみません。こういう時は出会いとか何かに乾杯するんでしたっけ? 誰かと食事って久しぶりどころの話じゃないので忘れてました」
「おいらは気にしないし、アマリももう飲んでるし、大丈夫だよ。まぁ、イコナのお帰り記念って意味じゃ、一応しといたほうがいいかもねぇ」
そう言ってリュミンがジョッキをこちらに掲げます。知識でしかしらない行為ですが、見よう見まねで私も自分の分のジョッキを掲げ、ごつんとぶつけます。
「今までおつかれさま、おかえり」
優しく言われ、不覚にも、ちょっと泣きそうになります。机の下でぎゅっと拳を握り、溢れそうになる感情を抑え込みます。
「ただいま、でいいんですかね? 知らない土地に来ているというのに」
もちろん人の住む領域に戻ったという意味なのはわかってます。冗談で吹きこぼれそうな感情に水を差したのです。
「イコナさん、わたしともやって!」
尻尾の先をぱたぱたと振ってるアマリ。口の端をもちあげて、今度は少し強めに乾杯。中身が波打つ勢いでした。
「おかえりー!」
まだ何も事情を話してませんし、何かいいことぐらいの感じのいい方ですけど、素直に祝ってくれてるようで純粋にうれしかったです。素直な子の祝福はまっすぐ心に入ってくるから気持ちがいいです。
誰かさんと違って。
『なぁ、マジでそろそろ紹介してくれ。楽しいお食事会で俺様唯一の取り柄を失ったままってのは辛い』
食事を楽し無ことはできない彼としては、歓談こそが醍醐味となるのです。
仕方がないのでポーチから取り出し、傷だらけの娯楽端末を机に出してあげます。
「紹介が遅れましたが、こちらはガンター。娯楽端末型アノマリーに宿る謎の皮肉屋です」
『言葉の一つ一つにいつだって真心を込めてる。ただの皮肉に聞こえるなら長い耳が捻くれてるんだろうな。それはともかく、普段は自称竜のキメラを孤独死から守る崇高な役割を担ってる。ついでに言うとお前さんの師匠の傷の治療を間接的にやったのが、俺様だ。どうぞよろしく、ドラコニアンのお嬢さん』
姿があれば両手を広げて大げさにお辞儀でもしてそうです。前半はともかく。
「すごいねー。娯楽端末なら後で遊んでみてもいい?」
『構わんが、アノマリー化したランダム複合ジャンルバグ祭りゲームを初心者がクリアできるとは思えん。我ながら時代が時代ならクソゲーとして一躍有名になっただろうな。そういう意味じゃ完成度が高いんだが』
ガンターの端末に登録されているゲームなる娯楽は、理不尽の塊と言うべき難易度となっております。彼はそのゲーム世界の住人の一人が人格を持ったらしいですが、操作キャラである主人公を見ると本能的に頭を吹き飛ばしたくなるんだとか。つまりガンターの機嫌一つで即ゲームオーバーで、物語に予定されていない動きをガンターがすると進行不能、彼の言う所のバグが発生いたします。
おまけで登録されてるパズルとかボードゲームとかの方がよほど楽しいですね。対戦もできますし意外と種類も多い。
「ガンターに興味を持ってもらうのもうれしいんですが、イコナさんとしてはこの村の方が気になりますね。入り口からここまで来ただけでもよくわかんないですよ。結局、セトルメントってなんなんですか?」
アマリの事も気になりますが、足元から固めていきたいです。
「んー、村?」
住んでる本人の回答。村。
見ればわかります。でも村にしては壊れてますよね。壊れ具合、多分住んでるから自覚がないんだろうなぁ。動かない空き缶とかならコロニーにも出るんですけどね。
「いや、だって自分の村がセトルメントって呼ばれてるのだって師匠たちキャラバンの人達が来てから初めて知ったんだよ? 何って言われてもわかんないよぅ」
助けを求めるような視線はリュミンに。しかしジョッキを傾けたリュミンは、意地悪な事を言うのです。
「おいらが説明すると話がこじれるとおもうし、つまらないよ? イコナはそういうの考えるの好きな方じゃない?」
「ぐぬぅ、一日も経ってないのによく理解されてますね。確かに、そういう考察は大好きですよ。真実はともかく、空想する分にはね」
アノマリー見つけてアレコレ考えるのも大好きです。アノマリーに対する考察なんて無駄になることがほとんどですから、暇つぶしですけどね。
「今のところ、アノマリー現象が強く出てる人口密度の低い居住地って印象ですね。パッチ境界線を作るアノマリーもコロニーとの違いですが、アマリさんの反応から外部との交流が絶たれている状態が基本みたいですね。キャラバン未登録、つまり未発見状態の居住地でもありそうですが、もっと重要な何かが明確に名称を分けてる気がします」
「おー、イコナさんはもしや頭がいい竜の人? さすが師匠の恩人だねッ!」
『まぁ、頭の回転は悪くないな。回転だけは』
「ふふん、褒めても笑顔しかでませんからね!」
アマリは本当に素直でいい子ですね。友達というか、妹にしたいです。頭を撫でてあげようか。ところでガンターは遠回しに馬鹿って言いました?
厨房である奥の方では何やら一人以上が料理をしているであろう作業音がしています。進捗が気になり少し覗き込んだところ、マーニのあの背中にある腕がそれぞれ動いて料理をしているようで、作業効率がいいどころの話ではありませんでした。キメラとしての職業適性がありすぎるようです。これは思ったより早くご飯にありつけるのでは。
雑談は続きます。
『俺様からもきいていいか? ドラコニアンってのは本当か? ド田舎に人間が残ってましたって話よりかは信じてもいいが、キメラ以外にヒト種族が存在するってのは、正直疑うところだ』
アマリについての質問。これも私が気になっていた部分です。
しかしこちらも本人はうーんなんて言うのです。
「わたしも兄さまも特別なの。両親が誰か、いつ産まれたのかわかんないし、小さいころに外の古い遺跡で兄さまと一緒に拾われたらしいんだよね。わたしはまだ物心つく前だったから全然覚えてないんだけど、みんなもわたしはドラコニアンって信じてて、そう育ってきたんだ」
アマリは人差し指を立てると、それを自分のジョッキの上に持っていきます。少しだけ目が細められると、指先に白く色のついた小さな風が集まり、真っ白な氷になって一粒、ジョッキの中に落ちていきます。本物の魔法。コロニーでも自慢できるモノでしょう。
「みんなより丈夫で、みんなより運動ができる。魔法もなんとなくやり方がわかるし、だんだん強くなってるの。力も村で二番目に強いんだ。それに体のどこにも竜以外の他の生き物の要素が無いみたいで、今更違ってもちょっとショックというか、今更ドラコニアン以外の可能性を考えられないというか」
「わかります」
激しく同意しちゃいました。アマリの綺麗な青の瞳がこちらに向き、私はまっすぐに言ってあげるのです。
「私も自分が本当に竜のキメラか悩んだ時期がありました。でも悩んだところで私のこの尻尾は変わらないわけですし、竜であった方が嬉しいのです。証明する方法が無いなら理想の自分を自分で体現すればよいのです!」
まぁ、その後私は本当に竜とウサギのキメラだと知ることができたんですが、その話はまた今度ですね。
「事実がなんであれ、本人が『かくあれかし』と堂々としていれば事実もついてきます! つまりドラコニアンらしく振舞えればあなたはドラコニアンなのです!」
アマリの瞳に少し沈んでいた悩みが光に照らされ、まぶしいばかりの尊敬の念が私に向けられます。
「すごい! さすが師匠の恩人だ! こっそり悩んでたことが解決しちゃったよ! どうしよう師匠、わたし師匠が二人になりそう!」
「えぇ? それおいらに相談する?」
さすがにリュミンも困ってました。内心、弟子を取られそうで焦っているに違いない。
そんなアマリに素敵な提案を思いつきます。
「仕方が無いですね。師匠枠が埋まってしまっているなら、イコナさんの事は特別におねえちゃん、って呼んでもいいですよ?」
花開くような笑顔、というものはまさにその瞬間の彼女の事です。
「イコナ姉さま!」
比べることもできない素敵な笑顔で悪意の一切を感じられない呼び方。どうしましょうか。この子、本当に妹にして連れて行ってしまいたい。村に残ってなんて旅立ちの日に言われたら揺らいでしまいますよ。
『…妹って言うには背もそれ以外も負けてないか?』
名称不明の飲み物を一口、ジョッキを置こうとしたら偶然ガンターの上に置いてしまいました。強めにガツンと角を当てる感じで。ついうっかり。誰ですか、彼をこんな場所に置いたのは。
そうこうしているうちに食堂に食欲をそそる香りが立ち始め、あまり紹介したくない内なる獣が唸り始めます。缶詰を暖めたとか、そういうレベルじゃない料理の匂い。肉が焼かれ、野菜が焼かれ、あるいは煮込まれて、どうにかされて美味しくなっていく音と香りです。
待っている間にあれこれアマリに聞こうとしていたのに、どうでもよくなっていきます。
しかし質問攻めしたいのは彼女も同じようでした。
「結局、師匠はどこに行ってたの? 今朝、まだ戻ってきてないって聞いたときは心配したんですよ?」
「心配してた割にはイコナに夢中だったよねぇ?」
にこりとアマリに微笑むリュミン。ちょっと根に持ってますね。
「でも! そもそもわたしはまだ置いてった事許してません!」
机を叩いて立ち上がる彼女の様子はまさに憤りの強さを表してました。とはいえ彼女はドラコニアン。竜の力を持つ彼女が机を爆砕しなかったという事は、そんなに怒ってないのだと思います。
リュミンはジョッキに口をつけ、しみじみといいます。
「そりゃおいらがこんな怪我するくらい危険な場所に行ってたからね。イコナに助けてもらってなければどうなってたことか」
「むぅ」
席に着き、あれこれ出てきそうな言葉を飲み物で一気に流し込むアマリ。だけど納得はしていないみたいで、まだリュミンにじとっとした目を向けてました。私に向けてた表情とはまた違う魅力がありますね。
「カバン、何にも入ってないみたいだけど、何か拾いに行ったんじゃないんですか?」
いつの間にか床に降ろしてあるリュミンの背負い鞄はしおしおです。助けた時もそうですが、水筒くらいしか入ってませんでした。
「マルセナからの調査依頼だったからね。セトルメントの隣接パッチにあるリフトがどこに繋がるのか、傾向を調べてたのさ。おいらはよくわかんないけど、法則性があるのかもねぇ」
「調査…わたしも行きたかったのに」
りふとって何でしたっけ? あ、あれか。看板まみれの二つのパッチを繋ぐトンネルみたいな。
マルセナというのはキャラバンの仲間でしょうね。なんて余計な事を考えて空腹を紛らわしていますが、そろそろ限界かもしれません。頭も回んなくなってきました。
イコナさんは放浪生活で万年糖分不足。ちょっと頭使うと目が回るのです。
香りが強くなり、自慢のウサギ耳は何かが煮込まれるくつくつという音を拾い、机に突っ伏してしまいます。耳はぺたんこ、尻尾も床に墜落。空腹をごまかすために飲んだジョッキの中身は空になり、これ以上飲めば空腹というスパイスが薄れて食事の感動に差し障る。
「おかわりもってくるね」
アマリが気を利かせてジョッキを持って行ってくれます。突っ伏したまま窓の外を見れば、雲の代わりに奇妙な形の土の板が窓枠で切り取られた空を横切っていくところでした。
目を閉じていっそひと眠りしてしまいましょうか。体の片側だけに陽の光が届くこの席は、アマリの言う通りとても気持ちがいいです。
完全に気が抜けてます。昨日の今頃はまだコロニーを期待なんてしないで探していましたっけ。それとも缶詰モドキが飛んで行ってましたかね。リフトを通過した時の時差を考えると、一日経過してないのか。
「ほら、来たよ」
跳ね起きるように体を起こせば、背面の腕と両手に料理をそれぞれ持ったマーニの姿。その後ろにジョッキを持つアマリもいます。
「待たせて悪いね。簡単なもんだけど、遠慮なく食べな」
「お、おぉ!」
最初に机の真ん中に置かれたのは、甘い香りのする厚切りのパン。軽く焼いてあるようで、最高級小麦でも使っているのかと思える上質な香りが離れていても感じられます。
それぞれの席に並ぶのは、白色のスープ。こちらも缶詰よりもずっと濃く、優しい香りがします。
さらに黄色く、楕円型に成形された卵料理には厚切りのお肉が添えられてます。おそらく塩漬けでしょうが、かなり豪勢に思える厚みです。それが一人一皿。卵も貴重なのでは?
おまけとばかりに木皿には丸い、正体不明の何かがでん、と乗せられて机に置かれます。
「珍しいもんばかりかもしれないが、味はキャラバン連中もお墨付きさ。うちじゃまぁ、ちょっとご馳走くらいの感じさね。さぁ召し上がれ」
召し上がれと申されても、缶詰生活が長すぎて料理の正体がわかりません。パンとスープと、卵料理と肉と、何かです。
リュミンもアマリも料理に手を付けず、マーニも腕を組んで私の方を見てます。反応待ちですか。
「えっと、見られてると気まずいんですけど、何から手をつければ?」
『そうだな。とりあえずパンじゃないのか? 散々、焼きたてのパンが食べたいって愚痴ってたろ』
確かに。焼きたてのパンは私の悲願の一つでしたね。主食で好物です。
「では、いただきますね」
贅沢すぎるくらいに厚切りにされたパンを一切れ手に取ってみます。温かく、柔らかい。何か溶けたモノが染み込んでいるようですが、香りだけで喉が鳴ってしまいます。
口を大きく開けて、獲物を仕留めるように自慢の牙で噛り付いてやります。
表面はカリカリに焼けているくせに、内側はふわふわとしていて、口いっぱいに広がる濃厚な小麦の香りと、塩気に合うなんか、じゅわっとする甘い油。
いろんな言葉が浮かんだのですが、結局は一つの言葉に全部押しつぶされて、満たされてしまいます。租借して、味わって、飲み込むタイミングがちょっとわからなくなりながら、こくりと喉を鳴らして。
「おいしい」
誰にも聞こえないような声で呟いた言葉が全てでした。
もちろん、味そのものに対する感動もあったのです。今まで感じた事ない品質の良さがわかる小麦の香りと味、塩気のバランスに、隠し味にしては隠れてない甘い油の事も、語ろうと思えば語れました。
だけどそれ以上に、何年も、忘れてしまうほどに長い時間を耐えてきた日々の終わりがようやくやってきたのだと実感できて、溢れてきた全部を一言で閉じこめたのです。
強がってました。辛いのを隠して。リムがいるから大丈夫と。自分は運が良いと。気楽に、自分らしく振舞って、いつかこの日々が報われればそれでいいと。
二口目をよく味わって、飲み込んで、今度は背もたれに体を預けて、天井を見上げます。
「大変よく、がんばりました」
私が頑張ったことは、私が一番よくわかってます。だから心の底から褒めてあげました。
親しい誰かに抱きしめてもらいたい気分です。でもリムはそこまでしてくれないし、ガンターには手足が無いし、そういう柄でもない。なら自分が褒めてあげるしかないです。
一度目を閉じて、深呼吸して、吐き出す。机に向き直った私は、次は丸っこいスプーンを手に取り、白色の濃いスープを一口、味わおうとしましたがすぐに飲み込んじゃいました。込み上げてくるものを押し込めたかったから。
次は卵料理、お肉にもかじりついて、次は白い謎の塊、は食べ方がわからず、固まってしまいます。
「イコナ姉さま、これはパンに乗っけたり、スープに入れてもおいしいよ」
さりげない新しい妹のフォロー。適量を切り分けて乗せてくれたパンを渡され、一口。思わず立ち上がり、頭上に掲げてしまいました。
「正体不明ですが優勝です! おめでとうございます!」
自分らしい言葉を大きな声で。誰も浮かんでた涙なんてわからないくらい、明るく言ってやりました。だけど本心です。
どれもこれも缶詰が物悲しくなるレベルでおいしいのですが、焦がれていたパンを引き立てる独特の触感と味に、テンションが振り切れたのでした。
「どれもこれもイコナさんの遭難生活の終わりを告げるに値する素晴らしい料理です! この白い塊は特に素晴らしい、保存性を高めてコロニーに出荷しましょう!」
「既にされてるよ? それチーズだから」
自身の料理にも口をつけつつ、リュミンが言いました。
チーズ。これが? あの白くて硬くてなんか紙がついてる匂いが強烈な物体がこれですか? もしや乾燥させるとアレになる? えぇ…?
「まぁ、こういうフレッシュチーズは全然違うよねぇ。パンもバターが塗ってあるし、正直コロニーなんかよりセトルメントの方が食は豊かだよ。野菜も新鮮だし、煮込まれてても違いがわかるよ」
「なるほど、コロニーとセトルメントの違い。食文化が圧倒的に違いますね。完敗ですよ」
これはなんとも悩ましい。こんなに美味しい食べ物が毎日食べられるなら、コロニーなんか行かなくてもよいのでは? 多少壊れてても、順応できれば良いのだし。
「やっぱり遭難者だったかい。なら、特別にデザートも用意してやるさ。とりあえず、ゆっくり味わって食べな。おかわりはいくらでも出してやるからね!」
「言われずともそのつもりです!」
そのあとは行儀も気にせず、スープなんて鍋ごと用意していただいて満腹までいただきました。
交わした会話は他愛なく、チーズをどれくらいスープに入れるのがいいとか、このパンだったらこういう食べ方もいいとか、そんな話です。お肉は塩漬けのもので、溢れ出す脂のうまみが塩で引き立てられてこれもまたパンに挟むと暴力的なおいしさでした。
デザートはプリンとやらで、贅沢なほどに甘く、柔らかく冷たい代物。砂糖を焦がして作ったというカラメルなる黒い蜜の苦みとの相性が絶妙で、悶絶いたしました。コロニーに存在していてほしいです。
楽しい時間はあっという間に終わっていきます。はしゃぐ私を、姿を隠しているリムは相変わらず無感情に見てるんでしょうか。少しくらい、微笑ましく見てくれてると嬉しいです。
あなたのおかげで私はここまで来れました。伝えきれないほど感謝をしています。
だからこそいつか、あなたに恩返しをさせてほしい。でも今はもう少しだけ楽しませてください。




