第二話 B⧉UИ⧉DΛЯ⧉
夜明け頃に自然と目が覚めるのは長い放浪生活の中で染みついた癖で、具体的に何をきっかけに目覚めているのかは、自分でも不思議に思う所です。たぶん、目覚めていく世界の呼吸的な何かを感じているのです。
自分のものでも世界のものではない静かな息遣いに耳がピクリと動き、重たい瞼を持ち上げれば、空はまだ色づき始めたばかり。二度寝の誘惑に駆られるも、体の方が勝手に寝袋から出ていきます。生存本能しかり、私の体はしばしば本人の意思を良い方向に無視することがある。
このまま丸くなってしまいたい、と思う頃にはふらつきながら立ち上がっており、あくびを噛みしめながら空に向かって両腕を上げて伸びをしてるのです。
狭い寝袋で固まった体がほぐされる心地よさ。そこに夜明け特有の澄んだ空気が胸に入り込み、眠気に止めを刺します。
「視界良好。空の柱もよく見えますね」
見上げた空はまだ暗い色をしていますが、吸い込まれるように伸びている二本の細い筋は先だって朝焼けを浴びて紺色の天幕に薄く緋色の線を引いていました。
空の深さ、世界の広さというものを見上げただけで感じられる瞬間。世界が壊れてても、終わりの見えない放浪の中でも、不安や孤独を含めたいろんな悩みがちっぽけに感じるのです。
空の柱が見える夜明けが好き。ずっと前は幸運の象徴なんて、と笑ってたのに、今では見つけるだけで嬉しくなるくらいに存在に惹かれているのです。
幸運効果も実証されましたしね! これから訪れる未来を考えれば崇め奉る必要がありますね。確かこういうのを、推し活とかいいます。
私の中での神格化への検討もほどほどに、ジャケットやらベルトやらを装備して身支度を整えて半壊した壁から顔を覗かせれば、まだ見慣れない人影が視界に入ります。
「……ねてるし」
すっかり火の消えた焚火の近く。瓦礫に背中を預け、腕を組むようにして寝息を立てる犬とヤギのキメラ。寝ずの番をする、と言っていた割にはずいぶん気持ちよさそうに寝ています。
肩に巻いた布に血は滲んでません。出血は止まっているようですが、それなりに血が出ていたので肉体的な負担はあったはず。血をたくさん流すと疲れます。お肉をたくさん食べて、たっぷり寝ていただきたいところ。怪我が原因で病気にならないか心配です。高品質の医療品というのはこの世界では大変貴重ですからね。特に傷が原因の感染症の類は致命的。思えばこの危険な世界で私はそこまで大きな怪我というのはしなかったですね。リムのおかげですけど。
足音は静かに、だけど一応声だけはかけておきます。
「起きてください。もうすぐ朝ですよ?」
「ん……うん………」
返事はしますが、身じろぎして倒れるように横になってしまいました。もう少し寝ててもらいますか。どういう訳か、荷物らしい荷物はありませんし準備なんてすぐに終わるでしょう。
寝袋を畳んで旅支度。いつ危険に見舞われるかもわからないパッチ内部では、就寝前に荷物をある程度まとめておくことをお勧めします。寝起きにだるさを感じる方は特に。
諸々の準備を終え、あとは大鞄をリムに預ければ終わりという状況になっても、リュミンは起きません。
リバインドが発生するのは本日の夕方あたり。コロニーによって若干変動しますが、十八時には到着していないと問題があります。目的地のセトルなんちゃらまでどのくらいかわからない身としては、落ち着かない状況。昼頃には着くとは聞いていますが、パッチ内部では常に余裕が欲しいです。ただでさえ道中は余裕なんて無いんですから。
『おいおいマジかよ。寝ずの番をするって言ってたような気がしたが、あれは俺様の空耳か?』
横倒しになった柱の残骸に無造作に放置していたガンターも起きたようです。手帳型娯楽端末である彼も一応睡眠欲というものはあるようです。起きてるのか寝てるのか見た目ではわからないんですけどね。
『おい起きろリュミン。夜明け前には起こすって言ったのてめぇだろうが。イコナに悪戯する約束はどうした』
「あなた達何を話してたんですか?」
楽しくお話していた二人を置いて先に寝たのは私ですが、よもやそんな企みをしていたとは。
はっきりと声をかけられても、リュミンは気持ちよく寝てます。昨日も散々眺めましたが、寝顔だけなら本当に女の子みたいです。まつ毛長い。強制的に意識を刈り取られていた昨日とは違い、気持ちよさそうな寝顔は平常心を保てない方には刺激が強いものに見えます。
『こいつまさか一度寝たら絶対に起きないタイプか? マジで手遅れになる前に起こした方がいいな。よしイコナ、蹴飛ばせ』
「わかりました! 今度からそうやって起こしますね!」
ガンターのいる端末は何をやっても傷がつかない。蹴飛ばすくらい余裕ですね!
とはいえ、さすがに昨日知り合ったばかりの相手を乱暴に起こすわけにもいきません。お優しいイコナさんは焚火跡に顔を向けて寝ているリュミンの背中側に回り、傷に触れないよう体をゆすって差し上げます。
「そろそろ起きましょう、リュミン。イコナさんは今日中になんとしても焼きたてのパンが食べたいです。今なら目覚めのハグもお付けしますよ?」
なんて冗談を言った直後でした。
「んー」
寝返りを打ったリュミンが不意に腕を伸ばし、ん? と思った瞬間には視界が傾き世界が横向きに。そのまま力強く抱きしめられてしまいます。
視界はほとんど覆われ、血に混じった甘めの匂いがすぐ近くに。ふわふわの毛に覆われた足が絡まってきて、なんかこう、抱き枕にされた感じでした。
力強い抱擁が緩み、押しのけるように離れて顔を見上げれば、なんだか嬉しそうな笑顔を浮かべてました。
「へへ、はぐー」
寝ぼけてましたね、完全に。幸せそうな笑顔。素敵な少女で希少キメラであられるイコナさんに触れられてよかったですね。
左肩に触れてぎゅっとしてあげました。
「痛い!」
これで目が覚めたでしょう。
いきなりの抱擁はさすがのイコナさんも驚きでしたが、転がるように離れてから立ち上がります。
なるほど、これが悪戯か。
冷めた目でガンターを見ますが、彼はすぐに声をあげます。
『待て待て、さっきのは冗談だぞ? 誓って打ち合わせなんてしてない。ところで結局男と女どっちだったんだ?』
「それはよくわかりませんでした」
一応、肩を掴んだ手を見てみますが、血はついてないです。すっかり乾いて出血もないみたいですね。止血がちゃんと出来てて何よりです。
「さて、イコナさんはもう出発の準備ができてますので先に下で待ってますね?」
それなりの重量のある大鞄の元へ移動。かがんで両肩をそれぞれ通し、背中に乗っけるような姿勢で背負います。ふとももが悲鳴を上げるのを無視して立ち上がった後は、尻尾でバランスを取りつつ階段へ。背後では聞きなれた声がなにやら騒いでました。
『おいイコナ、赤面してるのはわかるが俺様を忘れてるぞ! 置いてくな、おい!』
体を起こしたばかりのリュミンを横目に、薄暗い階段をゆっくり降下。
赤面、しているかどうかはわかりませんが、心拍数が妙に上がったのは事実です。乙女的なアレコレじゃなくて完全に驚きの方ですね。不意打ちにびっくりしましたよ、本当に。
空っぽで埃っぽいだけの一階部分を無視して外に出れば、背負っていた荷物の重量が突然なくなります。
「おはようございます、リム」
建物の脇、中からは死角になっていた場所で門番のごとく待機していたリムが鞄を摘まみ上げてくれたので、ばんざいをして素直に渡すと、彼はいつもみたいに肩ひもに首を通して鞄を首元にぶら下げます。これで私に懐いている生き物なら、撫でろと顔を近づけるものですが、彼はぼんやりと空を仰いでました。視線の先はおそらくまだ色のついている空の柱です。
六つの目のうちの二つだけが開いていて、それもすごく細い。なんだか退屈そうにも見えます。
リムの目が開けば開くほど、私にとって危険があるという事。逆に閉じていくなら、警戒すべきアノマリーも近くにはない。
「これも人が住む場所がある証ですかね」
コロニーに直接隣接するパッチの区画は脅威度が低い傾向にあります。つまりアノマリー生物は大人しく小型に、アノマリーも嫌がらせのような罠型が多くなります。
コロニーの持つ安定した環境がパッチにも影響している、という説があり、隣接するパッチの環境が変化しないのもそれが関係しているとか。この説を頼りに私も散々危険度の少ない場所を探したものですが、たまたま安全なアノマリーが集まっていただけ、という肩透かしを何度味わった事か。
ここ数年の放浪生活で身に染みたのは、こんな世界でコロニー同士を行き来できるキャラバン隊というのはかなり特異な存在だという事。
コロニーに隣接するパッチ環境はそれぞれ決まっているとはいえ、それ以外の場所は毎回完全にランダムです。地形も距離も変化するなら、コロニー間の距離や位置だって変化するはずなのに、どうやって往復するんですかね。
まぁ、方法が一般に開示されないのは、一般人には理解できないからって事なのかもしれないですけど。遠回しに馬鹿にされてる気がします。キャラバンはワーカーの精鋭集団というのは知られてますし、昨夜の件でも片鱗が伺えますけどね。
見た目以上の重さの得物を軽々と振り回す膂力。アノマリー生物の敵意を前に、精神や感覚に少なからず影響があったはずなのに平然と立ち回れる強さ。
途中でリムに介入してもらったとはいえ、あの犬とヤギのキメラは色々とすごいのかもしれません。
なんて真面目な事を、リムのふわふわのお腹に抱き着きながら考えてました。
具体的に何とは言えないけど不思議と懐かしさを感じる安心する匂い。獣臭さもなく、そもそも体温すらないのですが、最高級のふわふわの寝具に抱き着いてる感じですね。
昨日はリュミンもいましたし寝袋を使いましたが、それなりに広さがあればいつもは横たわったリムのお腹で寝ています。新居を構えてもベッドだけは買わないかもしれません。
至福の時間を楽しんでいると、背後から蹄が床を叩く音が聞こえてきます。それから聞きなれた声での軽口も。
『やっぱりな。見ろリュミン。あれが『リム吸い』だ。イコナはこの儀式を通すことで精神を安定させて過酷な世界を生き延びてきたんだ』
「自分に対して圧倒的に友好的であらゆる危険から守ってくれるふわふわ毛並みの巨大生物がいたら誰でも抱き着くと思いますよ。これで私に愛情表現をしてくれたら最強なんですけど、寡黙な所もこの子の魅力。何をしても無反応なのがいいのです! いっそ愛を感じます!」
愛を感じますので、この子が嫌がりそうなことは絶対に私もしません。これが互いに愛するという事。愛って何? と疑問を抱く思春期なる病の皆様は参考にしてください。一つの答えとなるかもしれません。
リムに抱き着いていると無限に時間が必要なので、潔く彼の作る影から出てみれば建物の入り口にガンターを片手に持つリュミンがいました。
少し頬を赤らめて、気まずそうにヤギか犬の耳を撫でながら言います。
「えっと、さっきはごめんよ? おいら抱き着き癖があるみたいで、わざとじゃないんだ」
嘘かどうか聞き分けられるような絆ができるほどの時間は経ってませんし、今は素直に謝ってくれたことを誠意として受け止める他ありません。だから笑顔で返します。
「別に気にしてません。イコナさんが大変魅力的で素敵な少女であることは理解していますので、本能的に抱きしめてしまうのも仕方がないのです。キメラというのは少なからず混ざった生物の本能に引っ張られますからね! ウサギの愛らしさと竜の魅力の前には誰もがあらがえないのです!」
『興味深い理論だが、竜の危険性からは離れたくならないか? 実物なんざ見た事ねぇが、やばい生き物代表だろうが』
「うっかり忘れた端末ありがとうございます。返してください。全力で投擲しますので」
『リュミン、絶対に渡すな。この女は俺様が精密機械だってのを理解しないで本当にやる女だからな。電子機器は叩けば直ると思ってる』
ガンターの住む端末は精密機械だったのかもしれませんが、アノマリー化して衝撃に対して無敵となっております。つまり遠慮はいらない。
さてさて。
娯楽端末を受け取り、定位置である腰のポーチに収納。パッチの危険度次第ではお喋りすら危険になりかねないので電源を落とすところなんですが、そこまで仲良くなってない相手と歩き旅はきまずいので、電源はつけたままにしてあげます。
「えっと、そういえばこれから通る道がかなり細いんだけど、この子は大丈夫かな」
この子、言うまでもなく、首に鞄をぶら下げたままぼうっとするリムの事です。昨日ほどの警戒はもう無いようですが、少し距離を置いてる感じは伝わってきます。
「ふふーん! 私とリムの絆を刮目するがよいです!」
振り返り、リムの視線がこちらに向きます。じっと見られたタイミングでパチン、と指を鳴らして見せれば、塗り固めた影のような姿が薄くなり、目の前で鞄ごと消えてしまいます。
「すごいね。本当に制御できてる」
感心するリュミンに胸を張って見せます。
「そうでしょう! でもこの状態だとリムを警戒してるアレコレが遠慮なく襲ってきますので、面倒を考えるとあまり推奨できません」
空気が読めるリムは私の発言を聞くなり、再び姿を現してくれます。本当によくできた子ですよ。私の発言、というよりは心を読んでる節がありますけどね。そして運命すらも読む力があると信じてますよ。
『ちなみにだが、俺様がうっかり、誰かさんのせいで荷物と一緒に消えた時にはあらゆる感覚が消失して何もない世界に意識だけが取り残された。マジで気が狂うかと思ったぜ』
そんな事もありました。口うるさいガンターがその後数日間大人しくなっていたので、相当きつかったのでしょう。イコナさんを構成する大部分の良心に従えば罰に使うのも憚れる感じです。
それでもよほどの事をしたら、ね?
『なぁ、そろそろ出発しようぜ。なんだか嫌な予感がするんだ』
リュミンは苦笑いです。そろそろ私とガンターの関係もわかった頃でしょう。
「そうだね。それじゃ行こうか。一応警戒は忘れずにね」
微笑ましいと口にせずとも表情でわかる穏やかな笑顔。他人の笑顔をちゃんと見たのは本当に久しぶりでした。
かくして空が色付き、空が朝焼けに染まった頃に出発。幻想的な時間はすぐに終わり、雲一つない空の中、私たちはリュミンの先導で交わす言葉もなくセトルメントを目指して行きます。
最初は変わらずの廃墟の景色。旧時代の大都市、まではいきませんが、そこそこの都市の廃墟群でした。道中に発見されたアノマリーは地面の破片や建物の残骸が空中で縫い留められている一般的な現象ばかり。動物の類は見られませんが、小鳥の鳴き声だけはよく響いて聞こえます。いったいどこで鳴いているやら。パッチにしてはずいぶんと平和な感じです。
リムの方を見ても、本当に退屈そうに眼を細めていました。
正直、私の方はいつもより気を抜いているぐらいなんですが、後ろから見るリュミンのふわふわの金の尻尾は垂れ下がったままで、かなり神経質に周囲を警戒しているのがよくわかります。こう、空気が張っているような雰囲気。まさに尻尾の先まで警戒した緊張感ってやつです。これがベテラン遭難者との認識の違いって奴ですかね。
沈黙に耐えかねたのは案の定、口先だけが取り柄の分類上アノマリーの男。
『自称竜のキメラに拾われてずいぶん経つが、ずっと疑問だった。なぜこいつは一日一回はアノマリーに引っかかるんだってな。そんだけぶっ壊れたこの世界がやばいって思ってたんだが、過大評価だったな。単純に警戒心が少なすぎたらしい』
なかなかぐさりとくる発言。少しだけ振り返ったリュミンが驚きと心配を混ぜてほんの少しの隠し味に呆れを加えた表情を見せます。アノマリーは危険なものが多いです。一日一回引っかかってたら命なんていくつあっても足りませんので、驚かれ呆れられるのも当然です。
親しい自覚はありますがイコナさんの名誉が傷付くのはアレなので、反論。
「毎日はさすがに無いですよ。警戒心については、イコナさんはお気楽主義なので長時間緊張感を維持していると発狂してしまうので仕方ないですね。何より深刻な危険にはリムが対応してくれますから。適材適所ってやつです」
「詳しく聞いてみたい気もするけど、なんだか笑えなさそうな話が多そうだなぁ。おいらも何度か深層っぽいのは遠目に見たけど、通り抜けられる自身はないかな」
キャラバン隊はエリート集団。そこに雇われているというリュミンが言うなら、私は結構優秀という事ですね!
『こいつが今日まで生き残れたのは間違いなくリムのおかげだ。本人の実力は平均的なワーカーに劣るだろうな。警戒心が薄いのはかなりの問題だが、だからといって警戒しすぎなのもな。言ってる意味わかるか?』
一般、というか、キャラバン所属のワーカーはこれくらい普通なのかなって思ってたんですけど、ガンターから見ても過剰に警戒しているように見えるようです。
リュミンは振り返らず足も止めず、まじめな口調で答えます。
「この辺り、いきなり物が飛んでくるみたいだからね。昨日それにやられたからさ。イコナも気を付けてね?」
「……」
私のせいでした。あ、いえ、原因不明のアノマリー現象でした。確かに、あんなのが存在するならこの辺りは超危険地帯という事になります。警戒して避けられるものかどうかも怪しいですけど。イコナさんの豪運と培った生存本能ならいけるか……?
リュミンが過剰に警戒するのも仕方がないまましばらく広い道を進んでいると、建物が横倒しになって通りが塞がった場所が見えてきます。ずいぶん昔に倒壊した事を示すように、今は上側になってしまっている建物本来の側面には巨木が根を張り完全に飲み込まれていました。
かつてどれだけ大きな建物だったのか、きっと目印になるぐらい大きな建物だったんだろうな、と思いを巡らせるぐらいには近くに行って、その手前で細い路地に進路を変えます。前後から何かに襲われたら嫌な感じの狭さ。以前イノシシに襲われた時のことを思い出しちゃいます。非常に珍しいアノマリー化していない原生生物だったので、必死に追い回しましたっけ。逃げられちゃいましたが。
リムは半透明になり、体の一部が壁面に重なりながらもしっかりついてきます。リュミンはこちらを気にしながら先導してくれますが、ほとんど喋りません。道が交わう地点では一瞬立ち止まり、その都度背負った得物に手を回す徹底ぶりは感心いたします。ついていくだけの私としてはそんな細かい所作まで気付いてしまうのです。
危険地帯を歩いてる私に対してのリムも、内心こんな感じなんですかね。心があるならですけど。無くてもいいけど、いつか芽生えたらとってもロマンがあります。コロニーで心を学んでくれないかな。
最初は普通の路地でしたが、気が付けば木の根が頭上で建物を縫うように交互に抜けている妙な景色が混ざり始めます。廃墟の建物も窓が錆びた鉄の板で塞がれてる様子が増えてきました。ただしそれらの板は同じ角度で同じように、バラバラの高さの窓に打ち付けてあるのです。
細い路地に危険は無いです。強いて言うならば落ちた瓦礫ぐらい。ですが細かい部分で妙な規則性と不自然さに、胸の奥がもにょっとするのです。
アノマリーと呼ぶかどうか微妙なラインの異変。まさに異世界に踏み込んだ感じの嫌な気配。昨夜のガンターの物言いに従えば、芸術家が作った世界の中に迷い込んだような感覚。
こういう場所で建物に入れると、正常な状態の物資がたくさんあったりするんですけどね。あくまで個人的な経験に基づいたお話で確証は無いんですが。
私の遭難歴を考えれば、体験談だけでも十分価値があるし、こんな平穏な旅路とは対照的な日々を自伝として残すのも選択肢かもしれない。その際はリムの扱いについてはかなり悩みどころです。
なんて考えているうちに、何度か路地を曲がり、景色はさらに変化いたします。
細い路地は幅を広げ、その代わり両脇の建物が道側にお辞儀をするように奇妙に湾曲しています。足元の地面は左右に引き延ばされ、その分の道幅が広がっているようでした。
建物の異常な歪み、ドアも窓も、そこに巻きついた植物でさえ歪んだ壁面に従って歪んでいる。そのくせリュミンの後ろ姿は普通なのですから、気持ち悪いったら無いです。
おまけに扉の向こう。歪んだ鉄扉はほとんどが壁を這う根に押さえつけられていて開くなと言わんばかりですが、それらの向こう側に明確になにかいる気配があるんです。
窓も隙間が一切なく、内側なんてわからないですけど、尻尾の毛が逆立つ嫌な気配。後ろについてくるリムの目も少しだけさっきよりも開いています。
目に見える危険は無いんですけど、扉の向こうに何か得体の知れないモノが確実にいる。暗闇の中に幽霊を空想してしまう子供の気持ちを何倍も濃くしたような恐怖感です。
『なかなか珍しい感じの場所だな。おいイコナ、せっかくだからその辺のドアの覗き窓から中を見てみたらどうだ?』
「絶対に嫌です。どうせ覗き込んだ瞬間に人だか何かの影かその一部が強調されたアノマリーが視界一杯に飛び出してくるんです。だから」
物音。
こん、と床に何か軽くて硬いモノを落としたような音。今まさに横切ろうとした鉄製のドアの向こうからでした。
無視すればいいものを、立ち止まってしまったら足が地面に張り付いたように動かなくて、視線も不思議と錆びたドアから離せなくなってしまいます。
何かいる。いや、何かいるのは気配で嫌ってほど感じてるんですけど、何かいて、なんか、こっちに気付いて、絶対、こっちになんか気付いてます!
尻尾の先から毛が逆立ち、耳の先まで悪寒が届いた瞬間、わっと叫んじゃいました。
「絶対なにかいる! 怖い! リム助けて!」
思わず助けを求めるも、条件を満たさず不動。わかってました、この程度で助けてくれるはずもないって!
リュミンが立ち止まって振り返るのが横目に見えるも、完全にパニック状態。思考爆速。恐怖心を否定する私と冷静な私と状況を把握しようとする私と慌てふためく私が複数人怖いって感情を必死にどうにかしようとします。ちなみに私は冷静な私ですね。頭の中、イコナさんがいっぱいです。すごい賑やか。こういう時に肉体の主導権を握れず申し訳ない限りです。
『タス…ケ…』
「既に手遅れな何かに限ってやる救助要請が! しかも至近距離からって絶対ガンターじゃないですかオラァッ!」
一瞬で腰のポーチから抜き取り、端末を両手で持って全力の膝蹴り。めっちゃ膝が痛かったですが、そのまま力いっぱいに両手を使って折ってやろうとします。
『ち、違う、俺様じゃな…い』
「この期に及んで嘘はやめてください。ていうか許してあげるので認めてくださいお願いしますそうじゃないとさっきの声が本当に何か得体の知れない恐怖体験になっちゃうので!」
「えっと、そろそろ目的地だから進むよ?」
ガンターが真実を語る前に、リュミンが不穏な事を言いました。
目的地。セトルメントですか? まさかこんなに私が苦手な感じの区域にあるんですか?
不意に伸ばされた手が私の手を取り、優しく、しかし力強く引っ張ってくれます。それだけであっさりと地面にくっついたような足は動き出し、これまでしてきたように自然と歩き始めます。
謎の恐怖が居た扉はあっという間に後ろに流されていき、乱れていた呼吸と思考も戻って、自然に手も離されました。
「す、すみません取り乱しまして。これだからガンターの電源入れておくのは危険なんですよ」
「賑やかなのはいいんじゃないかなぁ。安全性はともかく。それよりほら、ここが最初の目的地だよ」
進んできた道と同じくらいの幅の道がぶつかる十字路。そこを左に曲がってすぐに、異様な光景がありました。飛び込んできた光景に、恐怖にかき乱された思考が一気に落ち着いていきます。
「うぁ、なんですかこれ」
廃墟都市を歩く中で度々見つけた、鉄製の標識。錆びてたり折れ曲がっていたり、なんらかの記号が記されていたそれらですが、リュミンが進もうとしていたのは、その標識が細い路地の両脇に所狭しと並び、建物の壁からも突き出して網目状の屋根を作っている明らかにおかしい道でした。
奥は暗くなっており、リムと同質の黒が貯まってます。何かの門か、穴のように見えます。
風の抜ける音もしない。異常というのだけは嫌って程わかります。
「これはねぇ、キャラバンが使う特別な抜け道だよ。こことは違うパッチにつながってるトンネルみたいなものだね。呼び方は色々あるんだけど、おいら達はリフトって呼んでる」
「リフト……聞いたことないです」
「キャラバンの機密の一つだからねぇ。パッチによっていろんな形があるんだけどね。もしかしたら心当たりあるんじゃないかな」
言われて思い返せば、アノマリーまみれのトンネルとか、奇怪なデザインの巨大な門とかは遠目に見たことがあります。明らかにやばそうだったので近寄らなかったんですけど、あれらもリフトの一種だったんでしょうか。
「リフトを通るとコロニーの近くに行けるんですか?」
もしそうならば、何度かコロニー帰還のチャンスを逃している事になるんですが、リュミンは首を横に振ります。
「通り抜けても繋がってる先のパッチに出るだけ。そこにコロニーが無ければ無いんだよ。行き来できるパッチはリフト毎に次のリバインドまでは同じだけど、キャラバンが特定のコロニーを往復する方法は、それこそ機密だから教えられないなぁ」
リュミンは人差し指を立ててどこか得意げですが、たぶん、特定のアーティファクトを使ってリフトの行き先を変えるんじゃないですかね。具体的にどういう物で、どう使うのかわからないと真似なんてできないですが。
「とにかく、ここを通ればセトルなんちゃらに辿り着くんですね? それなら早く行きましょう。正直この辺りは嫌な感じがして早く離れたいです」
昨夜のスレッドディアなるアノマリー生物に敵意を向けられた時のような嫌な感覚。こっちの方がずっと薄いですが、息苦しさは感じます。
「そっか。じゃ、怖くなったら言ってね。また手をつないであげるよ」
遠慮します、とは言えませんでした。
ためらいもなく立ち並ぶ看板標識の中を進み始めたリュミンの後ろを、靴を蹴っ飛ばすような距離でついていきます。
太陽の届かない暗闇。うっすらと見える金色の尻尾を掴んでしまいたい衝動に駆られますが、我慢。
空気の流れが一切なく、ねばつくような不快感のある空気に満たされた道。肩に触れそうな距離に並ぶ無数の看板に描かれた模様が目の前で変化するような異常さが現れはじめた頃、ひと際どろりとした空気の層を抜けるて一気に雰囲気が変わります。
音が一度途切れ、次に匂いが変わります。草木の匂いがより若々しくなり、足元の舗装がアスファルトではなく、草の混じった石畳に。
標識が金属から木材に、壁材もレンガになると、ようやく明るい場所に出ます。
風が草木を揺らす音がずっと強くなりました。空気はより新鮮で、鉄の匂いが全然しません。柔らかい春の温かさすら感じました。
陽の光がさっきより高い場所から注いでます。角度だけで見れば、もうすぐお昼になってしまうような高さ。
完全に路地を抜けた瞬間、一陣の風が私たちの周りに残っていた別の世界の空気を吹き飛ばすように、激しく抜けていきました。
さっきまで感じていた息苦しさ。胸の奥にあった不快感までもが消えて、ただただ清々しい心地よさを感じます。
「おつかれさま。これでひとまず、危険なパッチは抜けられたよ」
リュミンの警戒心がふわりと解けて、なんとなく張りつめていた空気が柔らかくなりました。
リバインド癖とでも言うべきか、安心よりも先に周囲の状況把握を優先してしまいます。
さっきまでいた場所は巨大な植物に飲み込まれた廃墟都市でした。今私がいるの、新緑のまぶしい若い森の中です。
木々は一般的な高さで老木と呼べる巨大なものはないです。点々と配置されている建築様式の統一されたレンガ造りの建物は蔦に飲まれて、屋根が崩落していたり、建物そのものが崩れてます。建物の中から木が生えていたりはしますが、先の廃墟都市のように巨大な根が建物を貫き絡めている、という様子はありません。共生している感じがずっと強いです。人が住んでてもおかしくない。
足元は石畳ですが、割れてほとんど土がむき出しになって苔が生えていました。浮遊している岩や地面の類は無く、クレーターなんて一つもない。森の中に放置され時間だけが経過したような町。
平和。すごく、平和な、春の森でした。
「なんだか、すごく時間が進みましたか?」
それなりの距離を進んできた疲労感はあるものの、昼まで時間がかかった気はまったくしません。せいぜい、一時間か二時間ほどしか歩いていないはずです。
「時間が進んだ、というより、おいら達が後ろの通路をすごくゆっくり進んだって感じかなぁ。リフトの性質みたいんだけどね」
看板だらけの路地をゆっくり歩いた感じもなく、単純に時間に置き去りにされた感じ。
「これが『時差ぼけ』という奴ですか!」
「おー、良く知ってるねぇ、えらいえらい」
我ながら変な知識とか言葉は知っているなぁ、と思いました。あと、おそらく本当の意味とは違います。リュミンも適当にほめてますね。
『おい、まさかとは思うがここが既にセトルメントなんて話はないよな? 人の住む環境なんざぶっ壊れたデジタルでしか知らないが、少なくとも俺様にはまだこの辺りの建物は十分に住めるように見えるんだが』
ガンターの言う通り、石畳の道の先に点々と存在する建物の多くは原型を留めており、くすんではいますが窓ガラスも残ってます。人間がいなくなって途方もない年月が経過しているはずなのに、とは思いますが、パッチ領域においてその手の憶測は徒労に終わります。
私自身、何度か人間が住んでいたとされる時代の姿そのままのパッチに迷い込んだことがありますが、あらゆる場所に頭がおかしくなるようなアノマリーだらけで建物の一室に一週間引きこもったものです。なんせリムの目が常に六個空いている状態でしたから。
そんな経験から、なんとなく半端に現存している建物って少し警戒しちゃうんですよね。ガンターとは対照的に、私はまだここがパッチ内部って感じがしてます。
リュミンの答えは案の定でした。
「ここはまだセトルメントの手前のパッチだね。この一週間見て回ったけど建物自体が放棄されたって感じで、もぬけの殻なんだよね。人がどんどん引っ越してしまって、そうやって衰退したような感じかな」
「あぁ、物資が全然ないタイプのパッチなんですね」
さっきまで居たような廃墟都市型は比較的物資が集めやすいです。実際はどうかはわかりませんが、イメージ的には突然災害、それこそリバインドに巻き込まれたような感じで残っているものは残ってるって感じです。突発型廃墟とでも呼びましょうか。
対照的にこちらの衰退型の廃墟というのは徐々に人が物と一緒に引っ越していなくなったような廃墟です。建物の健全性に比べ、内部はきれいに片付けられて物寂しさすらあるものです。こういう環境の時はいい感じの建物を拠点にして、洗濯したり散歩したり、ゆっくりしたいんですけどね。
「さ、もう少しだからがんばろう。お昼、って言っても感覚が違うかもだけど、あと一時間もしないうちに付くはずだよ」
「わかりました。リム、人の気配が濃くなってきたら、それとなく姿を消してくださいね。あるいは小さくなってかわいらしい感じにしてください。あざとい仕草で魅了してくれると大変よろしいです。それが人の営みに混ざるという事ですので」
木製の看板が無数に並ぶ路地に隠れたままのリムに言って聞かせますが、反応は無し。個人的にはこの大きくて威圧的な恐怖感があるのに私には従順な部分がリムの魅力なので、あざといとか小さいのは解釈違いを起こしてしまいそうです。
歩みを再開し、古めかしい馬車が行き来するのが似合いそうな石畳の道の真ん中を進んでいきます。
廃墟都市を進んでいるよりも警戒心が薄くなっています。歩き慣れた道って様子ですが、建物には近寄らないような道の選び方をしていました。
平和そうに見えて、廃墟に立ち入ると問題が起きるタイプかもしれません。綺麗な建物だと、建物自体がアノマリーという可能性もあるし。
ほどなくして空気に湿り気がわずかに加わり、水の湧いている場所に辿り着きます。そこはどうやらかつての噴水のようでした。中央の装置が破壊され、泉の中に残骸となって転がっていて噴水とは言い難い有様ですが、変わらず水は湧き続けて泉を満たしています。
排水がうまくできていないのか、周囲が水びだしになって、斜面の方へ集まって小さな川ができています。そのすぐそばに石製のベンチがまともな状態で残っており、小休止には丁度いい具合です。
木漏れ日注ぐ、かつては憩いの場であっただろう噴水広場。聞こえるのは水の音と木々の枝葉が揺れる音。お昼寝日和ですよ。
「少し休んでいこうか。さすがに疲れたんじゃない? ここまでくればもう目と鼻の先だから十分時間があるよ」
『あぁ。それならぜひ頼む。無駄に警戒してたせいで俺様もへとへとだ。それに人前に出る前に身ぎれいにしたい奴もいるだろうしな。そいつに乙女心ってやつがあれば、だが』
「…もしかして遠回しに私の事臭いって言いました?」
思わず自分の肩に顔を寄せて鼻を鳴らしてしまいます。わかんないです。竜の血が濃い私は代謝も相応で、暑いとは感じても激しく汗をかいたりしません。まったくかかないわけじゃないんですけど、たぶん放熱効率がいいのでしょう。
体や衣類は洗える時に都度洗ってますし、リムの大鞄にはかさばるとわかってても洗髪剤とか石鹸が入ってたりします。何より少女というものはそれとなくいい匂いがするものなのです。つまりイコナさんは臭くない。
「犬のキメラであるおいらが保証するよ。イコナからは旅人臭さは無いよ。むしろちょっと香り付きの石鹸の匂いがするかな」
「ふっふーん! そうでしょうそうでしょう! そりゃ寝起きでつい抱き枕にもしたくなりますよね!」
『いつだったか衣類用の洗剤で体を洗ったことがあっただろ。その匂いがまだ残ってるんじゃないのか?』
「どれだけ前の話をしているんですか。しかしあの時は本当に大変でした。竜のキメラである私じゃなければ肌が大変なことになってましたね」
「ほんとの事なんだ…」
なんだか呆れられちゃいましたが、噴水広場で小休止。
水分補給したり、顔を洗ったり。さすがに洗濯とか水浴びこそしませんでしたが、他人と歩みを合わせるのはそれなりに神経を使っていたらしく、妙なけだるさを感じていました。ざっと空を見まわたした感じ、空の柱もこのパッチでは見えません。
疲れを吐き出すように小さなため息をつけば、ヤギとも犬ともとれる独特な形の耳がぴくりと動くのが見えました。それからすぐに心配しているとはっきりとわかる、優しい口調で問われるのです。
「大丈夫? やっぱり少し疲れちゃったかな?」
周囲を警戒しながら進むことはとても疲れます。その点においてはリュミンの方がよほど疲れているだろうに。私の場合は歪んだ景色を歩いたことによる気疲れですね。
『お前から見るとこいつはか弱い少女に見えるかもしれないが、普段は比べ物にならないくらいぶっ壊れた領域で旅してるからな。つまり他人に先導されたり、ここまで平和なパッチってのは逆に慣れてない。張り合いが無くて退屈なのさ』
リュミンが翡翠の瞳で冗談だよね? と視線を投げてきますが、苦笑いで返答とします。
実際、普段は行きたいところに行って、気になるところに向かって、ある意味では気ままに過ごしていました。周囲の危険性が適度に刺激的で、警戒しなければいけないとはいえメリハリのある生活なのです。
「完全に生活習慣の問題ですよ。ベテラン遭難者のイコナさんにはこの程度のパッチと言えてしまうのです。退屈というのは否定いたしませんが、本当はこういう場所の方がお好みですよ」
危険度の高いパッチの深部特有の幻想風景というのもあるのですが、平和な光景ほど尊いものは無いです。時間と自然に飲まれながらもなんとなく、人が住むことで建物が健全に保たれているような様相の今の景色は、それなりに好きです。これで元気に子供たちが走り回り、人々がそれぞれの用事で行きかう様子があれば文句も無いのですが。
「一応確認しておくけど、イコナはおいらのいるキャラバンと一緒にコロニーを目指すのが目的、でいいかな?」
「そうですね。セトルメントがどういう所なのかわかりませんが、コロニーで生活が理想です」
リュミンの視線がずれ、穏やかな日の光を吸収して目を細めるどころかほとんど閉じて呆けているように見える巨大生物に向きます。リムについてはまぁ、なるようになるとしか思えません。
この子を放り出して自分だけコロニー暮らしなんて、そこまで薄情じゃないですよ。
「わかってるかもしれないけど、イコナが元々暮らしていたコロニーには戻るのは難しい。おいら達も、そこまでしてあげる余裕は無いと思うんだ」
「それについてはなんの問題もないです」
遭難者が自分の暮らしていたコロニーに戻ることは絶望的。不可能といっても過言ではないです。未練など微塵も無いです。たぶん。一応心の中で整理をつけてある事です。
昔の事はガンターにも話してません。リムには、遭難して間もないころに話したかも。何にせよ誰かに言い聞かせて楽しい話ではない。
「おやおや、ここでイコナさんの過去を知るにはイベントフラグとやらを回収できていなかったようです。残念でしたね! 次回はせいぜい好感度を上げてイコナさん攻略ルートを目指すとよいでしょう!」
ちなみに現在の私の好感度とやらは、リムがぶっちぎりです。どこかで感情に芽生えて私の事を溺愛してくれると大変うれしいと思います。今のままでも愛は伝わってますがね!
「セトルメントにはもう少し滞在する予定だから、到着したらイコナはまずゆっくり休むといいよ。キャラバンの他のメンバーにはおいらから説明しておくから。魔法についてはもちろん内緒でね」
「わかりました。私の方はせいぜい、文化的な生活を楽しませていただきますね」
身の振り方も決まって小休止もほどほどに。セトルメントまでの最後の旅程に差し掛かります。
歩き始めてからの道中は相変わらず平和そのものでした。徐々に木々の間隔は薄くなり、頭上を覆っていた枝葉が完全になくなると、雲一つない青空から注ぐ陽の光がイコナさんの素敵な黒いウサギ耳をじんわりと温めてくれて、ほどよい疲労感も加わり眠たくなってしまいます。
春の陽気の下、時折若い木々の香りに染まった風が通り抜けていく。石畳も歩きやすいし、一定のリズムで奏でられる、蹄とブーツの足音は気を抜けば眠ってしまえそうです。ガンターは絶対寝てますね。
あぁ、気持ちいいなぁ。そろそろ疲れてきたけど、まだ到着しないかな、なんて考えていたら、数歩先の景色が不意に揺らぎます。なんだろう、と思った矢先、半歩先を歩いていたリュミンが急に何かをよけるように左肩を引きました。
「いだッ!」
直後、顔面を見えない何かに強打します。
なかなかの痛みにうずくまってしまい、そこでようやくリュミンが足を止めて振り返りました。
「大丈夫? こういう何もなさそうな所は見えない柱とか壁に気を付けないと」
「そ、そういうの早く言ってください」
鼻を強かに打ちましたけど、幸い鼻血までは出てません。背後にいるはずのリムを睨みつけると、彼は日向が気持ちいいとばかりに目を細めてぼんやりしてました。ちゃんと付いてきてるのは偉いけど、イコナさんが痛い目を見る時も助けていただきたい。
立ち上がって、目の前にある景色の揺らぎ、よく見れば水晶を通したように陽光がわずかに屈折していました。厄介なのは、触れられる距離になってようやくその屈折がはっきりと見える事。柱や壁のような形状のもの、目を凝らすとこの辺り一帯にうすぼんやりと見えていました。尖ってないだけマシ、と思えるのは危険な領域で過ごした遭難者の感覚。むしろ危険だった方がリムが助けてくれたかもしれない。
「ごめんよ。このぐらいのアノマリーは普通に避けられるかと。話を聞く限りじゃもっと危ないところにもいたみたいだし」
悪気のない言葉。仕方ないとはいえ、ぱたぱたと尻尾を揺らして反論です。
「熟練の遭難者である私にはこんな浅い層のアノマリーに警戒心なんて湧きません。基本的に命が危ぶまれるアノマリーはびこる深度で生きてきたので」
ノックをするように軽く透明な壁を叩いてみますが、岩とも金属とも言えない独特な硬質素材でした。きっと何をやっても壊れない類の素材。
『リュミンの気持ちは俺様には痛いほどわかる。こんなのが命の恩人とは、心底同情するところだ。とはいえ悪い事ばかりじゃない。こいつのお気楽さの前じゃ、自分の悩みなんて下らねぇって思える』
「なんという事でしょう! ガンターに悩みがあるとは驚きです! 遭難生活で一番の大発見かもしれません!」
『そうだろうな。俺様の最大の悩みはダイナマイトボディの姉ちゃんが持ち主になるにはどうしたらいいか、だ』
ダイナマイトボディ。爆発物の体を持つアノマリー生物の事ですね、わかります。何をされても傷付かない筐体が、至近距離での爆発に巻き込まれて吹き飛ぶのはさぞ楽しいでしょう。
立ち上がる際にガンターを使って透明な壁の有無を確認。
「うーむ、これはなかなかに厄介ですね。こういう嫌がらせ型のアノマリーはイコナさんの天敵かもしれません」
『おい、壁の有無を確かめるんならもっと色々あるだろうが。絶対に壊れない自信はあるが、地味に痛みを感じるからやめてくれ』
ガンターの痛覚がどのような形で伝わっているかは大変興味がございます。角辺りは足の小指とかだったら楽しいですね。
「ほらいくよー」
リュミンが呆れ半分、微笑ましさ半分の笑顔で先に進み始めてしまいます。
身をかがめ、肩を引いて進むリュミン。彼の後ろを同じように気を付けて進みますが、靴先が何かにあたったり、立てた耳に触れたり、額を軽くぶつけたり、狭い洞窟を通っているようです。そんなスムーズに進めるのでしょうかね。これがキャラバンに属する人の実力という事でしょうか。
洞窟とはいえ、見えない岩を登るような事は無く空中を歩いているような様相にはなりません。視覚的には開けているのに妙な閉塞感を感じる洞窟は、そこから三十分ほど続きました。
洞窟を進む中で石畳の道が細くなり、ようやく身をかがめなくても平気になった頃、周辺の木々の感覚が露骨に広くなり、人為的に伐採された形跡が残る森の終わりに出ます。
森の先は広大な平原。ただし、それらの領域を分かつのは引き裂かれた大地の跡。巨大な谷でした。
谷には平原に続く立派な石橋がかけられていますが、中ほどには空の彼方から薄い膜がかかかっているようで、透明なオーロラの如くわずかに揺らいでいます。
谷底から吹き上げる風は強く冷たい。天気はいいのに、なんだか不気味な感じがします。
「この膜を越えるとセトルメントだよ。つまりここが境界線」
揺らぐ景色の向こうは平原で、建物らしきものはないです。どうやらこの膜自体が、向こう側の景色の観測を阻むアノマリーのようですが。
『イコナ、何を戸惑ってるんだ? まぁ俺様としちゃ境界線なんざこんなもんかって思えるんだが』
ガンターは私が遭難中に発見した存在なので、コロニー含めた人のいる場所には行ったことがありません。
「コロニーの場合は、パッチとの境界線を示す看板があるだけで、向こう側の景色ってはっきり見えるのです。それこそ、遠くの山の形が今週は面白い形をしてるね、みたいな会話ができるんですよ。だけどここには、アノマリーによる境界線がはっきりあります」
リュミンは腕を組み、わかるよ、とばかりに頷いていました。
「おいらもセトルメント見つけたの、ここが初めてなんだよね。すごくわかるよ。キャラバンでもかなり珍しいみたいで、うちのリーダーは性質を調べてまわってるくらい。イコナにも驚いてほしいから、違いは自分で気付いてほしい」
「ふむ。それならせいぜい楽しんでみるとしましょう。それじゃ、リム」
振り返り、薄い膜をじっと見つめるリムに抱き着きます。
「寂しいかもしれませんが、しばらく隠れてください。やむを得ず人前に出る時は小さくなって皆に愛される感じだと嬉しいです。個人的にはそのまま現れて周りがパニックになるのも一興かと思いますが、まずは平穏に過ごさせてください」
小さく、お願いです、と呟けば、ほんの少し身じろぎ。離れれば膜に向いていた視線がこちらに向いており、完全に目を閉じて姿を消します。まるで眠るような仕草。
危険はない、安心しなさいと言っているような気がしました。
「それでは行くとしましょうか。焼きたてのパンが私を待ってます!」
これが長い長い放浪生活の終わり。そちらに関しては機会があれば思い出せる限りでお話すると致します。
ここから先が、私の新しい日々の始まり。壊れた世界で紡ぐ、物語というやつです。
End_BOUNDARY /境界




