エピローグ 0⧉I⧉IИ
『エーテルって結局なんですか?』
汚れの無い白いタオルで、緋色の髪をぐしゃぐしゃに拭いてやりながら問えば、そいつは濡れた尻尾を私の足にべしょべしょと交互にぶつけながら楽しそうに答えました。
『エーテルは空気中の誰のものでもないマナだ。これくらいマナ理論の基礎だぞ? 今更わからなくなったのか? はっは! 物覚えの悪い竜だああぁあぁぁ!』
慇懃な発言はいつも通りなので、乱暴に頭を拭いてやったのを覚えてました。
『それくらいはわかりましたよ。そうじゃなくて、もっと根本的な話です。エーテルはどこから発生するんです?』
『んぁ……それはほら』
彼女は振り返り、私の胸の真ん中を指します。
『ココ。心臓じゃないぞ? 人の心だ』
『………はぁ』
『肺から取り込まれたエーテルは、心臓で変換されてマナになる。だがエーテルは空気中の成分に含まれない、見えない存在だ。見えない存在は見えない部分で変換されて、心臓で血中に混ぜられてるに過ぎない。感動すると胸が熱くなるだろう? 切ないと締め付けられるだろう? 悲しくなると苦しくなるし、怒れば血が熱をもつよな。感情が強くなるとな、エーテルはここでマナを大量に作るんだ』
お風呂上がりの肌を撫でるように指を滑らせようとするので、手を弾いてやりました。
『そのためにはたくさんのエーテルが必要なのでは?』
『息が荒くなるのはそのための反応かもな? これは私の仮説だが、感情的になった際に変換されるマナは、材料になったエーテルよりも遥かに多くなるんだ。質量保存の法則ってやつを無視してるな! ま、エーテルはそもそも質量なんて存在しないんだけどな! とにかく、マナが魔法以外では基本的にキメラの身体を維持する以外に使われないわけだろ。そうすると、余分なマナが体から溢れる。溢れたマナは、空気中でエーテルになる。だからこそ、エーテルは人の感情や記憶に左右されやすい。元々人の感情から作られてるからだ。きっと、これは世界を支える理の一つだ。世界のエーテル総量は、人の感情で増え続ける。いつか魔法が簡単に使える世の中になるのかもな?』
『……魔法を使ったらエーテルは減るのでは?』
『おぉ確かに! ならまずは毎日笑って泣いて楽しくなれる世の中から作らないとな! 愉快な奴をふやしてやらないと!』
気が付けば記憶の蓋は緩みっぱなしで、ふとした時に楽しいと感じた頃を思い出すのが癖になってしまっています。
食堂の軒先で、樽に腰掛けて人々が村の今後について広場で話しているのを聞いたらついウトウトしてしまって……ニアラの事を思い出してしまったようです。
沢山の思い出があります。だけどそのすべてがもう戻らないし、この世界でもう一度会う事はきっと、できません。好きだったと認めれば切なくなるし、苦しくなる。憎らしいと思ったことは数知れずありますが、決して嫌いとは言えない奴でした。
「毎日笑って泣いて、楽しくなる。素敵な言葉です」
ちぎれた雲が点々とする青空。食堂前の広場は、村中の人が集まっていました。
地返しから四日目のお昼。特設された木組みのステージの前には赤い布がかぶせられた石像。村の職人集団が三日で仕上げた代物ですが、後ほど、石畳を剥がしてちゃんと固定するそうです。
「ガンター。今、なんの話してますか?」
あくび交じりに問えば、彼も眠たげな声でした。
『あぁ…? 悪いが、俺様も寝てたな。最後の記憶は、組合制度って話だな』
「……私より先に寝てるじゃないですか」
村の内政は今後、職人組合、農産畜産、外回りと自警を行う三つのグループで管理して、代表者が話し合って村を発展させていく方針に、というのが私が居眠りをする直前のお話。確か、農産畜産の代表が、マーニさんだったのは覚えてます。
『では大変お待たせしました! 我らが村の輝かしい未来を願いまして、石像のお披露目です!』
ささやかな演出として、ドラムロールなる打楽器の連打音が聞こえてきます。長く長く鳴らし続け、最後に金属板をひっぱたく音が響けば、大きな布が取り払われて、村の新しい象徴が姿を見せました。
歓声に感嘆の声。内心、牛と麦の像なんてとは思っていた私ですが、その出来栄えには驚嘆いたしました。
「牛……まぁ、牛、ですね?」
それは筋肉質な牛が二足で立ち、鎌で刈り取った麦束を掴んで頭上に空に掲げている像でした。
ミノタウロス、と呼ばれる牛の幻獣。オーバーオウルを着たその像の出来栄えは、とても三日で作ったとは思えない精巧な作りで、収穫の喜びを見事に体現しておりました。
ちなみに胸部が特徴的に作ってあるので、牝牛です。ミルクが名産になりますからね。何がとは言いませんが、でかい。
「わたしは姉さまの像がいいと思ったんだけどなぁ」
拍手をしながらも不満げに、私を見つけたアマリが近くに来るなりそんな事を言いました。
「村の事も、キャラバンの問題も、全部解決の糸口になったの姉さまのおかげじゃん。もっと姉さまも目立っていいのに!」
「別にいいんですよ。アンカーに関する事なんて、本当は知るべきじゃないんです。大切なのは、村の皆さんが今後、笑って泣いて、楽しくなる毎日が送れる事。誰かひとりへの感謝は、重要ではありません」
樽から降りて歩き出せば、アマリもついてきます。なんだか、角の色つやがよろしい?
「わたしは姉さまに感謝する! それはいいよね?」
有無を言わせない笑顔に、否定するはずもない。
「もちろん。とはいえ、すぐに恩返しなんてしなくていいですからね。まずは、新しい日々を楽しむのです」
特設のステージでは、石像に込められた願いと原案者である……少年豚鼻が特徴のハルゴが紹介されてました。彼が原案だったのですね。あ、よく見たらリッカも後ろにいます。
人を避けるように、大回りをして広場の縁をなぞるように歩いていきます。逆さまの土地が吊り橋で繋がった監視塔の前を通り、民家の前を通って、上の広場に通じる緩い上り坂へ。
「アマリは、この先どうするかちゃんと決めました?」
「うん。私もコロニーに行く事にした。兄さまも止めなかったよ。一緒に来たがってたけど、村に残るって」
「意外ですね。私は正直、彼もいっしょに来るかと」
少し残念に思えたのは、彼を近所に住まわせて便利に使う予定だったからです。きっと私の頼みは断り辛いに違いない。
「村の事が落ち着いてからにするって。わたしの事が心配なのもあるけど、本当は兄さまも、外が気になるんだって。その時はわたしが養ってあげるの! 兄さまはほら、弱くなっちゃったし!」
歩きながら隣で空中に拳を突き出すアマリ。空気がはじける音はしませんでしたが、それでも十分な速度で放たれる拳は、純粋に彼女の技量が高い事を物語っておりました。
「ワーカーをやるなら無茶しちゃだめですよ? 怪我は治りにくいし、高台から飛び降りたりもできません」
「ふっふっふ、姉さま、高い場所から飛び降りるのは別にドラコニアンじゃなくても出来るんだよ? 今でも屋根から飛び降りたって無事でいられるから!」
自信満々でした。もしや既に試したかな? 大けがはしないで欲しいです。
通りに置いてあるバリスタを避けて、人の気配の無い目抜き通りを上の広場めがけてゆっくり進んでいく。
この一週間も色々ありましたが……私の感覚としては、結局遭難生活の延長のような、目まぐるしい日々の一端に過ぎませんでした。人と出会ったり、話したりとかは久しぶりで、心地よい疲れは感じますけど。
『アマリはコロニーでイコナと暮らすような話をしていたが、ほんとにそうするつもりか? こいつの適当さに愛想をつかさなければいいが…』
「外の事なんにもわかんないのに一人暮らしはできないよぅ。だからあの、姉さま……良かったら、改めてお願い。しばらく姉さまの所に住みたいんだけど…」
「もちろんいいですよ。純粋にコロニーに放り出すのも心配ですからね。マルセナさんから住む場所も手配してもらえるので、私も素直に楽しみです」
できれば中心街から少し離れた、多少騒音を立てても良い静かな場所がいいです。工房も込みの住居なら、ほどほどに通りに近いと嬉しい。まぁ、それもコロニーの雰囲気次第ですね。海ってやつが見えると最高なんですけど。まだ見た事ないし。
なにはともあれ、アンカーが正常に機能しないと始まりません。そのために必要なのは、残りは一つだけ。私がする事なんてないんですけどね。
村の中心地である、上の広場に到着します。何も置いてないし、誰もいない。私は広場の左手、村を見渡せる高台の方へ歩いて行き、ラジオを取り出して電源を入れました。
石垣に置いて、砂嵐のようなノイズは一瞬だけ。しばらくして、凪いだ口調の声が聞こえます。
『おはようございます。私はいつでも大丈夫です』
元老院の正体である人工知能。この村のアンカーに注がれるエーテルを吸い続ける、全ての元凶であり、村を昔から守り続けたアノマリー。
実はこの三日の間に、進捗等のついでに何度かお話をしています。踏み込んだことは一方的に切られてしまって、大した事は話せてないのですけど。
これが最後のチャンス。聞けることがあるかもしれない。
「何か言い残したい事があれば、聞いておきたいなと思うのですけど」
柔らかい風が後ろから撫でるように吹いて、遠くの麦畑、その先の薄膜が映す偽りの大草原を波立たせていきます。
遥かな地平へ風が至るまで見送って、彼女は穏やかに言いました。
『あなたには感謝をしています。あなたの知識と持ち合わせる技能が、私の憂いのことごとくを断ち切って行きました。アマリについては特に』
「えっと、わたしは」
儀式の翌日、途中で退出したので詳細は分かりませんが、カイリスとアマリにとって、あの時間は意味のあるものになったそうです。
『アマリ。あなたは私の誤りから生まれた命です。いつか己を恨む日があるなら、私を恨んでください。ですが、願わくば…』
彼女は一つ、二つと時間を置いて、変わらない口調で精いっぱいの願いを伝えました。
『願わくば、あなたに溢れんばかりの幸福が訪れますように』
アマリの方へは向かず、私はただ石垣に寄りかかりながら遠くを眺めて、震える息遣いだけを聞きました。尻尾を揺らして、刻々と迫る終わりの時間を噛みしめます。
「意地悪な質問をしてもいいですか?」
『はい』
「あなたは幸せを感じるのでしょうか?」
ずっと遠くで、回収し損ねた地面の欠片が左から右へ流れていくほどの時間。彼女は黙ってしまいましたが、しばらくして静かに言いました。
『終わりを前にして、私はひどく穏やかでいます。自身の存在が最大の障害であることを悟った際は、虚しさというものを感じていました。ですが、私を知り、寄り添ってくれるものがいるだけで、これほどに穏やかになるとは』
それは私の知らない舞台裏。きっと、彼女のすぐそばには今、牛の角を持つ青年がいます。
いつか彼に、色々語ってもらいましょう。お酒片手に。
『私の存在は無意味でした。私の存在が村を苦しめました。私の誤りで苦しむ命が生まれました。私はただ、村のために存在したのに。私の存在と矛盾した壊れた世界が憎らしい………なのに私は、訪れる終わりを前にして、幸せを感じています。安堵しています。これを感じるために、私は存在したのでしょう。この瞬間を迎えるためだけに、私は…』
彼女に感情があって、心があるなら、きっと溢れんばかりのマナが生まれてますね。
マナは溢れてエーテルに。死にゆく命は、たくさんのエーテルを吐き出します。それは眠っていたアンカーを呼び覚ますのに、十分な量でしょう。
『………さようなら私の愛しき小さな世界。住まう全ての人が、誰もが羨む幸福に満たされますように』
通信が終われば、ラジオはただノイズを吐くだけ。だけど、すぐにはそうなりませんでした。
小さく小さく、音量を極限まで絞ったような声で、彼女は最後に呟いたのです。
『ありがとうオルヴァ。さようなら』
穏やかに、優しい感情の乗った声。彼女の傍には、やはり彼がいたようです。
ラジオがノイズを吐きだし、砂嵐が村を覆う薄膜に飛び散った火の粉のように、揺らいだ偽りの景色に虫食いを作っていきます。
村を周回していた地面の欠片の残りが少しずつ高度を下げていき、下の広場にある監視塔、その上の逆さまの欠片も、ゆっくりと墜落を始めました。
広場でのざわめきが起き、悲鳴が聞こえます。だけど幸い、その大きな欠片は広場の向こう側に落ちていき、被害はなさそうです。大きな音が響いて、アマリが小さく呟きました。
「……すごい、きれいだね」
ざわめきは、やがて静寂へ。誰もが変化に気付いたからでしょう。
偽りの景色は焼け広がるように消えていき、焼け跡から姿を見せたのは、起伏の無い広大な平野です。ただし、所々に高層階の建物を含む、遺跡群がある平野。
濃い緑の草地が彼方の山脈にまで続いた、大平原。シンプルですが、世界の広大さを感じる、素晴らしい環境でした。
「………終わったんだね」
風に揺らぐ大平原を見ながら、切なさを滲ませてアマリは言いました。
苦しい日々の終わり。繰り返される、暗く先の見えない日々。それが終わった。確かにそうです。彼女にとっては、この場に自分がいる事も信じられないのかもしれません。
だけど私は、そんなの知らないとばかりに笑顔で言ってやるのです。
牙を見せて、お気楽に、私らしく。だけど、懐かしいあいつの笑顔に少しだけ寄せて。
「ここから始まるんですよ。楽しい世界が!」
継ぎはぎだらけの壊れた世界。その世界を、もう一度。
私は全力で楽しんでやるのです。いつか世界に魔法が満ちる程に。
End_Origin /根源
お疲れさまでした。第一章はここで終わりとなります。
第二章以降も作成中ですので、イコナを取り巻く物語にお付き合い頂ければ幸いです。
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