【第90話】無菌の使徒と、継ぎ接ぎ屋の反逆
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
チリチリチリッ……。
縫い合わされた空間の「傷跡」の中心。 折れた巨針が突き刺さるその一点から漏れ出していた黒い悪意の霧が、突如として、その性質を完全に反転させた。
黒、ではない。 それは、いかなる光も反射せず、いかなる影も落とさない、絶対的で無機質な『純白』であった。
「……な、に……これ……」
岩壁に背を預けていたルカは、血だらけの顔を強張らせ、息を呑んだ。
風が止んだのではない。空気が、雪が、そして空間の振動(音)そのものが、その純白の光の周囲数メートルで『完全に消去』されているのだ。 チリ一つない、一切の摩擦も熱も存在しない、極限の無菌室。
かつてルカが王宮の塔の頂上で引きこもり、外の世界のノイズを忌み嫌って作り上げようとしていた「完璧な静寂」の究極の形が、今、圧倒的な死の冷たさを持って顕現しようとしていた。
ピキッ……。
突き刺さっていた『鉄屑の巨針』の残骸(下半分)が、その純白の光に触れた瞬間。 音もなく、抵抗する間すらもなく、サラサラと白い灰のように崩れ落ち、虚無の彼方へと消滅した。
そして、その空間の綻びの奥から、静かに『それ』が足を踏み出した。
人間の形をしている。だが、人間ではない。 目も、鼻も、口もない。衣服の継ぎ目すら存在しない、のっぺりとした純白のシルエット。 足元に積もった雪を踏み締める音すら立てず、重力という物理法則すら完全に無視して、雪面から数センチ浮遊した状態で静かに立ち止まっている。
『――不格好だ』
ルカの鼓膜ではなく、脳髄の奥底に直接、一切の感情の起伏を持たない「完璧な音声」が響き渡った。
『ツギハギだらけの、醜い空間。摩擦と、熱と、腐敗のノイズに満ちた、病んだ世界。……なぜ、静かなる無への還元を拒む?』
純白のシルエットが、のっぺりとした顔をルカの方へと向けた。 感情がないからこそ、そこには一切の隙がない。憎悪も、怒りも、殺意すらない。ただ「汚れた部屋を掃除する」という、システムとしての絶対的な『消去の意志』だけが、そこにあった。
「……あんたが、母さんを奪った『銀の雨』の、本当の正体ね」
ルカは、折れた鎖骨の激痛に顔を歪めながら、岩壁に擦り付けた背中でズルズルと体を引き起こした。 右腕の装具は完全にひしげ、先ほど自ら縛り直した革ベルトでかろうじて身体にぶら下がっているだけの、重たい鉄のゴミだ。
装甲の隙間からは黒いオイルと赤い血が混ざり合って滴り落ち、彼女の身体は今まさに、目の前の存在が最も忌み嫌う「ノイズと不浄」の塊であった。
『痛み、悲しみ、喪失。それらすべては、生という不完全なシステムが生み出すエラー(ノイズ)に過ぎない。我ら(虚無)に抱かれれば、一切の摩擦は消え去る。完璧な平穏を与えようとしているのに、なぜ、この醜い鉄の杭を打ち込んでまで抗う?』
純白のシルエットが、ゆっくりとルカの方へと手を差し伸べた。 その指先が、ルカが命を懸けて縫い合わせた空間の傷跡(結び目)に触れる。
シュゥゥゥ……。
ルカの泥臭い生体魔力と、エイル村の人々の祈りが込められた見えない糸が、その純白の指に触れた端から、音もなく『漂白』され、消え去っていく。
「やめなさいっ……!!」
ルカが叫ぶが、届かない。 圧倒的な、次元の違う「無」の力。
どんなに分厚い装甲を纏おうと、どんなに強い蒸気で殴りつけようと、この存在には物理的な衝撃は一切届かないのだと、ルカの職人としての直感が絶望的な告げを鳴らしていた。
「グルルルルルルルルッ……!!!」
ルカの足元で、全身の毛皮を焦がし、肉球から血を流した小さな銀色の獣の仔――ノアが、残されたすべての力を振り絞って立ち上がり、純白のシルエットの前に立ちはだかった。 彼は、自らの小さな身体から獣の熱(生体魔力)を限界まで立ち昇らせ、主を守るために、いとも恐ろしい死の化身に向かって鋭い牙を剥き出しにする。
『……脆弱な、獣のノイズ。目障りだ』
シルエットが、ノアに向けて純白の指を軽く弾いた。
その瞬間。 ノアの身体を包んでいた生体魔力の熱が、一瞬にして音もなく「消去」され、同時に強烈な不可視の衝撃が、彼の小さな身体を無慈悲に吹き飛ばした。
「キャァァァァンッ!!」 「ノアッ!!!」
氷の岩盤に叩きつけられ、ノアは二度、三度と雪の上を転がり、そのままピクリとも動かなくなった。 その小さな背中は微かに上下しており、命こそあるものの、完全に意識を刈り取られてしまっている。
「……よくも。よくも、私の家族を……ッ!」
ルカの深く澄み切った青い瞳に、これまでにないほどの激しい怒りの炎が燃え上がった。
『怒りもまた、無駄な摩擦だ。……完璧な世界には、お前たちのような不完全なバグ(命)は必要ない』
純白のシルエットが、ルカの目の前、わずか数メートルの距離まで音もなく滑るように近づいてくる。 圧倒的な死の気配。すべてを漂白し、無へと還す絶対的な「完璧」。
かつてのルカであれば。無菌室の窓から世界を見下ろし、計算通りにいかない他者の存在を「ノイズ」と切り捨てていた彼女であれば。 この存在に魅入られ、抵抗することなくその白に飲み込まれていたかもしれない。
だが。
「……必要ない、ですって?」
ルカは、自身の口元からこぼれる血を、泥だらけの生身の左手で乱暴に拭い去った。 折れた鎖骨。砕けた歯車。吹き飛んだボルト。引き裂かれた肉。 そして、自分のために傷つき、倒れた小さな銀色の獣。
それらすべての『痛みのノイズ』が、今のルカに、爆発的な生への執念を叩き込んでいた。
「あんたみたいな、ツルツルでのっぺらぼうな『完璧』に……この世界の美しさが、分かってたまるもんですか!!」
ルカは、痙攣する左手の指を、右腕の装具へと繋がるワイヤーのトリガーへとかけた。 メインシリンダーはすでに爆散している。右腕を持ち上げるための牽引力は、もはやどこにも残っていない。
だが、ルカは、ただ一つだけ残されていた『排気用の緊急バルブ』のワイヤーに、すべての指を掛けた。
「痛いから、立ち上がれるのよ! 重いから、誰かと手を繋げるのよ!……あんたのその無菌室には、一番大事な『泥臭い熱』が欠け落ちてるわ!!」
ルカは、ひしげた鋼鉄のフレームごと、自身の右半身を大きく後方へとねじった。 そして、左手の指で、緊急バルブのトリガーを全開に引き絞る。
カチャッ。 完全なる〇・五秒の遅延。
その間に、ルカは全身のバネと、へし折れた鎖骨の激痛すらも回転力に変え、右腕にぶら下がったままの『折れた巨針の柄』を、純白のシルエットに向かって力任せに振り抜いた。
シュゴォォォォォォォォォォッ!!!!
爆散を免れていた背中のボイラーから、残された最後の一滴となる超高圧蒸気が、右肘の壊れた配管の隙間から『猛烈な推進力』となって後方へと噴出した。
それは、歯車による精密な制御を完全に放棄した、ただの「質量の暴力」であった。 シリンダーを持たない死に体の右腕が、蒸気の爆発的な推進力と、ルカの体幹の回転力だけを乗せて、数十キロの鉄の塊(折れた柄)ごと、横薙ぎの鉄槌となって純白のシルエットへと襲い掛かる。
『……無駄だ。物理的な衝撃など、我には――』
無機質な声が響いた、その直後。
ズガァァァァァァァァァンッ!!!!!!!
「な、に……!?」
初めて、純白のシルエットの脳内音声に、微かな「動揺」のノイズが走った。
すり抜けるはずだった。 あるいは、触れた瞬間に鉄ごと漂白し、消去できるはずだった。
だが、ルカの振り抜いた『折れた巨針の柄』は、純白のシルエットの左腕を、物理的な質量をもって凄まじい勢いで「ぶん殴り」、その完璧な輪郭を大きく弾き飛ばしたのだ。
「……ハァッ、ハァッ……。無駄じゃ、ないわよ」
ルカは、振り抜いた姿勢のまま、右半身から黒いオイルと血の雨を降らせて、不敵に笑った。
巨針の刃先(父の論理のコア)は、空間を縫い止めたまま、さきほど特異点ごと折れて消滅した。 今、ルカの右腕に固定されているのは、ただの柄。 いや、ガリィをはじめとするアイアン・ヘイヴンの職人たちが、これでもかと不純物を混ぜ込み、折り重ねて打ち込んだ『世界で最も泥臭い鉄クズの塊』である。
「完璧な計算式(魔法)なんて、一つも入ってない。……ただの、ノイズの塊よ」
魔法の論理を持たない、純度ゼロの泥臭い鉄。 だからこそ、あらゆる魔力や理を「消去」する完璧な使徒の力すらも、この究極の不純物の前では、ただの「重たい鉄」として物理的に激突するしか術がなかったのだ。
「計算通りにいかないからって、すぐに消去しようとするな!!」
ルカは、フラフラの足取りで、弾き飛ばされた純白のシルエットに向かって、泥だらけの一歩を踏み出した。
「私は継ぎ接ぎ屋、ルカ! ……あんたが壊したこの世界を、何度でも、不格好に縫い合わせてやるわ!!」
残された武器は、右腕にぶら下がる重たい鉄の柄と、自身のボロボロの肉体のみ。 背中のボイラーは完全に蒸気を失い、プシュゥゥ……と最期の息を吐き出して沈黙した。 もはや機械の力は使えない。
だが、ルカの深く澄み切った青い瞳には、神殺しすら成し遂げんとする、途方もない人間の執念がギラギラと燃え盛っていた。 完璧なる無の使徒と、極限まで不完全な人間の少女。 スノー・ホワイトの頂を舞台にした、本当の、そして最後の死闘の幕が、今、泥だらけの鉄槌の音とともに切って落とされたのである――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




