【第89話】世界の重圧と、抗う泥臭き魂
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
「……っ、がぁっ……!!」
へし折れた右の鎖骨が、呼吸をするたびに周囲の生きた肉と神経をズタズタに切り裂く。 ルカは、口からとめどなく溢れる血を雪に吐き捨てながら、自らの右半身を拘束している鉄の装具を睨みつけた。
右肘のボルトが弾け飛んだことで、死に体である右腕を覆う鋼鉄のフレームが、外側に向かって異様な角度にねじ曲がっていた。 装具でガチガチに固定されているがゆえに、腕が下に落ちることはない。
しかしその代わり、本来なら全身のフレームで分散されるはずだった数十キロの重量と、巨針が受けている数千万トンの反発力が、歪んだハーネスを通じて『ルカの右の鎖骨と肋骨の一点』にすべて集中し、万力のように彼女の身体をへし折ろうと押し潰し続けているのだ。
(このままシリンダーを動かしたら、反動のベクトルが狂って、今度こそ私の肋骨が全部砕ける……!)
ルカは、痙攣する左手を伸ばし、ねじ曲がった鋼鉄のフレームをガシッと掴んだ。
「……戻り、なさいよ……ッ!!」
彼女は、自身の折れた鎖骨に激痛が走るのも構わず、左手の腕力だけで、数十キロの歪んだ鉄の骨組みを強引に本来の軌道へと押し戻した。 ガキンッ! と金属が不気味な軋み音を立てる。
そしてルカは、装甲から千切れかけていた分厚い革ベルトの端に噛みつくと、歯を食いしばり、左手と顎の力を使って、外れかけたフレームの関節部を無理やりグルグル巻きに縛り上げ、固定した。
自分の身体ごと、壊れた機械を泥臭く『継ぎ接ぎ』する。
シューッ、チチチチッ……。 ルカがフレームを固定したそのすぐ脇では、小さな銀色の獣の仔――ノアが、自らの柔らかな肉体を高熱の蒸気に焼かれながらも、決死の覚悟でパイプの亀裂を塞ぎ続けている。
彼の命を削ったパッキンのおかげで、ボイラーの圧力計の針が、震えながらも再び規定値へと這い上がっていくのが見えた。
(……ごめんね、ノア。でも、あと少しだけ……一緒に耐えて……!)
ルカは、口にくわえていた革ベルトを吐き捨てると、左手の指で再びワイヤーのトリガーを握り込んだ。
カチャッ。 壊れかけた歯車と、ノアの生体魔力が混ざり合った、不規則で泥臭い〇・五秒の遅延。
シュゴォォォォォォォォォッ!!!!
右腕のシリンダーが、まるで血を吐くような凄惨な駆動音を上げて収縮した。 岩盤に倒れ込んでいたルカの上半身が、蒸気の力と巨針を支点にして、再び虚無の縁へと強引に引き起こされる。
「……四針目ぇぇっ!!」
ズガァァァァァァァンッ!!!!
空間の亀裂へ、再び『鉄屑の巨針』が打ち込まれる。 そしてここからが、真の地獄であった。
針を打ち込んだだけでは、開いた傷口は塞がらない。 ルカは、左手のワイヤー操作でシリンダーの牽引力を最大まで引き絞り、空間の縁と縁を、物理的に『力ずくで引き寄せる』という絶望的な作業を行わなければならないのだ。
ギャリギャリギャリギャリッ!!!
悲鳴を上げる外骨格のウインチ。空間の縁が、ルカの生体魔力で編まれた見えない極太の糸に引っ張られ、数千万トンの抵抗を発しながらジリジリと距離を縮めていく。
だが、黒い太陽も黙って縫い合わされるほど従順ではない。 穴が狭まるにつれて、内部の虚無の圧力が行き場を失い、カルデラの中心へ向かってすべてを飲み込もうとする『水平方向の引力』が、さらに狂気的な強さへと跳ね上がったのだ。
「ぐっ、あぁぁぁぁっ……!!」
ルカの足元の岩盤が、凄まじい引力に耐えきれずにメキメキとひび割れ、砕け散っていく。 アイゼンを突き立てていた大地そのものが、虚無に向かってズルズルと引きずられ始めた。
ブシュゥゥゥッ!!
同時に、限界を超えた牽引力に耐えきれず、右腕の外骨格の各所から、黒く濁った『機械油』が、まるで動脈が切れたかのように激しく噴き出した。
熱を持った黒いオイルが、ルカの顔や衣服に容赦なく降り注ぐ。 それは彼女自身の傷口から流れる赤い血と混ざり合い、ルカの全身を、およそ人間とは思えないほどに凄惨で、泥と鉄錆と血にまみれた『不浄の塊』へと変え果てさせていく。
「ウォォォォンッ!!」 ノアが、火傷の痛みに耐えながら、ルカを励ますように力強く吼える。
「わかってる……っ! 離さ、ないわよ……っ!!」
ルカは、アイゼンが弾け飛んだ両足で、血みどろになった岩肌を必死に踏み締めた。
巨針の柄を固定している右腕は、もはや鉄の装甲がひしゃげ、いつ分解してもおかしくない状態だ。 数千万トンの引力が、ルカの身体を容赦なく前方の奈落へと引っ張り込む。
あと一歩でも前に引きずられれば、彼女は空間の反発力と黒い太陽の引力に挟まれ、文字通りチリ一つ残さず虚無へと消滅してしまう。
「……諦めろ」
ふと。 音の消えたカルデラの底から、絶対的な冷たさを持った『虚無の意志』のような幻聴が、ルカの脳内に直接響いた。
『お前のような不完全な肉体で、世界の崩壊を止められるはずがない。手を離せば、すべてが楽になる。痛みも、重さも、悲しみも、何もない完璧な静寂が、お前を包んでやる』
それは、かつてルカが塔の無菌室の中で求めていた、「ノイズの一切ない完璧な世界」の究極の形、そのものだった。 手を離せば、この骨が砕ける激痛からも、焼け焦げるような熱からも、すべてから解放される。
一瞬、ルカの左手の指の力が、ほんのわずかに緩みかけた。 ズズッ……と、ルカの身体が虚無の縁に向かって数十センチ引きずり込まれる。
だが。
(……冗談じゃないわ)
ルカは、血と黒いオイルでドロドロになった顔を上げ、漆黒の太陽を真っ向から睨み据えた。 彼女の青い瞳の中には、虚無の誘惑など一瞬で焼き尽くすほどの、途方もない『生への執念』がギラギラと燃え盛っていた。
「……痛みがなくなるのが、救い? ノイズがないのが、完璧……?」 ルカは、砕けた歯の隙間から、血の混じった唾を真っ暗な虚無に向かって吐き捨てた。
「そんなの、ただの『死体』じゃない!!」
ルカは、緩みかけた左手の五本の指を、自らの爪が手のひらに食い込んで血が流れるほどの力で、再び限界まで握り込んだ。
カチャッ! シリンダーのバルブが、限界を突破して全開に固定される。
「痛くていい! 重くていい!! うるさくて、不格好で、誰かとぶつかってばっかりでも……私は、泥だらけの明日を生きたいのよ!!」
ルカの魂の底からの絶叫が、虚無の暴風を物理的に切り裂いて、スノー・ホワイトの頂に響き渡った。
「ここで私が手を離せば……ノアも、お父様も、ガリィも……この世界で足掻いてるみんなの『明日』が、消えちゃうでしょぉぉぉぉぉぉっ!!!」
その絶叫と同時に。 ルカの身体の奥底――魔力回路の奥深くに眠っていた、彼女の命の炎そのものである『生体魔力』が、かつてないほどの莫大な熱量となって爆発した。
それは、王宮の魔道具師が放つような、美しく純白に輝く神聖な光ではない。 赤く、黒く、不純物を大量に含んだ、まるで鉄を溶かす溶鉱炉の炎のような、極めて暴力的で『泥臭い熱』であった。
ゴォォォォォォォォォォォォッ!!!!!
ルカから溢れ出したその泥臭い命の炎が、外骨格の鉄のフレームを駆け巡り、パイプの隙間を塞ぐノアの獣の熱と完全に同調する。
黒いオイルを噴き出し、崩壊寸前だった機械の腕が、ルカの熱を吸い上げて赤熱し、強引に失われた圧力を補って再び凄まじい牽引力を生み出し始めたのだ。
「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」
ルカは、砕けた鎖骨の激痛を、命の炎を燃やすための「薪」へと変え、全身の筋肉の繊維をブチブチと引きちぎりながら、後方へと力任せにのけぞった。
機械の力だけではない。人間の、そして獣の、決して明日を諦めないという純粋な『意地』が、数千万トンの虚無の引力を、力ずくでねじ伏せていく。
ギガァァァァァァァァァンッ!!!!
ルカの命を削った最後の一引きによって、空間の縁と縁が、ついに強引に引き寄せられ、巨大な亀裂の中心部がバチンッ!と強固に縫い合わされた。
「……あ、が……っ、はぁっ……!!」
結び目が固定されたのを確認した瞬間、ルカの全身からプツリと糸が切れたように力が抜け、彼女は仰向けに岩盤の上に倒れ込んだ。
空を覆っていた直径数キロの『黒い太陽』は、ルカの放った泥臭い縫合によって、その巨大な口を半ば以上塞がれ、致命的な引力異常の嵐が、嘘のようにピタリと収まっていた。
だが、ルカの身体もまた、限界のその先をとうに超えていた。 吐き出した息はひどく浅く、口からは血の泡が絶え間なく湧き出している。瞳の焦点は定まらず、燃え盛っていた命の炎は、今にも吹き消されそうな風前の灯火へと変わっていた。
死闘の果て。 黒い太陽の息の根を止めるための、最後の一縫い。
それを成し遂げるための力が、この泥だらけの少女の身体に、果たして残されているのだろうか。 限界を超えた少女をあざ笑うかのように、最後にして最大の絶望が牙を剥こうとしていた――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




