【第88話】崩壊する枷と、獣の献身
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
限界を超えたねじれの張力に耐えきれず、右肘の関節部を固定していた極太の鋼鉄ボルトが、火花を散らして弾け飛んだのだ。
弾け飛んだボルトは弾丸のように虚無へと吸い込まれ、圧力を失ったパイプの継ぎ目から、悲鳴のような高周波の音とともに高圧蒸気がブシュゥゥゥッ!と大量に漏れ出し始める。 右腕のフレームがガクンと脱落し、支えを失った巨針の凄まじい重量と、空間の反発力の残滓が、ルカの『生きた肉体』へとダイレクトに牙を剥いた。
ミシッ、メキメキメキッ!!!
「あァァァァァァァァァァァァッ!!!!!!!」
ルカの右側の鎖骨が、装具のハーネスの暴力的なねじれに耐えきれずに、ついにへし折れた。 同時に、右肩の関節の靭帯がブチブチと引きちぎられ、半ば脱臼したような不自然な角度に歪む。
「ガハッ……、あ、ごっ……」
激痛で視界が完全にブラックアウトし、ルカは岩盤の上にバタリと倒れ込んだ。 口と鼻から大量の血が溢れ出し、冷たい岩肌に赤黒い染みを作る。
肺に突き刺さった折れた骨の激痛が、呼吸をするたびにルカの意識を白く焼き切ろうとする。 右腕のシリンダーは蒸気を垂れ流して完全に機能不全に陥り、もはや左手の指先すら、痙攣してまともに動かすことができない。
物理的な、完全なる『死』の限界。
(……痛、い……。……体が、千切れる……)
薄れゆく意識の底で、ルカは泥水のように濁った思考を巡らせた。 無理だ。これ以上は、装具が持たない。そして何より、私の身体が持たない。
たった三針縫っただけで、このザマだ。 巨大な黒い太陽の口を完全に塞ぐには、この絶望的な衝撃と引力の中を、あと何百回も這いずり回らなければならない。 人間の肉体で、そんなことが可能なはずがなかった。
「……クゥゥゥン……ッ!!」
意識が漆黒の虚無に吸い込まれそうになった、その時。
ルカの胸元のスリングから、血と氷にまみれた小さな銀色の獣の仔――ノアが這い出し、強烈な水平の引力に吹き飛ばされそうになりながらも、ルカの泥だらけの頬を自らの温かくザラリとした舌で必死に舐め始めた。
「ウォォォォンッ!! クゥン、クゥン……ッ!!」
ノアの悲痛な鳴き声が、音の消えたカルデラに響く。 彼は、主の命の火が今まさに消えようとしているのを本能で悟っていた。
シューーーーーッ……。
弾け飛んだ右肘の関節から、ルカの命綱である蒸気が容赦なく抜け続けている。 このまま圧力が失われれば、巨針を持ち上げることはおろか、重い装具に押し潰されてルカは死ぬ。
ノアは、自身の四肢を血まみれにしながら、蒸気が噴き出している右肘の壊れた配管の隙間へと、自らの小さな身体を捻り込むようにして覆い被さった。
「ダメ……っ、ノア……! 高圧蒸気で、火傷、する……っ!」
ルカが微弱な声で制止するが、ノアは絶対に離れようとしなかった。 彼は、自らの『獣の熱と生体魔力』を限界まで燃え上がらせ、抜けていく水蒸気を強制的にパイプの内部へと押し留め、自らの肉体を「生きたパッキン(封止材)」として配管の穴を塞いだのだ。
ジュゥゥゥゥッ……!!
高熱の蒸気がノアの銀色の毛皮を焦がし、皮膚を焼く。
「クィィィィンッ……!!」
痛みに悲鳴を上げながらも、ノアはその小さな瞳でルカを真っ直ぐに見つめ、獣の熱を彼女の凍りつく心臓へと注ぎ込み続けた。
(……ああ。……そうよね。……私がここで終わったら、この子も、一緒に虚無に落ちてしまう)
ルカは、折れた鎖骨の激痛に顔を歪めながら、痙攣する生身の左手をゆっくりと動かし、ノアの小さな背中にそっと触れた。
「……ごめんね、ノア。……まだ、休めないわね」
ルカの青い瞳に、再び、狂気にも似た職人の執念の炎が、ボワッと燃え上がった。
装具のボルトが弾け飛んだなら。計算が狂い、クッションが失われたなら。 小さな家族が、その身を焼いてまで、折れた鉄の腕を繋ぎ止めてくれているのなら。
(……私の残りの『命』をすり潰してでも、強引に動かすまでよ)
限界を超え、崩壊を始めた不格好な鉄の枷。 そして、その重圧に肉を裂かれながらも、決して絶望に屈することのない不完全な少女。
一人と小さな一匹の、互いの命を限界まで削り合いながら世界を縫い合わせるという『究極の共闘』は、ここからさらに、凄絶を極める死闘の領域へと足を踏み入れていくのであった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




