【第86話】絶望の暴風 ―― 第一針の打ち込み
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
音すらも飲み込む絶対的な虚無の縁から、ルカは自らの小さな身体を、黒い太陽の引力の中へと躊躇なく投げ出した。
「……っ!!」
凄まじいマイナスGが、ルカを大地の側から一気に引き剥がし、底なしの暗黒へと猛烈な速度で引きずり込もうとする。 上下左右の感覚が完全に消失し、ただ「消滅」という終着点へ向かって落ちていく絶対的な恐怖。
並の人間であれば、この浮遊感の時点で精神が崩壊していただろう。
だが、ルカの深く澄み切った青い瞳は、決して虚無の奥底(絶望)を見てはいなかった。 彼女が視線を定めているのは、引き裂かれた世界の「断面」――空間の境界線が、赤や紫の毒々しく明滅を発してチリチリと崩壊し続けている、その『縁』の一点のみ。
(……布が裂けたら、端と端を寄せて縫う。……世界だって、同じことよ!!)
宙に投げ出された無重力状態の中で、ルカは生身の左手を顔の前に突き出し、五本の指にはめられた鉄のリング(トリガー)を、極限の集中力とともに操作した。
カチャッ。
完全なる、〇・五秒の泥臭い遅延。
「いっけぇぇぇぇぇぇっ!!!」
シュゴォォォォォォォォォォォォッ!!!!!!!
ルカの背中で、臨界点に達した真鍮のボイラーが、これまでで最も巨大な高圧蒸気の咆哮を上げた。 右肩と右肘の巨大なメインシリンダーが一気に収縮し、死に体である右腕を、外骨格の暴力的な張力で『巨針』ごと大きく振りかぶらせる。
そしてルカは、左手の五本の指を、空間の縁を鷲掴みにするように力強く握り込んだ。
ズガァァァァァァァンッ!!!!!!
振り下ろされた禍々しい『鉄屑の巨針』の針先が、虚無と現実の境界線――空間の亀裂の断面に、物理的な質量をもって真っ向から叩き込まれた。
その瞬間。
「――っっっ!!?!?」
ルカの全身を、大陸一つを丸ごと消し飛ばすかのような、規格外の『反発力』が襲った。
それは、無理やり広げられた傷口を縫い合わされようとした「世界」そのものが上げる、巨大な拒絶の悲鳴であった。 数千万トンにも及ぶ空間の反発力が、巨針の針先を通じて、ルカの右腕へとダイレクトに逆流してくる。
かつて、母エレンが愛用し、ルカが囁きの森で振るった『ステラ・ニードル』は、純白のミスリル銀で打たれた完璧な魔法の針であった。 あの針であれば、この巨大な反発力に一切の「遊び」を持たずに真っ向から衝突し、世界を繋ぎ止める前に薄いガラス細工のように木端微塵に砕け散っていただろう。
あるいは、ルカの右腕そのものも、その衝撃を逃がしきれずに細胞レベルで爆散していたはずだ。
だが、今の彼女が右腕に固定しているのは。 そして、その身に纏っているのは。
「ガァァァァァァァァッ!!!」
ギガッ! ギャリギャリギャリギャリッ!!!
強烈なバックラッシュがルカの右腕を襲った瞬間。 外骨格装具の巨大な歯車たちが、あえて一寸の狂いもないことを放棄し、火花を散らしながら猛烈な勢いで『空回り』を始めたのだ。
ガリィがわざと〇・二ミリの「遊び(隙間)」を持たせて組み上げた、不格好な歯車の連動。 その隙間が、空間からの数千万トンの衝撃を摩擦と音に変換し、外部へと激しく撒き散らしていく。
さらに、右肩の超高圧蒸気シリンダーが、逆流してきた凄まじい物理的負荷を真正面から受け止め、限界まで圧縮されることで、最強の『空気のクッション』となって衝撃を吸収した。
プシュゥゥゥゥンッ!!!
過剰な衝撃が圧縮された蒸気となり、安全弁を吹き飛ばしてルカの肩口から凄まじい勢いで噴き出す。
「ぐっ……、あ、がぁっ……!!」
装具が衝撃を逃がしてくれたとはいえ、ルカの生きた肉体にのしかかる負荷がゼロになったわけではない。 分厚い牛革のハーネスがルカの身体を限界まで締め上げ、肋骨がミシミシと悲鳴を上げる。
右肩の関節は今にも脱臼しそうに軋み、口からは抑えきれない赤い血がゴポッと噴き出した。
それでも。
ルカの身体は、吹き飛ばなかった。 死に体である右腕の骨も、粉砕されなかった。
装具の『遊び』が物理的な衝撃を吸収し、そして、空間に突き立てられた『鉄屑の巨針』が、圧倒的な「不格好さ」で虚無の拒絶に耐え抜いたのだ。
キィィィィンッ……!!
針の芯材である、父アルベルトの「絶対に折れない論理のコア」。それが強烈な反発力に耐えて芯を保ち。 その外側を覆う「アイアン・ヘイヴンの不純物だらけの鉄クズ」が、父の論理が受け止めきれない余剰の衝撃を、自らがわずかにグニャリと『歪む』ことによって吸収していく。
さらに、鉄の表面にアルベルトが意図的に刻み込んだ「不規則なノイズの回路」が、ルカの魔力を滞らせ、激しい摩擦熱を生み出すことで、虚無の圧倒的な冷気を相殺し続けていた。
完璧な強さではない。 曲がり、歪み、摩擦を起こし、熱と音を撒き散らしながら、ギリギリのところで折れずに持ち堪える『不完全な強靭さ』。
「……あ、あ合っ……」
血と脂汗にまみれたルカの顔に、壮絶な、しかし最高に誇らしげな笑みが浮かんだ。
「最高よ……お父様、ガリィ……! あんたたちの作ったこの鉄クズ……空間の反発力じゃ、ビクともしないじゃない……!!」
ルカは、歯を食いしばり、左手のトリガーをさらに深く引き絞った。
「ウォォォォォォォンッ!!」
スリングの中で、ノアがその獣の熱を限界まで振り絞り、凍りつおうとするルカの心臓とシリンダーを温め続ける。
「繋がれ……ッ!! 不格好に、泥臭くッ!!!」
ルカの魂の絶叫とともに。 外骨格のシリンダーが最後の咆哮を上げ、巨針の刃先が、空間の断面の奥深くへと、ズゴォォォォォォォンッ!! と完全に突き刺さった。
その瞬間、ルカの流した血と生体魔力が、巨針のノイズ回路を通じて空間の縁へと流し込まれ、赤黒く明滅していた虚無の境界線が、ジジジッ……と不規則な火花を散らして『固定』された。
それは、魔法による美しい癒しではない。 巨大な傷口に、サビだらけの太い鉄のホッチキスを、力ずくでバチンッと打ち込んだような、極めて暴力的で物理的な「第一の結び目」であった。
だが、間違いなく。 世界最大の絶望の穴の縁に、不完全な者たちの「ノイズ(祈り)」が、確かな質量を伴って縫い付けられたのだ。
「……ハァッ……、ハァッ……。一本目……ッ」
ルカは、空間の縁にぶら下がるような姿勢のまま、荒い息を吐き出した。 まだ、穴のほんの端の、たった一点を繋ぎ止めたに過ぎない。
直径数キロのこの巨大な虚無を完全に縫い合わせるには、この「肉が裂ける激痛と空間の反発力」を伴う泥臭い打ち込みを、あと何百回、何千回と繰り返さなければならないのだ。
普通の人間なら、この先の果てしない苦痛の連続を想像しただけで、絶望して手を離してしまうだろう。 しかし、ルカの青い瞳は、虚無の闇を睨み据えたまま、ギラギラと狂気的なまでの職人の熱を帯びていた。
「さあ……大人しく縫われなさい、黒い太陽。……私が生きてる限り、あんたの口は、私が全部、鉄の糸で塞いでやるから!!」
万人のノイズを背負った継ぎ接ぎ屋と、世界を喰らう虚無との、人類の存亡を賭けた途方もない「大縫合」が、今、スノー・ホワイトの頂において、凄絶な産声を上げたのである。
――だがその刹那、黒い太陽の奥底から、さらなる異界の重圧が、少女の細い身体を叩き潰さんとばかりに、おぞましい音を立てて逆流を始めようとしていた。 崩壊の最前線で、ルカを待ち受ける次なる絶望とは――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




