【第85話】黒い太陽と、丸腰の職人
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
穴の縁では、引き剥がされた空間の断面が、まるでノイズの走る劣悪な魔力映像のように、赤や紫に毒々しく明滅しては、チリチリと崩壊し続けていた。
マイナスGだの、プラス2Gだのといった、麓での重力異常など可愛いものだ。 この奈落の縁に満ちているのは、一切の例外を許さない、絶対的な「中心への引力」。 万物を無に還そうとする、宇宙のバグそのものであった。
「クゥゥゥン……ッ」
スリングの中のノアが、その生物としての根源的な恐怖に耐えきれず、ルカの胸に顔を埋めて震え上がった。 無理もない。王宮の歴戦の騎士であろうと、高位の魔道具師であろうと、この規格外の虚無を前にすれば、己の矮小さに絶望し、発狂して自らその穴へと身を投げてしまうだろう。
それほどまでに、この黒い太陽は、人間が認識していいスケールを逸脱していた。 直径数キロの空間の裂け目を、たった一本の針で縫い合わせる。 それは、アリが一匹で、干上がった巨大な峡谷を縫い合わせようとするような、あまりにも無謀で、滑稽な試みだ。
しかし。
その絶対的な虚無を真っ直ぐに見据えるルカの、ノアと同じ深く澄み切った青い瞳に。 『恐怖』や『絶望』の色は、微塵も浮かんでいなかった。
「……なんだ。ただの、馬鹿でかくて不格好な『綻び(穴)』じゃない」
ルカの泥だらけの唇から紡がれたのは、神の怒りに怯えるような祈りの言葉ではなく。 仕事場に持ち込まれた、厄介な修理品を検分するような、極めて冷静で、静かなる『職人の声』であった。
彼女は、生身の左手で、自身の右肩に食い込む分厚い牛革のハーネスをギュッと握り直した。 全身の骨は軋み、肉は裂け、ボイラーの熱と極寒の冷気によって感覚はとうに麻痺しかけている。 だが、その限界を超えた『痛み』と、右腕の機械がもたらす『重さ』のすべてが、ルカに「自分はまだここに存在している」という強烈な現実感を与え続けていた。
完璧な神様になろうとしていた頃のルカであれば、この巨大な虚無を前にして、己の計算式が通用しないことに絶望し、崩れ落ちていただろう。 だが今の彼女は、己が一人では何もできない、ただの不完全な『継ぎ接ぎ屋』であることを、心の底から理解し、受け入れている。
一人でこの穴を塞ぐのではない。 父の狂気と後悔が込められた針の芯。ガリィが叩き込んだ泥臭い鉄クズ。エイル村の人々が自らの手で縄を引いた生への執念。そして、胸元で鼓動を打つ、小さな家族の温かい熱。
そのすべての『ノイズ』が、今、ルカのこの不格好な装具とともに、彼女の命を大地の縁にガッチリと繋ぎ止めているのだ。
「……私の針なら、届くわ。この世界の、端と端に」
ルカは、左手の五本の指にはめられたトリガーを、ゆっくりと、しかし確かな力強さで握り込んだ。
カチャッ。 〇・五秒の、泥臭い遅延。
シュゴォォォォォォォォォォォォッ!!!!
音すらも飲み込まれる静寂のカルデラに、反逆の狼煙のような高圧蒸気の咆哮が轟いた。
右腕のメインシリンダーが、凍りついた血と氷を吹き飛ばしながら、極限の張力で唸りを上げる。 ギャリギャリギャリッ!と暴力的な歯車の噛み合う音が、虚無の引力に真っ向から抗い、死に体であるルカの右腕を、岩盤ごと『鉄屑の巨針』を強引に引き抜いて天へと振りかぶらせた。
ズンッ……!!
漆黒の虚無を背景にして、ルカの頭上に、禍々しくも頼もしい鉄の巨針が掲げられる。
「少し、手荒い手術になるわよ」
ルカの青い瞳の奥で、決して消えることのない、静かで、しかし世界で最も熱い闘志の炎が燃え上がった。 絶望のスケールがどれほど巨大であろうと、関係ない。 穴が開いているのなら、不格好に、泥臭く、何度血を吐いてでも縫い合わせるだけだ。
「行くわよ、ノア。お父様、ガリィ。……みんな!」
世界最大の虚無の縁に立つ、世界で最も不格好な少女。 彼女は、左手のトリガーに全神経を集中させ、絶対的な絶望の口を塞ぐための、最初のひと針を打ち込むべく、その身を奈落の引力の中へと投げ出したのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




