【第83話】獣の熱と、鉄の軋み
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
乱高下する重力異常の海を、ルカは文字通り血を吐きながら這い上がっていた。
だが、霊峰スノー・ホワイトが牙を剥くのは、狂った物理法則だけではなかった。 山頂の『黒い太陽』に近づけば近づくほど、吹き荒れる猛吹雪は、ただの「冷気」から、あらゆる分子の運動を強制的に停止させる『絶対零度の呪い』へとその性質を変異させていったのである。
「……っ、はぁっ、はぁっ……」
ルカの吐く息は、もはや白く濁ることすらなく、口から出た瞬間に細かなダイヤモンドダストとなって空へ吸い込まれていく。
背中の真鍮製ボイラーは、彼女の命を繋ぐために限界を超えて燃料を燃やし、その背中を火傷するほどに温め続けていた。 しかし、その熱気すらも、吹き付ける絶対零度の風の前では、ルカの体幹をかろうじて凍死から守るだけで精一杯だった。
そして、最も致命的な危機は、ルカの身体ではなく、彼女を大地に繋ぎ止めている『鉄の相棒』に訪れた。
(……動か、ない……!)
ルカが、次の重力反転に備えて巨針を岩盤に打ち込もうと、左手のトリガーを引いた時のことだ。 本来であれば〇・五秒の遅延の後に作動するはずの、右腕のメインシリンダーが、一秒、二秒経っても微動だにしない。
ギガッ……、ガ、ガガガガッ……!!
装具の関節部から、これまで聞いたこともないような、ひどく苦しげな金属の摩擦音が鳴り響いた。
ルカが視線を向けると、死に体である右腕を覆う分厚い鋼鉄のフレームと、蒸気を送り込むパイプの表面に、分厚い『青氷』がびっしりと張り付いていたのだ。 背中のボイラーから送り込まれる熱い蒸気が、右腕のシリンダーに到達するまでのわずかな間に、外気の絶対零度に熱を奪われ、パイプの中で急速に結露し、強固に凍結してしまっている。
シリンダーの内壁に張り付いた氷がピストンの動きを物理的にロックし、歯車の噛み合わせを完全に氷漬けにしてしまっていた。
ビリビリビリッ……!!
その時、岩盤に突き刺さったままの巨針が、けたたましいノイズを放ち始めた。 針の芯材に封じられた父の論理のコアが、数秒後に『上向きの引力(マイナスG)』が襲いかかってくることを警告している。
(針を、抜かなきゃ……! いえ、抜いたらそのまま空に落ちる……! でも、このままじゃ次の岩に針を打ち込めない!!)
ルカは焦燥に駆られ、血の滲む左手の指で、何度も、何度もワイヤーのトリガーを力任せに引いた。 しかし、凍りついた鉄の腕は、悲鳴のような軋み音を上げるだけで、巨針を引き抜くための牽引力を全く生み出そうとしない。
ゴォォォォォォォォォッ!!
無情にも、重力反転の嵐がルカを襲った。
「あぁぁぁっ……!!」
空へ引き剥がそうとする猛烈な引力。 ルカは岩盤に刺さった巨針の柄にすがりつき、全身の関節が引きちぎられそうになる激痛に耐えた。
だが、本当の地獄はこれからだ。 重力異常は数秒で過ぎ去る。その風が凪いだ瞬間に、凍りついたシリンダーを動かして針を抜き、次の斜面へと登らなければ、彼女は永遠にこの絶対零度の岩肌に磔にされたまま、凍死を待つことになってしまう。
(動いて……! 動いてよ!! ここで止まったら、全部終わっちゃうのよ!!)
ルカは、凍りついた装甲を自身の生身の左手で乱暴に叩き、必死にワイヤーを引いた。 しかし、鉄は冷酷なまでに沈黙を続ける。
機械は、人間のように気合や根性で限界を突破したりはしない。熱力学の法則に従い、熱を奪われれば停止する。 それが、魔法ではない『物理の限界』だった。
ルカの視界が、絶望の冷気によってゆっくりと暗く染まりかけた、その時。
「クゥゥゥンッ!!」
ルカの胸元、分厚い外套の下の温かいスリングの中から、一つの小さな影が、猛吹雪の吹き荒れる外の世界へと力強く飛び出した。 猫ほどの大きさの、銀色の獣の仔――ノアだった。
「ダメよ、ノア!! 外に出たら、凍え死んでしまうわ!!」
ルカは悲痛な声を上げた。 いくら魔力を持った銀色の獣とはいえ、まだ幼い仔だ。この絶対零度の暴風の中に身を晒せば、数分と持たずにその小さな命の火は吹き消されてしまう。
しかし、ノアはルカの制止の声を無視し、彼女の左腕を伝って、真っ白に凍りついた右腕の外骨格の上へとよじ登った。
そして彼は、最も厚い氷に覆われ、完全に機能停止に陥っていた右肩の『メインシリンダー』と『巨大な歯車』の接合部に、自身の小さな身体を覆い被せるようにして、ピタリと密着させたのだ。
「グルルルルルッ……!!」
ノアは、冷酷な鉄の塊に自身の柔らかな腹を擦り付け、四本の足でシリンダーをギュッと抱きしめるようにしがみついた。
ジュゥゥゥッ……!
彼の温かい体温と銀色の毛皮が絶対零度の氷に触れ、凄まじい温度差によって白い水蒸気が上がる。
(ノア……! 何を……)
ルカは息を呑んだ。 ノアは、機械の構造など理解していない。だが、彼の野生の勘は、この冷たく死んだ鉄の塊が、ルカの命を繋ぐための最も重要な『心臓』であることを正確に悟っていたのだ。 そして、冷たさが命を奪うのなら、自分の『獣の熱』を注ぎ込めばいいのだと、本能のままに行動したのである。
「ウォォォォォォォォンッ!!」
ノアが、凍てつく空に向かって、小さくも誇り高い遠吠えを上げた。
彼の身体の奥底から、獣の純粋な生命力である『生体魔力の熱』が爆発的に膨れ上がり、それがシリンダーを抱きしめる彼の腹と肉球を通じて、直接、鉄の装具の内部へと流し込まれていく。 ノアの肉球の皮膚が、極低温の鉄に張り付いて無残に剥がれ、赤い血がシリンダーの表面に滲む。
彼の美しい銀色の毛皮には瞬く間に霜が降り、その小さな身体は寒さと痛みにガタガタと激しく震えていた。 それでも彼は、絶対にシリンダーから離れようとしなかった。
ルカの死んだ右腕を、いや、ルカの命そのものを温めるために、自らの小さな命を燃やして、必死に鉄を抱きしめ続けているのだ。 その小さな熱が、奇跡の反逆を呼ぼうとしていた――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




