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ステラ・ニードルの記憶 〜完璧な魔法を失った天才魔導師は、真鍮の義手で不完全な世界を継ぎ接ぎする〜  作者: 紡木 綸


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【第82話】狂い始める重力と、這い上がる歩み

『神耳の落ちこぼれ』


世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。

少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

ルカは、左手のトリガーを操作し、ズンッ!と重い音を立てて大地に刺さっていた巨針を引き抜いた。

「行くわよ、ノア。……ここからが、本当の地獄の始まりよ」

ルカが視線を向けた先。 村の奥から延びる、霊峰スノー・ホワイトの頂へと続く登山道。

そこはもはや道ではなく、黒い太陽の圧倒的な引力によって、地盤が剥がれ、空に向かって雪と岩が滝のように逆流していく、絶対的な『死の斜面』と化していた。 だが、ルカの瞳に恐れはない。

人間の痛みと、鉄と蒸気の産声を背負い。背後には、共に足掻いてくれる村人たちの泥臭い祈りがある。 不完全な者たちの「究極の継ぎ接ぎ」に向けた、世界最大のブラックホールへの絶望の登攀が、今、ルカの一歩目の重い鉄の足音とともに、力強く開始されたのである。

* * *

エイル村の奥、かつては霊峰スノー・ホワイトの頂へと続いていたはずの巡礼の道。 そこはもはや、人間の歩行を許す「道」としての概念を完全に喪失していた。

「……ハァッ……、ハァッ……」

ルカの吐く白い息が、猛吹雪に掻き消されていく。 山頂の『黒い太陽(虚無)』が放つ絶望的な引力は、霊峰一帯の物理法則を、まるで出来の悪い継ぎ接ぎの布のようにズタズタに狂わせていた。

一定の重力が働いているわけではない。それが、この空間の最も恐ろしいところだった。 ある場所では通常の重力が働き、そこから一歩踏み出した瞬間に無重力になり、さらに次の瞬間には強烈な『上向きの引力(マイナスG)』が突風のように吹き荒れる。

空間の概念そのものがバグを起こし、重力のベクトルが秒単位で、かつ局地的に乱高下しているのだ。 気を抜けば、足元の雪や岩盤ごと空へと引き剥がされ、そのまま底なしのブラックホールへと吸い込まれて消滅してしまう。

「クゥゥン……」

ルカの胸元で、小さな震える声が響いた。 分厚い革の外套の下、彼女の首から下げられたスリング(抱っこ紐)の中にすっぽりと収まっている、猫ほどの大きさの銀色の仔狼――ノアだ。

小さなノアは、狂い切った大自然の気配と、絶えず変化する重力異常の気持ち悪さに、スリングの中で身を丸めて震えながらも、その温かい体温でルカの心臓のすぐ近くを必死に温め続けてくれていた。

「大丈夫よ、ノア。……絶対に、落としたりしないから」

ルカは、生身の左手でスリング越しの小さな相棒をポンポンと軽く叩き、荒い息を吐きながら前を見据えた。 一寸先は、重力の乱気流。目視で安全なルートを見極めることなど、到底不可能である。

しかし、今のルカには、この狂った物理法則の海を渡るための「羅針盤」があった。

ルカの死に体である右腕に固定された『鉄屑の巨針スクラップ・ニードル』。 父アルベルトが長年座り続けた「論理の玉座」のコアを芯材にし、アイアン・ヘイヴンの不純物だらけの鉄クズで折り重ねられたこの不格好な針は、今、極めて異常な反応を示していた。

チリチリチリッ……!! ビリビリビリ……!!

針の内部に封じ込められた高密度の魔力回路が、周囲の空間の「歪み」や「重力異常の波長」に激しく干渉し、まるでダウジングロッドのように微振動を起こし、時には熱を放ってルカに警告を発しているのだ。

(……針が、鳴いている。マイナスが来るわ……!)

ルカが斜面を数歩登った瞬間、右腕に固定された巨針が、突如として火傷しそうなほどの熱を持ち、激しい耳鳴りのようなノイズを放った。 それは、数秒後にこの座標の重力が『反転(マイナス化)』するという、明確なアラート。

「いくわよ!」

ルカは、アイゼン(滑り止め)のついた分厚いブーツで氷の斜面を踏み締め、左手の五本の指にはめられた鉄のリング(トリガー)を、極限の集中力とともに操作した。

カチャッ。 〇・五秒の遅延ラグ

シュゴォォォォォォォォォッ!!!!

背中のボイラーから高圧蒸気が右肩のメインシリンダーに送り込まれ、暴力的な歯車の軋み音とともに、死に体である右腕が巨針ごと、ルカの頭上高くへと強引に振り上げられる。 激痛が右肩の生きた肉を打ち据えるが、ルカは針を力強く振り下ろした。

ギガリッ!! ズドォォォォォォォンッ!!!!!

振り下ろされた禍々しい巨針の切っ先が、重力反転の波が到達する直前の霊峰の分厚い岩盤を粉々に砕き割り、深々と、絶対に抜けないくさびとして突き刺さった。 そしてルカは、岩盤に突き刺さったその巨針の柄に生身の左手を強く添え、スリングの中のノアをかばうようにして、大地の岩肌にペタリと低く這いつくばった。

その直後。

ゴォォォォォォォォォォッ!!!!

ルカの周囲数十メートルの空間の重力が、一瞬にして『上向き』へと強烈に反転した。 足元の大地に積もっていた雪が、砕けた岩の破片が、まるで滝が逆流するように朝空の黒い太陽へと吸い上げられていく。

「ぐっ、あぁぁぁっ……!!」

大地のストッパーを失ったルカの身体もまた、強烈な浮力によって空へと引き剥がされそうになる。 彼女をこの世界に繋ぎ止めているのは、岩盤に突き刺さった一本の鉄の針と、それを固定している外骨格のワイヤーの張力のみ。

総重量四十キロを超える外骨格装具の重さが、マイナスGの引力によって、今度はルカの身体を空へ引きちぎろうとする「暴力的な負荷」へと反転する。 分厚い牛革のハーネスがルカの胸と肩口に深く食い込み、すでに血まみれになっている傷口をさらに無慈悲に抉っていく。

肩の関節がミシミシと悲鳴を上げ、今にも根元から引き抜かれそうになる。

「クゥゥゥゥンッ!!」

スリングの中で、ノアが浮遊感と恐怖に鳴き声を上げる。

「大丈夫……! 絶対に、離さないから……!」

ルカは、左腕の筋肉を引きちぎらんばかりに収縮させ、巨針の柄にしがみついた。 息が止まるほどの激痛。体が真っ二つに裂けそうな重圧。だが、彼女は決して指の力を緩めなかった。

数秒とも、数時間とも思える絶望的な重力反転の嵐が通り過ぎる。 フッ、と。ルカの体を空へ引きちぎろうとしていた暴力的な引力が消失した。

「ハァッ……、ハァッ……。よし、引引力が落ち着いたわ。今のうちに……!」

ルカは、岩盤からズガァンッと針を引き抜き、重力が正常なうちに、アイゼンを利かせて雪の斜面を這い上がろうとした。

針が微かな熱を帯びて振動を始めれば、それが地獄の舞踏の合図だった。彼女は遅延のラグを計算して岩盤に巨針を叩き込み、全身の骨が軋むほどのマイナス重力の嵐に耐え忍ぶ。 そして風が凪いだほんの数秒の隙を突き、凍りついた斜面を這い上がるのだ。

それは、一歩間違えればそのまま宇宙の果てまで吸い込まれて消滅するという、狂気と苦痛の綱渡りだった。 だが、スノー・ホワイトの狂った物理法則は、ルカに「空へ落ちる恐怖」だけを与えてくれるほど優しくはなかった。

ズズズズズッ……!!

斜面を十数メートルほど這い上がった時。 右腕に固定された鉄屑の巨針が、今度は火傷しそうな熱ではなく、血液すらも瞬時に凍りつくような『絶対零度の冷気』を放ち、ブルブルと震え始めたのだ。

(冷たい……!? 違う、上じゃない。この感覚は……!!)

ルカが直感的に危険を察知した、そのコンマ一秒後。

ズシィィィィィィィィンッ!!!!!!!

「ガァァァッ!!?」

ルカの視界が、強烈な衝撃とともに真下へと叩きつけられた。 マイナスではない。今度は、ルカの周囲の空間の重力が、突然通常の『二倍(プラス2G)』へと急激に跳ね上がったのだ。

足元にあった数十センチの分厚い雪の層が、一瞬にして見えない巨大な鉄槌で殴られたように圧縮され、ガチガチの氷の板へと変貌する。 そしてルカの身体は、自らの体重の二倍、さらに言えば、四十キロの『外骨格装具』の重量がすべて二倍(八十キロ)に膨れ上がったという、致命的な物理負荷に押し潰され、両膝から氷の岩盤へと激しく叩きつけられた。

「あ、がっ……、ぐぅぅぅっ……!!」

メキメキメキッ!と、ルカの肋骨と背骨が、自らが背負う鉄の枷の重さに耐えきれずに凄絶な悲鳴を上げる。 ただでさえ重いボイラーと鉄のフレームが、万力のようにルカの胸を締め付け、肺に酸素を入れることすら許さない。

脚の血流が一気に下半身へと押し流され、心臓が狂ったように動悸を打っても、脳に血が巡らずに意識が遠のきそうになる。

「クゥゥン……ッ!」

スリングの中のノアもまた、突然の過重力に苦しげな声を漏らす。ルカは、潰れそうになる身体を丸め、必死に胸の空間を作ってノアを守った。

(重い……!! 体が、鉄の重さで、ペシャンコに潰される……!!)

マイナスGの時は、巨針と外骨格がルカを大地に繋ぎ止める『アンカー』の役割を果たしていた。 だが、プラス2Gの空間において、この装具の重量は、ルカの脆弱な肉体を殺すための『絶対的な凶器』へと反転する。

這いつくばったままでは、肺が潰れて数分で窒息死してしまう。立たなければならない。 しかし、八十キロに膨れ上がった鉄の負荷を、小柄な少女の生身の筋力だけで持ち上げることなど、物理的に不可能であった。

「……負ける……もんですか……っ!!」

ルカは、氷に擦り付けた顔を上げ、血走った目で左手のトリガーを睨みつけた。 足腰に機械の補助はない。

だが、右腕には蒸気の力がある。

カチャッ、カチャッ。 ルカは、押し潰されそうになる激痛の中で、左手の指を必死に蠢かせ、右腕のメインシリンダーのバルブを全開にした。

シュゴォォォォォォォォォッ!!!!

過重力空間に、限界まで圧縮された高圧蒸気の咆哮が轟く。

ギャリギャリギャリッ!!! 右腕の鉄のフレームが、ルカの死に体である右腕ごと、大地の岩盤に突き刺さったままの『鉄屑の巨針』を、下へ向かって力任せに押し込んだ。

巨針を『杖(つっかえ棒)』にして、右腕の蒸気シリンダーの暴力的な牽引力で、押し潰されている自らの上半身を強引にテコの原理で持ち上げようというのだ。

ミシミシッ! バキィッ!! 装具の革ベルトがルカの肉に食い込み、二倍の重力に逆らって立ち上がろうとする強烈な負荷が、彼女の全身の関節を悲鳴させる。 シリンダーから漏れ出した蒸気が、過重力によって真っ直ぐには上らず、地を這うようにルカの周囲に濃密な霧を作っていく。

「立て……! 立ちなさいよ、私の足……!!」

ルカの口の端から、ツーッと赤い血がこぼれ落ちる。 上半身は機械の力で持ち上がっても、その全体重と装具の重さを最終的に支えるのは、彼女の生身の足腰だ。

膝がガクガクと震え、太ももの筋肉の繊維がブチブチと千切れるような激痛が走る。 それでも、彼女は左手のワイヤーを巻き上げ続けた。

蒸気の力と、絶対に折れない巨針。その二つの力が、大自然の狂った重力に真っ向から反逆し、ルカの膝を、そして背筋を、ミリ単位でゆっくりと、確実に大地の垂直方向へと押し上げていく。

ズンッ……!!

蒸気と血にまみれながら、ルカはついに、プラス2Gの重力空間の中で、巨針を杖にして二本足で直立した。

「……ハァッ……、ハァッ……!」

肩で息をしながら、ルカは泥だらけの顔を上げて、吹雪の空を睨み据えた。

上へ引きちぎろうとするマイナスG。 下へ押し潰しようとするプラス2G。 前からは細胞が死滅するほどの極寒。背中からは焼け焦げるようなボイラーの灼熱。

そして、そのすべての負荷を、肉が裂ける激痛とともに受け止める重苦しい鉄の装具と生身の脚。 それは、人間という脆い生物が耐えうる限界を、とうの昔に超越した環境であった。

それでも。

「……痛い。苦しいわ。……でも、私にはこの痛みが似合っている」

ルカは、凍りついた血の滲む唇を吊り上げ、狂気にも似た、しかし純粋な職人としての笑みを浮かべた。

痛みを恐れて、無菌室に引きこもっていた天才魔道具師は、もういない。 大地の重力を呪い、完璧な空に憧れていた少女は、過去の抜け殻だ。

今の彼女は、誰よりも大地の泥に塗れ、狂った重力と摩擦にまみれながら、他者と繋がるための『傷跡』を、自分自身の身体に刻み込みながら登っていく、ただの愚直な継ぎ接ぎ屋である。

「待っていなさい、黒い太陽。……私が、私とこの世界のみんなの『ノイズ』で……あんたのその巨大な口を、絶対に塞いでやるんだから!!」

吹雪の咆哮に負けないほどの、魂からの絶叫。

針を打ち込むたびに、岩が砕け、血が舞い、狂った重力の波がルカの身体を引きちぎり、あるいは押し潰そうと暴れ狂う。 乱高下する重力異常と、絶対零度の猛吹雪という、大自然の圧倒的なスケールの死闘。

その途方もない絶望の真っ只中を。 鉄の枷をはめられた一人の脆弱な少女と、彼女の胸に抱かれた小さな銀色の獣が、這いつくばり、血を吐きながら、それでも確実に、一歩、また一歩と、破滅の空が待ち受ける頂上へと向かって、泥臭く這い上がっていくのであった。

だが、山頂に近づくにつれ、空間の歪みはもはや重力だけではなく、彼女の視界をも「存在しないはずの過去」へと引き裂こうとしていた――。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。

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