【第79話】鉄屑の巨針と、泥臭い反逆の狼煙
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
神経の死んだ右腕そのものは、何の痛みも感じていない。 しかし、その重たい死に体を、さらに数十キロの装具ごと外側から強引に、かつ暴力的な速度で天へ向かって跳ね上げたのだ。
その凄まじい物理的牽引力と反作用は、装具を固定しているルカの『生きている肉体』――すなわち、右肩の付け根、胸の筋肉、そして背骨と肋骨へと、逃げ場のない数トン単位の衝撃となってダイレクトに襲い掛かったのである。
「ガハッ……! あ、あぁっ……!!」
装具の分厚い牛革のベルトが、ルカの生きた皮膚を無慈悲に破り、肉の奥深くまでギリギリと食い込んでいく。 関節が根元から引きちぎられるような激痛。背骨が今にも真っ二つにへし折れるのではないかという、生存本能を直接削り取られるような究極の恐怖。
ルカの視界は激痛によって完全に真っ白に明滅し、口の中は自身の噛み切った唇から流れる血の味でいっぱいになった。 全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、ボイラーの熱で瞬時に蒸発していく。
「ルカ!! もういい、止めろ!! トリガーを戻せ!!」
そのあまりにも凄惨な光景に、アルベルトが耐えきれずに叫び、バルブを止めようと駆け寄ろうとした。
「来ないでッ!!!」
ルカは、血を吐くような声で父を制止し、トリガーを引いている左手の指に、さらに渾身の力を込めた。
(痛い……! 痛い痛い痛い痛い!! 肉が裂ける……! 骨が軋む……!!)
しかし、彼女は左手の指を絶対に緩めなかった。 痛いからこそ、分かる。
自分が今、間違いなくこの不完全な肉体を持って、世界の重力という圧倒的な現実に抗っているという事実が。 痛覚を麻痺させ、無傷の神様気取りで空を舞い、結果として世界を壊してしまったあの傲慢な自分への、これは最も正当で、最も必要な『罰』であり、同時に『生きるための熱』なのだ。
「おおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
ルカの魂の底からの咆哮とともに。 凄まじい蒸気の噴出と、歯車の軋み音を上げながら。
彼女の死体であったはずの右腕が、外骨格の暴力的な力によって、作業台の上にあった『鉄屑の巨針』の柄をガッチリと握りしめ、そのまま、天を突くように高く、高くへと持ち上げられた。
ズンッ!!!!
重さ数十キロの漆黒の巨針が、ルカの頭上で完全に制止し、その切っ先を工房の煤けた天井へと突きつけた。 シリンダーから過剰な蒸気が、プシュゥゥゥゥ……と白く荒々しい息継ぎのように吐き出される。
圧倒的な重量。凄まじい摩擦音。そして、一瞬の遅延。 何から何まで不格好で、非効率で、そして使い手の肉体をズタズタに引き裂く、最悪の拷問器具。
ガリィとアルベルトは、その異様で、しかし神々しいほどの執念に満ちた姿を前に、息をすることも忘れて立ち尽くしていた。
ルカは、巨針の重さで装具のベルトがさらに肉に食い込み、右肩の付け根からタラタラと赤い血を流している。脂汗と煤で顔はドロドロに汚れ、荒い呼吸を繰り返すたびに、折れそうな肋骨が悲痛な軋み音を上げていた。
限界を超えた激痛。 今すぐトリガーを戻して、この鉄の枷から解放されたいと、生物の防衛本能が警鐘を鳴らし続けている。 しかし。
「……あ、はっ……」
ルカは、天高く掲げられた泥臭い鉄の巨針を見上げながら。 血の滲む口元を歪め、そして。
心底嬉しそうに、この世界で一番美しく、力強い『笑顔』を咲かせたのだ。
「……重くて、うるさくて。それに……ひどく、痛いわ。動かすたびに、肩の肉が千切れそう」
ルカは、息を絶え絶えに弾ませながら、呆然としている二人の職人に向かって、誇らしげに言い放った。
「でも、これがいいの。……この重さと痛みが、私が今、この世界で確かに生きていて、一緒に抗っているっていう『証拠』だもの!」
完璧な神様になど、ならなくていい。 痛みがあるからこそ、自分の弱さと限界を知り、世界(他者)の痛みに寄り添うことができる。傷つくことを恐れないからこそ、誰かと強く手を繋ぐことができるのだ。
この不格好で泥臭い鉄の枷(装具)と、父親の狂気の残骸から打ち出された重たい針。 それこそが、彼女が人間として、この不完全な世界と手を繋ぐための、最高の『継ぎ接ぎの翼』であった。
「クゥゥゥゥンッ!! ウォォォォンッ!!」
工房の隅でその極限の苦痛と再生の儀式を見守っていた銀狼ノアが、たまらずに駆け寄り、ルカの腰にその巨大な身体を力強く擦り付け、誇り高い遠吠えを上げた。
ノアの野生の勘は、以前のルカが身に纏おうとしていた「冷たくて完璧な死の匂い」が完全に消え去り、代わりに、むせ返るほどに熱く、泥臭く、生命力に満ち溢れた「生きるためのノイズ」が、彼女の全身から爆発的に溢れ出しているのを、確かな歓喜とともに感じ取っていた。
「……行くわよ、ノア。お父様。ガリィ」
ルカは、痛みに顔をしかめながらも、左手のトリガーを操作し、ズンッ!と重い音を立てて右腕と巨針を下ろした。 床の石畳が、その質量に耐えきれずに放射状にひび割れる。
ルカの真っ直ぐな瞳は、工房の出口の向こう側――冷たい秋雨の空の遥か北、世界最大の虚無が渦巻く場所を見据えていた。
「北の霊峰に開いた『黒い太陽』。……私一人じゃ、到底塞ぎきれないような巨大な絶望よ」
ルカの瞳に、職人としての、そして一人の人間としての、静かで圧倒的な闘志の炎が燃え上がる。
「でも、今の私には、このうるさくて重い『不格好な相棒たち』がある。……世界中のノイズ(みんなの想い)をかき集めて、あの空に、絶対に千切れない極太の結び目を作ってやるわ」
それは、絶望に沈む世界に対する、丸腰だった少女からの最強の反逆の狼煙であった。
人間の痛みと、鉄と蒸気の産声。 完璧を捨て、不完全さを愛する覚悟を決めた『最強の継ぎ接ぎ屋』が、今、万人のノイズを味方につけて、世界最大の虚無が待ち受ける絶対零度の霊峰スノー・ホワイトへと、その重く、血塗られた力強い足音を踏み出したのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




