【第78話】痛みと共に起動する命
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
アイアン・ヘイヴンの空が、分厚い煤煙と秋雨の雨雲の向こう側で、白々と明けようとしていた。
三日三晩、一度も落とされることのなかったガリィの工房の炉の火が、ようやく静かな熾火へと変わり、赤く熱された鉄の匂いが微かに落ち着きを見せ始めている。 工房の中央、冷たい鋼鉄の作業台の上には、一つの異様な「兵装」が鎮座していた。
それは、およそ人間が身につける医療器具(義手)とは呼べない代物であった。
分厚い牛革と、幾重にも補強された鋼鉄の装甲板で構成された、重厚な上半身用の『拘束衣』。そこから右腕に沿うようにして伸びる、太いシリンダーと無骨な歯車、そして滑車で連結された金属の骨組み(フレーム)。 背中には、小型とはいえ大人の胴体ほどもある、頑強な真鍮製の超高圧蒸気ボイラーが背負い袋のように備え付けられている。
痛みを伴う生身の肉体を、外側から純粋な物理的暴力で強引に引きずり回すための、狂気的な外骨格装具。
「……いくぞ、ルカ。息を限界まで吐き出せ」
上半身を下着一枚になったルカの背後に立ち、ガリィが低く、重い声で告げた。 ルカが小さく頷き、肺の中の空気をすべて吐き出すと同時に。
ガリィは、ルカの華奢な胴体を覆う分厚い革のハーネスのベルトを、一切の容赦なく、ギリギリギリッ!と力任せに引き絞った。
「うっ……!」
ルカの口から、苦悶の呻きが漏れる。 肋骨が軋み、内臓が押し潰されるような強烈な圧迫感。生きた肉体に、冷たく重い鉄と革の枷が、文字通り食い込んでいく。
「痛えだろうが、我慢しろ。……シリンダーの牽引力は、お前の想像を絶する。少しでも胴体の固定に『隙間』があれば、シリンダーが動いた瞬間に、反動でお前の背骨がへし折れるか、肩の関節が根元から引きちぎれるんだ」
ガリィは、鬼のような形相で次々と強固なバックルを留め、ルカの右肩から背中、胸、そして腰に至るまでを、完全に鉄のフレームと一体化させた。
装具自体の総重量は、四十キロ近い。 それを身につけた瞬間、ルカの足元がふらつき、凄まじい鉛のような重力が全身の骨格にのしかかった。神経の死んだ右腕の重さだけでも地獄だったというのに、今はその数倍の質量が、彼女の小さな体幹を容赦なく真下へと引き摺り込もうとしている。
「装具の固定、完了した。……ルカ、左手を出せ」
前方から、アルベルトが幾筋もの細い鋼鉄のワイヤーケーブルを束ねて持ち、ルカの生身の左手を取った。 アルベルトは、ルカの左手の五本の指に、それぞれ銀色の無骨な『鉄のリング』をはめ込んでいく。
そのリングの背には、極めて強靭で細いワイヤーが接続されており、ルカの左腕を這い上がり、背中の滑車を経由して、右腕の外骨格の各シリンダーの『蒸気バルブ』へと直結していた。
「……いいか、ルカ。お前の右腕の神経は死んでいる。だから、右腕を動かすための信号は、お前の『左手』で出すんだ」
アルベルトは、血走った目で、娘の左手のリングを一つ一つ確認しながら説明した。
「人差し指を曲げれば、肩のメインシリンダーのバルブが開く。中指で肘、薬指で手首の角度、そして親指と小指で、右手の装具の『掌握』を制御する。……つまり、お前は左手の指の動き一つで、背中のボイラーの蒸気圧をコントロールし、右半身の鉄の骨組みを操り人形のように外側から操るんだ」
それは、人間の脳の本来の運動処理を完全に無視した、極めてアナログで、非直感的な操作方法だった。 左手を動かせば、右手が動く。
しかしルカは、その複雑なワイヤーの張力とバルブの開閉感覚を、数回の指の曲げ伸ばしだけで、天才的な職人の勘によって即座に理解し、脳の回路を強制的に書き換えていった。
「……分かったわ。トリガーは、私の左手ね」
ルカは、汗ばんだ顔で頷き、左手の五本の指を軽くワキワキと動かした。チャカッ、チャカッ、と背中の滑車が微かな音を立てる。
「では……火を入れるぞ」
アルベルトが、背後に回り、ルカの背中に固定された真鍮のボイラーの点火装置に手を掛けた。 彼の手が、微かに震えている。自分がこれから娘の背中にくべる火が、彼女にどれほどの苦痛を与えるか、設計者である彼が一番よく理解していたからだ。
「お父様。……ためらわないで」
ルカは、振り返らずに、凛とした声で促した。
アルベルトは奥歯を噛み締め、「……ああ!」と短く応えると、火打ち石のトリガーを力強く押し込んだ。
カチッ、ボォォォォォッ!!!
背中の至近距離で、重油が爆発的に燃え上がる音が響いた。 直後、ボイラー内部の貯水タンクが急激に熱され、ゴボゴボという低い沸騰音とともに、ルカの背中から後頭部にかけて、凄まじい熱気が立ち昇り始めた。
「くっ……!」
分厚い耐熱革のパッド越しでさえ、焼けた鉄を背中に押し当てられているかのような熱さが、ルカの皮膚をジリジリと焦がす。額から、滝のような汗が一気に噴き出した。
ボイラーの圧力計の針が、チキチキチキッ!と異常な速度で跳ね上がり、レッドゾーンの限界値でピタリと止まる。パイプの中を超高圧の蒸気が駆け巡り、ルカの全身を覆う鉄の枷が、まるで飢えた獣のようにブルブルと小刻みに振動し始めた。
「蒸気圧、臨界に到達した! いけるぞ!」
ガリィが、傍らの作業台の上に、あの身の丈の半分以上もある黒光りする巨大な針――『鉄屑の巨針』をゴトンッと置いた。
「ルカ! 左手の操作で、右腕の装具を動かしてみろ! あの針の柄(持ち手)を握り、お前の頭上まで限界まで振り上げるんだ!!」
ガリィの怒声が、蒸気の噴出音を切り裂いて工房に響き渡る。 ルカは、荒い息を吐きながら、真っ直ぐに巨針を見据えた。
かつて、純白のミスリル銀の義手を身につけていた頃。 彼女が脳内で「動け」と命じれば、一切の摩擦も、熱も、ノイズも、そして『遅延』もなく、腕は一ミクロンの狂いもなく完璧な軌道で動いた。
だが、今の彼女が纏っているのは、不純物だらけの泥臭い鉄と、荒々しい蒸気の塊である。
ルカは、左手の五本の指を、獲物を鷲掴みにするような形に力強く曲げ、ワイヤーのトリガーを全開に引き絞った。
カチャッ。 左手の指先で、五つのバルブが同時に開く感触が伝わる。
しかし。 右腕は、すぐには動かなかった。
バルブが開き、パイプを通って超高圧の蒸気が右肩と右肘の巨大なシリンダーへと到達し、ピストンを物理的に押し上げるまでに。 完全なる『〇・五秒の遅延』が存在したのだ。
それは、かつての父アルベルトが「致命的なエラー」として最も忌み嫌い。ルカ自身もまた「完璧な論理に隙間はいらない」と切り捨てていた、機械の『遊び』の時間であった。
だが、この〇・五秒という泥臭いノイズこそが、これから霊峰の絶望的な反発力と正面衝突した際に、衝撃を吸収し、ルカの命をギリギリのところで繋ぎ止めるための、絶対不可欠な「クッション」となるのである。
〇・五秒後。
プシュゴォォォォォォォォォォッ!!!!!!
鼓膜を突き破らんばかりの、凄まじい高圧蒸気の爆発音が工房に轟いた。 装具の各関節から、目隠しになるほどの真っ白な蒸気が猛烈な勢いで噴き出す。
ギガリッ、ギャリギャリギャリッ!!!
規格外の太さの歯車が暴力的な力で噛み合い、摩擦による火花を散らしながら、メインシリンダーが極限の張力で一気に伸び上がった。 その瞬間。
「あァァァァァァァァァァァァッ!!!!!!!」
蒸気の爆音をさらに上回る、ルカの凄絶な絶叫が、工房の壁を震わせた。
死んだ右腕に外骨格の暴力的な力が叩き込まれた時、ルカの肉体を襲ったのは、これまでの人生で味わったことのない究極の激痛だった――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




