【第73話】次なる道標 ―― 鉄と煤の街へ
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
「アイアン・ヘイヴンへ……?」
泥水の中に這いつくばったままの通信士の青年が、ルカのその言葉を反芻し、信じられないものを見るように目を丸くした。
機巧都市アイアン・ヘイヴン。 それは、魔術ギルドに属する者たちからすれば、魔法という高貴な力を否定し、野蛮な鉄と蒸気の力に傾倒した「異端の街」である。 しかも、空間の亀裂を塞ぐような神秘の秘術など、あの煤にまみれた職人街に存在するはずがないと、誰もが思っていた。
「ル、ルカ様、正気ですか!? あそこには、魔法の針を打てるような魔道具師などおりません! あそこにあるのは、ただの鉄クズと歯車だけです! そんな場所へ向かって、一体どうやってあの『黒い太陽』を塞ぐおつもりですか!」
青年は、すがりつくようにルカのブーツの爪先に手を伸ばした。
彼ら魔術ギルドの人間にとって、世界を救うのは常に「高尚で完璧な魔法」でなければならなかった。鉄の街の職人たちに頭を下げ、泥臭い協力を仰ぐなど、彼らのちっぽけなプライドが許さなかったのだ。
しかし、ルカは青年が伸ばしてきた手を、冷たく振り払うことはしなかった。 ただ、静かに、そして圧倒的な確信に満ちた瞳で見下ろし、はっきりと告げた。
「だからこそ、行くのよ」
ルカの言葉に、青年は息を呑んだ。
「完璧な魔法の針は、もうない。……だったら、不格好でも、重くても、絶対に折れない『鉄の巨針』を打ってもらうしかないじゃない。神経の死んだこの腕が魔法で動かないなら……蒸気の圧力と分厚い鋼鉄のワイヤーで、外側から無理やり肉体を縛り付けてでも、強引に振り回すしかないじゃない」
ルカは、ダラリと垂れ下がる自分の右腕を左手で力強く掴み、その細い肉の感触を確かめるようにギュッと握りしめた。
「私はかつて、あの街で、お父様が作り上げた『完璧な論理の塔』を叩き壊したわ。……隙間のない完璧な機械は、ただの孤独な檻だと言ってね。あそこに住む職人たちに、不格好なノイズと、人間らしい熱量を取り戻させたのは、他でもない私よ」
ルカの脳裏に、アイアン・ヘイヴンのむせ返るような重油の匂いと、真っ赤に焼けた鉄を打つハンマーの甲高い音が鮮明に蘇る。 そして、義肢職人ガリィの、油にまみれた太い腕と、ぶっきらぼうだが深い愛情に満ちた笑顔。さらに、狂気から目を覚まし、泥だらけになって街の復興に汗を流しているであろう、父・アルベルトの姿。
「今度は……私が彼らに、頭を下げる番だわ。私が壊したあの街の『不格好な鉄の力』を、今度は私自身に継ぎ接ぎして、一緒に世界を救ってくれって……泥にまみれて、頼みに行くのよ」
それは、かつて「自分こそが世界を完璧に計算できる天才だ」と驕り高ぶっていた王宮の魔道具師としてのルカの、完全なる決別宣言であった。
神としての偶像を捨て去り、一人では何もできない不完全な人間であることを心の底から認めたからこそ、彼女は誰かに「助けてほしい」と、誇りを持って頭を下げる決意を固めることができたのだ。
「……ルカ、様……」
通信士の青年は、そのルカのあまりにも人間臭く、そして途方もなく巨大な覚悟を前にして、返す言葉を完全に失い、ただ泥の中にへたり込むことしかできなかった。
ルカは、青年から視線を外し、広場を取り囲むヴァロワの群衆へと向き直った。 冷たい雨に打たれながら、彼らはもはやルカに「奇跡」を乞うことはせず、ただ食い入るようにその小さな背中を見つめていた。
「ヴァロワの人たち。……そして、大陸中の明日を恐れるすべての人たち」
ルカは、雨風に負けないように、ありったけの声を張り上げた。
「私はこれから、南のアイアン・ヘイヴンへ向かい、準備を整えてから北の霊峰へ登る。……黒い太陽を塞ぐまでには、まだ何日もかかるわ。その間、空の穴は広がり続けるし、恐ろしい異常気象があなたたちを襲うかもしれない」
群衆の中に、ゴクリと唾を飲み込む緊張の波が走る。
「でも、どうか絶望しないで。私にすべてを丸投げして、立ち止まらないで。……家が壊れそうなら、皆で柱を支えなさい。寒さに凍えそうなら、寄り添って火を焚きなさい。……私が必ず、あの巨大な綻びを縫い合わせてみせる。だからあなたたちも、自分たちの『明日』を、自分たちの手で泥臭く繋ぎ止めておいて!」
それは、神からの神託ではなく。 同じ絶望の時代を生きる、一人の不格好な『戦友』からの、力強い檄であった。
「……ああ、分かった。待ってるぞ、魔女様……いや、継ぎ接ぎ屋のお嬢ちゃん!!」 「絶対に諦めない! 俺たちも、俺たちの命を繋ぎ止めてみせる!!」
群衆の中から、次々と、熱を帯びた賛同の声が上がり始めた。 彼らはもう、ルカに依存して縋り付く弱い羊の群れではない。ルカの言葉という強烈な摩擦によって、自らの足で泥濘を踏みしめ、恐怖に立ち向かうための「生きる意志」を着火された、逞しい人間の集団へと変わっていた。
「……行くわよ、ノア。私たちの、新しい相棒(武器)を迎えに」
ルカは、広場に響き渡る人々の力強い歓声を背に受けながら、ついにヴァロワの巨大な鉄の正門に向かって歩き出した。 ノアが、雨水を弾き飛ばすようにブルブルと全身を大きく震わせ、力強い足取りでルカの隣に並び立つ。その青い瞳には、もはや主の心を心配するような陰りは微塵もない。共に限界のその先まで付き従う、野生の絶対的な信頼の光だけが燃えていた。
ザァァァァァァッ……!!
雨は、未だに止む気配を見せない。 しかし、ヴァロワの門をくぐり、南へと続く街道に足を踏み出したルカの頬を打つその雨粒は、数十分前までの「冷たく暗い絶望の雨」とは、全く違う温度を持っていた。
それは、彼女にこびりついていた『完璧な白銀の魔女』という薄っぺらい偶像の汚れをすべて綺麗に洗い流し、本来の「不格好で泥臭い一人の少女」へと生まれ変わらせるための、祝福の洗礼のようであった。
(待っていてね、ガリィ。……そして、お父様)
ルカは、ダラリと垂れ下がる右腕の重みを、決して忌むべきエラーとしてではなく、自分が今、生きているという「確かな質量の証」として感じながら、灰色の空を見上げた。
(私に、あなたたちの『不格好なノイズ』を、もう一度だけ分けてちょうだい。……この絶望の空を、絶対に千切れない太い糸で、一緒に継ぎ接ぎするために)
完璧な魔法の時代は、ここで完全に終わった。 世界を直すための手段は、奇跡から、鉄と煤と、人間の血の滲むような『物理的な努力(継ぎ接ぎ)』へと、そのバトンを渡されたのだ。
霊峰スノー・ホワイトの頂で渦巻く世界最大の絶望『黒い太陽』。 それを縫い潰すための、前代未聞の泥臭い大手術に向けた準備が、今、機巧都市アイアン・ヘイヴンへと向かう真っ直ぐな足跡とともに、確かな熱量を伴って始まりを告げたのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




