【第72話】無力な掌と、確かな熱
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
霊峰スノー・ホワイトの頂に出現した『黒い太陽』。 大陸の北半球を丸ごと消去しかねないというその致死的な絶望の報告は、ヴァロワの広場を阿鼻叫喚の坩堝へと叩き落としていた。
冷たい秋雨が降りしきる中、人々は頭を抱えて泥水の中に倒れ込み、神に祈り、あるいは見えない恐怖から逃れようと宛てもなく走り回っている。 その圧倒的なパニックと喧騒の只中で。
ルカは、ただ一人、周囲の音から完全に切り離されたかのように、静かに俯いて立ち尽くしていた。
(……黒い太陽。直径数キロメートルに及ぶ、完全な空間の欠損)
ルカの魔道具師としての天才的な頭脳は、パニックを起こす暇すら与えられず、その絶望的な現象を瞬時にシミュレーションし、解決するための数式を冷酷に組み上げ始めていた。
(あれほどの質量を持った虚無の穴を塞ぐには、これまでの亀裂の何万倍もの『張力』を持った糸が必要になる。そして、その糸を空間の縁に固定し、数千万トンの反発力に耐えながら引き絞るためには……絶対に折れない強靭で巨大な『針』と、それを支え切るための、圧倒的な『腕の出力』が不可欠だわ)
計算の答えは出ている。世界を救う方法は、物理的には存在するのだ。
しかし。 ルカは、雨に濡れた銀色の前髪の隙間から、そっと自身の両手を見下ろした。
外套の袖から覗く、傷一つない生身の左手。 そして、ズタズタになった革紐の残骸だけを巻きつけ、感覚を完全に失って、ただの肉の重りとしてダラリと垂れ下がっている右腕。
彼女の視線は、その空っぽの左手の平に縫い付けられたように止まった。 母エレンから受け継ぎ、常に彼女の右腕に縛り付けられていた、あの『黒い針』は、もうない。
囁きの森の地脈を永遠に繋ぎ止めるための要石として、あの大地の奥深くに、自らの意思で置いてきたのだ。
(……針が、ない)
ルカの心臓の奥底を、冷たい秋雨よりも遥かに凍てつく、鋭い氷の刃のような感情が撫でていった。
(右腕は、もう指一本動かすことすらできない。……空間を縫い合わせるための「武器」も、「力」も、今の私には何一つ残されていない)
その絶対的な『無力感』は、世界最大のブラックホールという途方もないスケールの前で、彼女がただの十七歳の脆弱な人間の少女であることを、残酷なほど明確に突きつけていた。
太平洋のど真ん中に開いた巨大な渦潮を、素手で塞げと言われているようなものだ。 どれだけ天才的な頭脳を持っていても、どれだけ世界を愛する覚悟を決めていても。物理的な手段を持たない職人は、ただの無力な傍観者に過ぎない。
(どうすればいいの……。私一人じゃ、到底どうにもならない。……あんな巨大な絶望を前にして、丸腰の私に、一体何ができるっていうの?)
ルカの視界が、雨粒とともに微かに歪んだ。
かつて、完璧な魔法に縋り付き、自分を無敵の神だと勘違いしていた頃の彼女であれば。この圧倒的な自分の不完全さを突きつけられた瞬間、絶望のあまり膝から崩れ落ち、自らの無力を呪って狂乱していただろう。 あるいは、痛覚を麻痺させて「自分は完璧な機械だ」思い込むことで、現実から目を背けていたかもしれない。
暗く、冷たい絶望の風が、ルカの心の奥底に開いた隙間へと、ヒュゥゥゥ……と音を立てて吹き込んできた。 足元の泥濘へと、自らの魂がズルズルと沈み込んでいくような感覚。
その、ルカが絶望の淵に立たされた、まさにその刹那であった。
「……クゥゥン……」
不意に。 ルカの冷え切った左手の平に、生温かく、そして微かにザラリとした感触が触れた。
「……え?」
ルカがハッと我に返って視線を落とすと。 そこには、巨大な銀狼のノアが、雨に濡れた銀色の毛皮から白い湯気を立ち昇らせながら、ルカの無力な左手に、自身の大きく温かい鼻先をグッと押し付けていた。
ノアは、ルカの心に吹き込んだ極寒の隙間風を、その優れた野生の嗅覚と魂の共鳴によって、誰よりも早く感じ取っていたのだ。
彼は、絶望に沈みかけようとしている主の魂を、現実に、そして温かいこの世界に繋ぎ止めるために。ただ無言で、自らの鼻先をルカの掌に押し付け、そして、ザリッ、ザリッと、力強く、優しく舐め上げた。
ドクン、ドクン、ドクン。
ノアの身体から、ルカの左手を通じて、40度を超える野生の『獣の熱量』が、波のように押し寄せてくる。 それは、言葉を持たない相棒からの、これ以上ないほど雄弁で、絶対的な励ましであった。
『お前は一人じゃない。俺がいる』 『完璧な針がなくても、腕が動かなくても、お前の心にはまだ火が点いているだろう?』
ノアの放つ圧倒的な生命の熱に触れた瞬間。 ルカの心の中に吹き込んでいた冷たい風は、まるで暖炉の火の前に立ったかのように、嘘のようにピタリと止んだ。
(……そうよ。私一人で完璧に縫おうとするから、絶望するのよ)
ルカは、大きく目を見開いた。 彼女の瞳から、恐怖と無力感の濁りがスッと消え去り、代わりに、大地の泥の奥底で力強く燃えるマグマのような、熱く、澄み切った光が宿り始めた。
完璧な魔法など、この世には存在しない。 世界を救うのは、一人で何もかもをこなす神様ではなく。互いの足りない部分を補い合い、不格好に手を繋ぎ合う『継ぎ接ぎ』の力なのだ。
囁きの森で、母エレンが遺した「ノイズと遊びのある回路」が教えてくれたこと。そして、自分が真鍮の腕の痛みに耐えながら証明したこと。 それを、たった一つの針を失ったくらいで、忘れてどうする。
「……ふふっ。ありがとう、ノア」
ルカは、泥だらけの顔に、雨粒を弾き飛ばすような、不敵で、生命力に溢れた笑みを浮かべた。 彼女は、自らの左手で、ノアの温かい銀色の首筋を力強く抱き寄せた。
獣の毛皮に染み込んだ雨の匂いと、泥の匂い、そして血の匂い。 そのすべてが、今のルカにとっては「世界が生きている証」として、この上なく愛おしく感じられた。
「そうよね。私は神様じゃない。……ただの、しぶとくて諦めの悪い『継ぎ接ぎ屋』なんだから」
ルカは、ダラリと垂れ下がるままの自分の右腕を、もう一度、誇らしげに見下ろした。
「針がないなら……作ればいいわ」
彼女の声は、広場の喧騒に掻き消されるほど小さかったが、その中には、どんな硬い鋼鉄よりも折れることのない、強靭な意志の芯が通っていた。
絶望のスケールがどれほど巨大であろうと、関係ない。 彼女はもう、痛みを恐れない。泥にまみれることを恥じない。 不完全な自分が、不完全な道具を使って、この壊れかけた世界を泥臭く繋ぎ止める。それこそが、彼女が見つけた唯一無二の「魔法」なのだから。
ルカは、ノアの首から手を離し、広場の泥水を蹴って、力強くスッと立ち上がった。 その華奢な背中は、冷たい秋雨に打たれ、右腕は無惨に垂れ下がっているというのに。不思議なほどに大きく、そして、背後にある巨大な城壁よりも遥かに頼もしく見えた。
「行くわよ、ノア」
ルカの瞳は、はるか遠く、北の空に浮かぶ絶望の淵ではなく。 彼女にしか見えていない、その絶望に立ち向かうための「泥臭い希望の設計図」だけを、真っ直ぐに、そして確かな熱量を持って見据えていた。
無力な掌は、もはや空っぽではない。 そこには、ノアから受け取った確かな体温と、どんな困難も不格好に縫い合わせてみせるという、一流の職人としての『炎』が、力強く握りしめられていた。 彼女が向かう先は、泥と油にまみれた「あの街」しかなかった――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




