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ステラ・ニードルの記憶 〜完璧な魔法を失った天才魔導師は、真鍮の義手で不完全な世界を継ぎ接ぎする〜  作者: 紡木 綸


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【第66話】偶像の否定 ―― 「私は神様じゃない」

『神耳の落ちこぼれ』


世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。

少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

降りしきる冷たい秋雨が、ヴァロワの巨大な鉄門の前に集まった群衆の熱気を、容赦なく、そして急速に冷ましていく。 誰かが落とした松明の火が、足元の泥水の中でジュッと音を立てて消えた。 その微かな音がやけに大きく響くほど、広場は異様な、そして息の詰まるような静寂に包まれていた。

「……あ、あんたが、噂の『白銀の魔女』様、なのか……?」

分厚い人垣の最前列に押し出されるようにして立っていた、擦り切れた外套を着た初老の男が、寒さと恐怖に震える声で沈黙を破った。

彼の落ち窪んだ目は、目の前に立つ小柄な少女の泥だらけの姿と、奇跡の象徴であるはずの「右腕」を凝視していた。 力なくダラリと垂れ下がった、感覚のないただの生身の腕を、すがりつくような、そして信じられないものを見るような視線で行き来している。

「そうだと言ってくれ……! 俺の村は、昨日、空に走った黒い亀裂に半分飲み込まれちまったんだ! 娘が、まだあの崩れかけた家の中に取り残されてる! あんたのその完璧な魔法で、一瞬で空間を直して、娘を助けてくれるんだろう!?」

男の悲痛な叫びが引き金となり、静まり返っていた群衆の間に、堰を切ったように切羽詰まった声が次々と上がり始めた。

「俺たちの街も救ってくれ! 噂じゃ、あんたはどんな傷も一瞬で無かったことにできる神の使いだって……!」 「その右腕で! その白銀の魔法の針で、世界の終わりを止めてくれよ!!」

次々と投げつけられる、悲鳴にも似た懇願と祈り。

彼らの声には、自分たちを脅かす「虚無の綻び」に対する絶対的な恐怖と、それを無傷で、一瞬にして解決してくれる「全能の神」に対する、狂信的で暴力的なまでの依存がドロドロに渦巻いていた。

泥だらけで血の滲むルカの姿を見てもなお、彼らは現実を受け入れようとしない。 「これは何かの仮の姿で、本当は奇跡の力を見せてくれるはずだ」と、自分たちの都合の良い幻想アイドルを、ルカという十七歳の華奢な少女の肩に、何千、何万という途方もない質量の重圧として無理やり乗せようとしていたのだ。

かつてのルカであれば。 魔法を失い、絶望の淵を彷徨っていた頃の彼女や、あるいは完璧な魔道具師としてのプライドに縋り付いていた頃の彼女であれば。

この大衆からの「失望されることへの恐怖」と、「過剰な期待という名の呪い」に完全に押し潰されていただろう。 自分が無力であることを知られるのが怖くて、必死に虚勢を張り、痛みを隠して、冷たい無表情の仮面の下でガタガタと震えていたはずだ。

「クゥゥン……」

ルカの足元で、銀狼のノアが、群衆の放つ異様で暴力的な熱気に警戒し、ルカの左脚にその巨大で温かい身体をピタリと寄せた。 主を守ろうと、低く唸り声を上げかける。

しかし、ルカは生身の左手をそっと伸ばし、雨に濡れたノアの銀色の首筋を優しく撫でて、その警戒を解いた。

(大丈夫よ、ノア。……私はもう、逃げないから)

ルカは、冷たい雨の滴が伝う泥だらけの顔を上げ、すがりついてくる群衆の無数の瞳を、逃げることなく真っ直ぐに見据えた。

彼女の胸の奥には、囁きの森の最深部で、母エレンの遺した「不完全な愛の回路」に触れた時の、あの確かな熱が燃え続けている。 痛みがあるから、命は温かい。不格好な摩擦があるからこそ、誰かと手を繋ぐことができる。

その『継ぎ接ぎ屋』としての絶対的な誇りと哲学を魂に刻み込んだ今のルカにとって、大衆が求める「一切のノイズを含まない完璧な偶像」を演じることなど、自分に対する、そして愛するこの世界に対する最も愚かな裏切りでしかなかった。

「……みんな、よく聞いて」

魔力で拡声したわけでもないのに。 ルカのその声は、冷たい雨音と喧騒をピシャリと制し、広場にいる何百人という人々の鼓膜、いや、魂の奥底にまで、不思議なほど澄み切った響きを持って浸透していった。

「私は、神様じゃないわ」

ルカは、極めてはっきりと、一切の言い訳を挟まずに宣告した。 群衆が、息を呑む。

「どんな巨大な亀裂も一瞬で直すような、完璧な魔法なんて使えない。触れるだけで傷を治すような奇跡の力も、今の私には一滴も残っていないわ」

ルカは、ズタズタに引きちぎれた分厚い革紐の残骸が巻き付いている、自身の右腕を、左手でゆっくりと持ち上げた。

雨に打たれ、土気色になった細い腕。 神経が完全に死滅し、自力では指一本、ピクリとも動かすことのできない「絶対的な無力」の象徴。 彼女は、その自分の最も不格好で、残酷な現実(死に体)を、隠すことなく群衆の目の前に堂々と晒してみせた。

「見ての通り、この右腕は神経が死んでいて、動かすことすらできない。ただの重くて邪魔な肉の塊よ。……そして、空間を縫い合わせるための、お母様から受け継いだあの『白銀の針』も、ここにはないわ」

「針が……ない……?」 初老の男が、絶望に顔を歪めて呟いた。

「ええ。囁きの森の虚無を塞ぎ、大地の地脈を永遠に繋ぎ止めるための『要石』として、森の最深部に置いてきたの。……だから、今の私は、魔法も武器も持たない、完全にただの『丸腰の人間』よ」

そのルカの言葉は、群衆が抱いていた最後の希望のシャボン玉を、容赦なく、そして物理的に叩き割るものであった。

「嘘だ……嘘だろ!?」 「じゃあ、誰が俺たちを救ってくれるんだよ! お前が救世主じゃないなら、この世界は、俺たちの家族は、あの空の亀裂に飲み込まれて死ぬしかないじゃないか!!」 「ふざけるな! 期待させやがって、この疫病神め!!」

広場は、一転して阿鼻叫喚のパニックと、ルカに対する激しい憎悪と落胆の嵐に包まれた。

無理もない。彼らは恐怖のあまり、すがりつくための藁を求めていたのだ。 それが、自分たちと同じように傷つき、無力な「ただの少女」であったと知れば、その行き場を失った恐怖は、そのまま相手への攻撃的な怒りへと変換されてしまう。

ルカに対して、罵声が飛び交う。 泥水が跳ね上げられ、あわや暴動に発展しかねないほどの険悪な空気が、冷たい雨の中で渦を巻き始めた。

しかし。 どれほど罵倒されようとも、どれほど絶望の目を向けられようとも。 ルカは、その場から一歩も引かなかった。

垂れ下がった右腕を左手で抱え込んだまま、彼女の瞳に宿る「命の炎」は、一瞬たりとも揺らぐことはなかったのだ。 丸腰の少女の、魂の咆哮が響き渡ろうとしていた――。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。

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