【第65話】失望の視線と、継ぎ接ぎの覚悟
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
だが、今のルカは違う。 泥を噛み、錆を識り、不完全な肉体の痛みに悶えながらも、ノアの温もりという「慈愛のノイズ」のために戦うことを選んだ、ただの壊れた人間だ。
耳に突き刺さる熱狂的な期待の声が大きければ大きいほど、ルカの胸の奥には、冷たい虚無と圧倒的な孤独が広がっていった。 大衆が求めているのは「私」ではない。彼らが作り出した、都合の良い幻影なのだ。
ルカはだらりと垂れ下がった右腕を、左手でそっと包み込んだ。 爪が皮膚に食い込み、微かな痛みが脳を刺激する。
(ステラ・ニードルはない。完璧な魔法も、世界を誤差ゼロで修正する力も、もう私の中には存在しない。そんな私が、この街に足を踏み入れて、一体何ができるというの……)
弱気が心を支配しかけたその瞬間、カチャ、とルカの腰の道具袋が小さな音を立てた。 袋の中に収められているのは、ガリィの工房で分けてもらった、何の魔力も宿っていない、ただのありふれた『鉄の縫い針』と『粗末な麻糸』だった。
世界を書き換えることはできない。 けれど、目の前にある綻びを、血を流しながら不格好に繋ぎ止めることなら、今のこの手でもできる。
「……行きましょう、ノア」
ルカは顔を上げ、暗がりから一歩を踏み出した。
その瞬間、運悪く、酒場の軒先で雨宿りをしていた一人の傭兵と、正面から視線が交差した。 傭兵は、ルカの隣に立つ巨大な銀狼の姿に目を剥き、それからルカのボロボロの魔導師コートへと視線を移した。その顔が、驚愕と歓喜によって劇的に引きつっていく。
「おい……見ろ、あれ……銀の狼と、小柄な少女……。おい! 『白銀の魔女』様だ!!」
傭兵の叫び声は、爆鳴となって雨の路地へと炸裂した。
「何だって!?」 「どこだ!? 魔女様が来られたのか!?」
酒場から、路地の陰から、押し寄せる波のように何百という人々が飛び出し、一瞬にしてルカとノアの周囲を埋め尽くした。 誰もが、神話の救世主をその目で拝もうと、熱狂に目を血走らせて押し寄せてくる。
しかし。 激しい雨の中、松明の光に照らされたルカの「実像」が人々の目に明瞭に映り込んだ瞬間、その熱狂の地鳴りは、刃物で断ち切られたかのように唐突に絶え去った。
「……え?」
最前列にいた商人が、呆然とした声を漏らした。 群衆の目に映ったのは、光り輝く完璧な女神の姿などではなかった。
満身創痍という言葉すら生ぬるいほどに、痛々しく、ボロボロに傷ついた一人の少女の姿だった。 外套は囁きの森の泥と自身の流した大量の血、そして機械油の染みでどす黒く汚れ、あちこちが鋭利な刃物で引き裂かれたようにボロボロにほつれている。
フードの奥の顔は死人のように青白く、頬には乾いた泥がこびりつき、極度の疲労によって目の下には濃い隈が刻まれていた。 隣に立つ銀狼も、無傷の神獣ではない。美しい毛皮は泥にまみれ、無数の戦いによる裂傷から微かに血を滲ませている。
だが、何よりも群衆を震撼させ、その期待を物理的に打ち砕いて絶句させたのは、少女の『両手』だった。
噂に聞いていた「神の威光を放つ無敵の腕」など、どこにもない。 右肩の袖から覗いていたのは、感覚を完全に失い、自力では指一本ピクリとも動かすことのできない、細く無力な『生身の右腕』だった。
義手を縛り付けていた分厚い革紐は引きちぎれ、今はただのボロ布の切れ端となって手首に巻き付いているだけ。 そして、世界を縫い合わせる奇跡の証であったはずの、あの『白銀の巨大な針』は、彼女のどこを探しても見当たらなかった。
現在のルカは、完全に『丸腰』だった。
歩くたびに、死んだ右腕が重力に従ってダラリ、ダラリと不格好に揺れ、彼女の身体を下に引っ張り続ける。 それは、魔法で世界を支配する完璧な神などでは絶対にない。
大地の泥に這いつくばり、痛みに顔を歪め、最も大切な武器すらも失い、それでも前に進むことだけを止めなかった、ただの「不完全な人間の少女」の姿そのものだった。
「……あれが、針の魔女……? 嘘だろ……」 「針はどこにやったんだ……? あの動かない腕で、どうやって世界を直すんだよ……」
落胆と戸惑いの呟きが、さざ波のように群衆の間に広がっていく。 彼らが熱狂して作り上げた「完璧な救世主」という偶像のシャボン玉が、現実のルカの放つ圧倒的な『生のノイズ』の前に、パチンと音を立てて弾け飛んだ。
群衆の視線は、畏敬の念から、次第に「戸惑い」へ、そして、自分たちの勝手な期待を裏切られたことに対する「失望」や「不安」へと、ドロドロと醜く色を変え始めていく。
「おい、お前……本当に俺たちを救ってくれるんだろうな!?」
一人の難民の男が、すがるような、同時に非難するような声を上げた。
「俺たちの村は消えたんだ! この街だけは、お前の完璧な魔法で守ってくれるって、みんな言ってたぞ! なあ、何とか言ってくれよ!」
詰め寄る群衆の圧力。失望と怒りが混ざり合った視線の痛。
かつてのルカであれば、この不条理で非効率的な大衆の感情を「くだらないノイズ」として切り捨て、背を向けていただろう。 だが今、ルカはその冷たいガラスの鎧を持たない。 人々の絶望も、恐怖も、醜いエゴも、すべてが緩衝材のない剥き出しの五感へとダイレクトに突き刺さってくる。
ルカは逃げ出したいほどの圧迫感の中で、ぐっと奥歯を噛み締めた。 左手をそっと腰の道具袋に当て、その中にある、ただの鉄の針の冷たさを確かめる。
(私は完璧じゃない。あなたたちを傷一つなく、痛みもなく、奇跡みたいに救ってあげることなんて、今の私にはできない)
ルカはゆっくりとフードを跳ね上げ、死人のように青白い、けれど不思議なほどに澄んだ青い瞳を群衆へと向けた。
(だけど……私はもう、目を閉じない。あなたたちの恐怖も、悲鳴も、この世界の不完全なノイズのすべてを、私はこの耳で聞き続ける。そして、この動く左手一本の限り、みっともなく足掻いて、何度でも繋ぎ直してみせる)
「……ノア、行きましょう。中央広場へ」
ルカの声は小さかったが、不思議なほどに周囲の雑音を貫いた。 動かない右腕を引きずりながら、ルカは失望に凍りつく群衆のただ中を、真っ直ぐに突き進み始める。人々は戸惑い、怯えたようにその不格好な少女の進路から身を引いていった。
武器を持たない英雄。腕の動かない救世主。 世界中のノイズが交差するこの雨の街で、少女の新たな、そして最も泥臭い最後の闘いが、今、静かに幕を開けようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




