【第64話】熱狂の街と、垂れ下がった右腕
冷たい秋の長雨が、自由交易都市『ヴァロワ』の煤けた煉瓦屋根と、歴史を刻んだ黒い石畳を絶え間なく打ち据えていた。
東西南北の主要街道が交差するこの街は、古くから大陸中の物資と富、そして何よりも「情報」が最も早く吹き溜まる場所として栄華を極めてきた。 だが今、巨大な鉄の正門をくぐり抜けたルカの肌を刺したのは、かつての華やかな活気などでは断じてなかった。
雨に濡れた羊毛の外套が放つ獣のような体臭、むせ返るような安酒の匂い。 そして、人々の焦燥感に満ちた異様なまでの「熱気」が、狭い路地から白い湯気となって絶え間なく吐き出されている。
大陸の至る所で、空間の理が解けてすべてを無に還す『虚無の綻び』が口を開き始めている。 昨日まで存在した村が、前触れもなく漆黒の亀裂に飲み込まれて消滅する。 そんな逃げ場のない絶対的な死の恐怖が、目に見えない巨大な重圧となって都市を包み込み、万人の心から余裕を毟り取っていた。
だからこそ、彼らは狂気的なまでに「奇跡」を求めていた。 冷たく暗い絶望の海で溺れかけている彼らは、無傷で、完璧に自分たちを救ってくれる『全能の救世主』という名の浮き輪を、喉から手が出るほど欲しているのだ。
ルカは、外套のフードを深く目深に被り直し、小さく息を吐いた。
歩くたびに、一切の感覚を持たない死に体となった生身の右腕が、まるで振り子のように、ただ物理的な重力に従ってダラリ、ダラリと前後に揺れる。 その質量は、彼女の小柄な身体を不格好に右下へと引っ張り続けていた。
かつてアイアン・ヘイヴンでガリィが打ち出してくれた、あの重く、熱く、蒸気を噴き上げていた真鍮の義手は、もう右肩にはない。 そして、世界を縫い合わせる奇跡の証であった『白銀に輝く巨大な針』も、彼女の手にはなかった。
彼女は自らの意思で、あの最も大切な母の遺品を、囁きの森の地脈を繋ぎ止めるための『要石』として、大地の奥深くに永遠に置いてきたのだ。
現在のルカは、文字通り、完全に『丸腰』だった。
「……グルル」
隣を歩くノアが、低く喉を鳴らしてルカの足元に身体を寄せた。 誇り高く美しい銀狼の毛皮は泥と雨でぐっしょりと汚れ、数え切れないほどの激闘の傷跡が刻まれている。 疲労のあまりその足取りは重く、ハァハァと荒い息を白く吐き出していた。
「大丈夫よ、ノア。もう少しだから」
ルカは感覚のある左手で、ノアの濡れた頭をそっと撫でた。 掌に伝わるノアの生々しい熱だけが、激痛に軋む彼女の肉体を支える唯一の錨だった。
都市の中心へと続く入り組んだ路地を進むにつれ、通りに立ち並ぶ酒場の開け放たれた窓や扉から、地鳴りのような群衆の怒号が漏れ聞こえてくるようになった。 ルカは自然と足を止め、軒下の暗がりに身を潜めた。
とりわけ巨大な吹き抜け構造を持つ酒場『踊る銅貨亭』の開口部から、脂ぎった顔を赤く紅潮させた大柄な北方の商人が、真鍮のジョッキをテーブルに叩きつける音が響く。
「誓って嘘じゃねえ! 俺の商隊は、確かにこの目で見たんだ! 大陸北部の『囁きの森』を数十年も覆っていたあの呪いの結界が、木っ端微塵に砕け散る瞬間をな! 空を塞いでいた暗雲が晴れて、本物の雨が降ったんだよ!」
商人の熱弁に、酒場だけでなく、路地で雨宿りをしていた難民たちまでもが血走った目を向け、一言半句も聞き漏らすまいと息を呑んだ。
「森の呪いを解いたのは誰なんだ? 王宮の偉い魔導師様か?」
人垣の中から上がった震える声に、商人は大仰に首を振り、神話の神を語るかのように声を潜めて囁いた。
「魔法使いなんて生易しいもんじゃねえ。……『白銀の魔女』様だよ。巨大で美しい、神の使いたる銀狼を引き連れた少女だ。聞いた話じゃ、そのお方は『神の威光を放つ無敵の腕』を持っているそうだ。そして、その手には星の光を宿した『白銀に輝く巨大な針』が握られていてな」
商人の声は熱を帯びていく。
「そこから一切の淀みもない純白の魔法の糸を紡ぎ出し、空間そのものを一瞬にして縫い合わせてしまうらしい。大地に開いた恐ろしい虚無の穴を、まるで布のほころびを直すみたいに、痛みも、苦しみも、一切の傷跡も残さずに、完璧な魔法で塞いでしまうんだとよ!」
その言葉が引き金となり、周囲の群衆から、これまで各地から持ち込まれていた断片的な噂が、爆発的な連鎖を起こして膨れ上がり始めた。
「俺も聞いたぞ! 機巧都市アイアン・ヘイヴンを支配していた狂った論理の王を、その白銀の針が真っ向から打ち破ったってな! 冷たい鉄の論理を、神の奇跡が打ち砕いたんだ!」 「グレイロックの村を救ったのも彼女だそうだ! 毒に冒された大地を、一瞬にして浄化して蘇らせた救世主様だ!」
アイアン・ヘイヴンの解放。父アルベルトの振るう黒い針の打破。グレイロックの浄化。そして、囁きの森の蘇生。
それらの事実が、人々の口を経るたびに極端な美化と誇張という名の「尾ひれ」をつけられ、ルカが流した泥臭い血と汗のプロセスを完全に漂白しながら、劇的な偶像へと形を変えていく。
囁きの森で、ルカがどれほど泥だらけになり、全身の筋肉を断裂させ、絶望的な摩擦と熱の中で自身の命を削るようにして大地にしがみついたか。 限界を超えて赤熱する真鍮の義手の軋み音に耐え、母の遺した不完全な回路に、自分自身の不格好なノイズを足して、みっともないほどに足掻いた末にようやく掴み取った「継ぎ接ぎの奇跡」であったか。
そんな、血の通った人間らしい真実など、目の前の絶望した大衆は一ミクロンも求めてはいなかった。
「彼女なら、きっとこのヴァロワの街も救ってくれる! この世界のすべての虚無を、痛みも苦しみもなく、完璧に消し去ってくれるに違いない……!」
溢れ出す熱狂は、致死性の感染症のように恐ろしい速度で雨の街へ蔓延していく。 誰も、その少女が「痛みを感じ、恐怖に震え、涙を流す、一人の不完全な生身の人間」であることなど、想像すらしていなかった。
彼らの頭の中にある救世主像は、一切の感情の揺らぎを持たず、無限の魔力で世界を軽々と統制する、傷一つない完璧で美しい『神の自動人形』へと、完全に作り変えられていたのだ。
(完璧な、自動人形……)
フードの奥で、ルカはひび割れた唇を自嘲気味に歪めた。 かつて自分自身が蒼刻の塔の最上階で、五感を切り離して目指していた、あの冷徹で完璧な「規格品」の姿。
他者の感情をノイズとして切り捨て、世界の理をただ正しく保守することだけが自らの存在証明だと信じ込んでいた頃の影を、今、この大衆は都合の良い偶像として崇め奉っている。 この身勝手な熱狂の渦の中で、丸腰の少女はどう動くのか――。




