【第63話】慈雨の旋律
全身の筋肉は悲鳴を上げ、残された魔力も完全に底を突いている。 革紐が食い込んでいた右腕は、もはや感覚が完全に麻痺し、ただ鉛のように重いだけだった。
ルカは、大地に視線を落とした。 世界樹のコアに突き刺さっている巨大な『ステラ・ニードル』と、それを彼女の右腕に縛り付けていた分厚い革紐。
限界の何倍もの超高温と、大地を穿つ物理的衝撃、そして最後の魔力暴走の熱をすべてその身に引き受けたステラ・ニードルは、純銀の真っ直ぐな針身が黒く焦げ付き、鋭利だった先端は丸く摩耗してひしゃげ、周囲の土や琥珀の残滓と完全に溶け合って岩盤と『同化』してしまっていた。
もはや、この針を大地から引き抜くことはできない。 この巨大な銀の針は、囁きの森の循環を維持するための「回路の最終プラグ」として、この大地に永遠に縫い留められてしまったのである。
ルカは、自らの麻痺した右腕と大針を繋いでいた、血と泥でズタズタになった革紐を、左手と歯を使ってゆっくりと引きちぎり、解き始めた。 強固な拘束が解け、ルカが身体を後ろに引くと、重い針の呪縛から解放された生身の右腕が、力なくダラリと自由を取り戻した。
「……っ」
血流が戻る激痛に顔をしかめる。 しかしそれと同時に、右肩をずっと下に引っ張り続けていた、あの数十キロの「恐ろしいほどの金属の重み」から、ルカの身体は完全に解放された。
ルカは、自らの身体から切り離され、大地に突き刺さったまま冷えゆく純銀の骸となったステラ・ニードルを見下ろした。 かつての王宮の神秘を失い、ただの巨大な物理的質量として、常にルカに痛みと摩擦を強要してきた重くて不格好な武器。
しかし、この針の「重さ」と、それに耐え抜いた右腕の痛みがあったからこそ、ルカは過去の幻影に逃げ込まず、現実の大地に足をつけて、母の遺した回路を力ずくで縫い合わせることができたのだ。
「……ありがとう、私の相棒。あなたのおかげで、私は……お母様の設計図に、ちゃんと泥だらけの靴跡を残すことができたわ」
ルカは、生身の左手で、完全に冷たくなった純銀の表面を、まるで愛する戦友の墓標を撫でるように、愛おしげに撫でた。
その時だった。
ポツリ。 ルカの左手の甲に、冷たい、小さな水滴が落ちてきた。
「……え?」
ルカが空を見上げると、先ほどまで光の粒子が昇っていった晴れ間が、いつの間にか、自然が作り出した薄墨色の豊かな雲に覆われ始めていた。 それは、虚無の瘴気でも、世界を消去する銀の雨を降らせる絶望の雲でもない。 海から蒸発した水蒸気が風に運ばれ、森の木々が吐き出す呼吸と混ざり合って生まれた、極めて当たり前で、正常な気象現象。
ポツリ、ポツリ。 そして。
ザァァァァァァァァァァァッ……!!!!
数十年ぶりに、囁きの森に、本物の『雨』が降り注いだ。 それは、決して激しい嵐のような雨ではなかった。
干からびた大地を優しく叩き、葉の表面の埃を洗い流し、世界樹の根本へと豊かな水分を染み込ませていく、極めて静かで、慈愛に満ちた「恵みの雨」だった。
「……雨。本物の、雨だわ」
ルカの視界が、雨粒によって滲んでいく。 十年前のあの日。ルカの故郷を奪い、母を奪ったのは、空から降ってくる「銀色の雨」だった。 あの日以来、ルカの心の奥底には、空から降るものに対する拭い去れない恐怖が常にへばりついていた。
しかし、今、彼女の頬を打ち、全身を濡らしていくこの雨は、どうだろう。 ひんやりと冷たいのに、恐ろしさは微塵も感じない。 むしろ、全身の泥と血の汚れを洗い流し、火照り切った筋肉の熱を優しく冷ましてくれる、あまりにも心地よい、生きていることの喜びを実感させる雨だった。
雨粒が、大地に突き刺さったステラ・ニードルの純銀の表面に打ち付けられる。
チッ……、シュゥゥゥ……。
激闘の摩擦によって金属の表面に残っていた微かな余熱が、冷たい雨粒に触れて、最後のか細い水蒸気の音を立てた。 その不器用なノイズすらもが、今は、森が奏でる壮大な雨の旋律の中に、美しい一つの和音として溶け込んでいく。
「……お母様。私、もう、雨は怖くないよ」
ルカは、大地に膝をついたまま、残された左手で顔を覆い、声を上げて泣き始めた。 それは、喪失の絶望の涙ではない。
世界を完璧な魔法で縛り付けようとしていた、かつての傲慢な自分への決別の涙。 そして、不格好で、泥だらけで、痛みと摩擦に満ちたこの「不完全な世界」を、それでも心の底から愛おしいと思えるようになった、一人の継ぎ接ぎ屋としての、絶対的なカタルシスに満ちた歓喜の涙だった。
雨は、ルカの涙を優しく洗い流していく。 隣で天を仰ぐノアの銀色の毛皮を濡らし、少し離れた場所で、泥だらけの法衣のまま呆然と雨の冷たさを味わっているセインの、過去の罪と恐怖をも、等しく洗い流していく。
世界は、美しい。 決して完璧ではない。変化し、朽ちて、痛みを伴うからこそ、誰もが互いの隙間を埋め合うために手を伸ばし、不格好な結び目を作って、明日へと命を繋いでいくのだ。
母エレンが遺した巨大な回路は、大地と完全に同化し、もう二度と解けることのない強靭な地脈として、これからもずっとこの森の命を循環させ続けていくだろう。
ルカは、雨に打たれながら、自身の右肩――重い針の呪縛から解放され、力なく垂れ下がっている麻痺した右腕に、左手をそっと添えた。
今はもう、そこにはあの暴力的な物理的重さはない。 しかし、彼女の魂の中には、確かに、ノアの熱と、巨大な針の重みと、そして母と重なり合ったあの指先の記憶が、永遠に消えない『縫い目』となって刻み込まれていた。
「……さあ、行こうか。ノア。セイン」
ルカは、雨の中でゆっくりと立ち上がり、泥だらけの顔に、世界で一番晴れやかな、そして逞しい職人の笑みを浮かべた。
「この世界には、まだ私たちが『継ぎ接ぎ』しなくちゃいけない綻びが、たくさん残っているはずだから」
静寂の呪縛から解き放たれ、生命の呼吸を取り戻した森の奥深く。 慈雨の旋律が優しく降り注ぐ中、不完全な少女の遥かなる贖罪の旅は、ここからまた、新たな、そして力強い一歩を踏み出したのである。




