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ステラ・ニードルの記憶 〜完璧な魔法を失った天才魔導師は、真鍮の義手で不完全な世界を継ぎ接ぎする〜  作者: 紡木 綸


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【第56話】不格好な大針 ―― 義手による空間刺繍

王宮に拾われた後、ルカは「天才」と呼ばれるようになった。彼女は、空間の綻びを完璧に縫い合わせる魔法を習得した。

それは、世界を救うためではない。二度と、あんな理不尽な喪失を経験しないために。 不完全な世界が悲劇を生むのなら、自分が完璧な魔法で世界を支配し、一切の「エラー」を許さない冷たい論理で縛り付ければいい。 過去を思い出すと、心が引き裂かれて狂ってしまいそうになるから。だからルカは、自分の心から「母の記憶」や「温かい感情」を、鋭利な魔法のメスで完全に切り離し、絶対零度の無菌室に閉じ込めて生きてきたのだ。

父アルベルトが、完璧な論理の塔に引きこもったのと同じように。 ルカもまた、王宮の尖塔の中で、自分の心に『絶対凍結の結界』を張っていたのだ。

しかし今。 魔法を失い、感覚のない腕に重い針を引きずっているだけの、不完全で傷だらけの「生身の少女」に戻ってしまった彼女には、その記憶の濁流を防ぐための防波堤(魔法)は、もう一枚も残されてはいなかった。

「お母、様……。怖いよ……。開けたく、ない……」

ルカの瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、ドアノブを握る左手の甲を濡らした。 扉の向こうに、母の遺した何かがあることは分かっている。しかし、この扉を開けてしまえば、自分が十年間必死に作り上げてきた「冷たくて強い自分」が完全に崩壊し、あの日の無力で泣き虫な少女に戻ってしまう気がした。

喪失の痛みに、真正面から向き合わなければならなくなる。 それは、どんな恐ろしい虚無の化物と戦うよりも、ずっと、ずっと恐ろしいことだった。

ルカが、逃げ出そうとドアノブから手を離しかけた、その時だった。

スゥゥゥ……。

山小屋の木の隙間から、ごく僅かな風が吹き抜けてきた。 それは、森の冷気ではない。小屋の内側から、扉の隙間を潜り抜けて漏れ出してきた、室内の空気だった。

その空気が、ルカの鼻腔を掠めた瞬間。 ルカの全身の震えが、ピタリと止まった。

「……え?」

ルカは、信じられないものに出会ったように、大きく息を吸い込んだ。

その匂い。カビ臭い廃屋の匂いではない。数十年もの間、誰にも開けられずに密閉されていたはずの小屋の空気なのに、そこには埃の匂いすら全くしなかった。

そこに漂っていたのは。 カモミールの乾燥した花弁が放つ、少し青臭くて甘い香り。布の防虫剤として使われていた、乾燥したラベンダーの爽やかな匂い。 そして何より、麻糸の滑りを良くし、強度を高めるために、何度も何度も指先で擦り込まれた『蜜蝋みつろう』の、特有の重く、温かいワックスの匂い。

「お母様の……匂い」

間違いない。それは、ルカが幼い頃、母の膝の上で眠りにつく時にいつも嗅いでいた、母の作業着から漂う、優しくて、働き者の『職人の匂い』そのものだった。

結界によって時間が止められていたからではない。母エレンが、この小屋で、まさにたった今まで、ルカを待って縫い物をしていたかのように。 その生命の気配と、呼吸の痕跡が、極めて濃密に、そして生々しく、この扉の向こう側に『生きて』保存されていたのだ。

「……逃げない」

ルカは、涙で濡れた顔を上げ、強く前を見据えた。

完璧な魔法で自分を守る必要なんて、もうない。 彼女の右肩には、機能は失われてもなお、激闘の重みと痛みの記憶を持った「不格好な巨大な針」が縛り付けられている。足元には、どんな絶望の中でも共に牙を剥いてくれる、銀狼のノアがいる。 アイアン・ヘイヴンで、泥だらけになって世界と摩擦を起こすことの尊さを学んだ今のルカは、十年前の無力な少女ではない。

喪失の痛みを恐れて、永遠の結界に閉じこもるのは、もう終わりだ。

「私、開けるわ。お母様」

ルカは、左手に渾身の力を込め、真鍮のドアノブをガチャリと下へと押し下げた。 十年の歳月と、絶対的な停滞の森の静寂を打ち破る、重く、確かな開錠の音。

ギィィィィィィ……。

分厚いオーク材の扉が、ゆっくりと内側へと押し開かれていく。 ルカは、重い右腕と針を引きずりながら、ついにその『時の止まった山小屋』の敷居を跨いだ。

室内に差し込んだ外の光が、空間に漂う微小な塵を照らし出し、黄金色の光の柱を何本も作り出している。 光の粒が、ゆっくりと、まるで深海の雪のように宙を舞っていた。セインの結界が破られたことで、この小屋の中の「時間」もまた、静かに、そして確実に動き出し始めていたのだ。

ルカの視界に飛び込んできたのは、驚くほど整然とした、しかし確かな生活の息吹が残る部屋の光景だった。

石積みの暖炉には、燃え尽きる寸前で時間を止められた薪が、黒い炭となって残っている。その前に置かれた、使い込まれたロッキングチェア。壁に立てかけられた、箒と塵取り。棚に並んだ、色とりどりの刺繍糸の巻束と、ガラス瓶に入ったハーブの数々。

そして、部屋の中央、窓からの光が最も明るく差し込む場所に。 どっしりとした樫の木で作られた、大きな『作業机』が置かれていた。

「……あ」

ルカの喉から、声にならない吐息が漏れた。 その机の上には、一着の未完成の服でも、ただの布切れでもない。 母エレンが、この森の虚無を浄化し、命の循環を取り戻すために命を懸けて編み上げようとしていた、途方もなく巨大で、複雑な文様が描かれた『刺繍布』が、広げられたままの状態で、静かに、しかし圧倒的な存在感を放って置かれていたのだ。

そして、その布の上に、ポツンと残された、銀色の指貫ゆびぬきと、蜜蝋の小さな塊。

ルカは、もはや自分が泣いていることすら気にならなかった。 ただ、その机に向かって、見えない糸に引かれるように、ふらふらと歩み寄っていく。

右腕に括り付けられたステラ・ニードルの鈍い切先が、カツン、と机の角にぶつかった。 その不格好な物理の音が、静寂の部屋に響く。

それは、完璧な魔道具師の帰還ではなく。泥と痛みにまみれ、不完全なまま世界を受け入れた一人の『継ぎ接ぎ屋』が、母の遺した真実の前に、ついに辿り着いた瞬間であった。

* * *

ズドォォォォォォォォォンッ!!!!!

鼓膜を物理的に破裂させるかのような、凄絶な轟音が森の最深部を揺るがした。 ルカが自身の全体重と遠心力を乗せて振り下ろした真鍮の義手が、その先端に固定された『ステラ・ニードル』の漆黒の楔を、世界樹の根本を覆う分厚い琥珀色の氷床へと真っ向から叩き込んだのだ。

それは、かつての王宮の魔道具師が空中で指先を躍らせていたような、流麗で優雅な「魔法の縫合」とは対極にある光景だった。 泥と土塊が爆発的に舞い上がり、砕け散った琥珀の破片が散弾のようにルカの頬や外套をかすめていく。

右肩の死んだ神経に食い込んだ接合針コンタクト・ピンを通じて、大地を殴りつけた途方もない反発力がルカの脊髄を直接打ち据え、脳髄が白く弾け飛ぶような激痛が走る。

「ガ、ぁぁぁぁっ……!!」

ルカは、奥歯が砕けそうになるほど強く噛み締め、口の中に広がる血の味を飲み込みながら、さらに真鍮の義手を大地の奥底へとねじ込んだ。

「ノア!! 今よ!!」 「ガァァァァウッ!!」

ルカの右脚にぴったりと身体を擦り付けていた銀狼ノアが、自身の体内に燃え盛る野生の生命力と、40度を超える絶対的な『獣の熱』を、ルカの肉体を通じて真鍮の義手へと一気に叩き込む。

限界を超えて赤熱していた真鍮のフレームが、さらにその温度を跳ね上げた。 触れれば一瞬で肉が炭化するほどの、局地的な極大熱源。 それが、大地に深々と突き刺ったステラ・ニードルを通じて、周囲の冷え切った琥珀色の結晶群へと直接、暴力的に流し込まれたのだ。

ジュワァァァァァァァッ!!!!

絶対零度で森の時間を止めていた何千万トンもの琥珀の結晶が、ルカとノアが放つ圧倒的な物理的熱量と摩擦の前に耐えきれず、突き刺さった針の周囲から、まるで熱した鉄板に落とされたバターのように、ドロドロと音を立てて『溶解』し始めた。

「セイン!! 糸を!!」

ルカの絶叫に応え、背後で構えていた少年セインが、十指から放った無数の『銀の糸』を、溶け出した琥珀のマグマの中へと正確に射出した。

『……地脈の座標、固定! 導管レール、展開!!』

セインの叫びとともに、絶対的な張力と耐熱性を持つ銀色の糸が、大地の表面に、母エレンが遺した設計図と寸分違わぬ「複雑な花の文様(魔導回路)」の形を描いて張り巡らされた。

すると、ルカの熱によって液体状にドロドロに溶け出していた黄金色の琥珀が、毛細管現象のように、あるいは見えない重力に引っ張られるようにして、セインの敷いた銀糸のレールに沿って「ズゴォォォォッ!」と勢いよく流れ込み始めたのだ。

溶けた琥珀は、銀糸のレールに沿って大地の表面を這い回り、母エレンの設計図通りに、複雑な螺旋と、素数で構成された不規則な結びノードを物理的に形成していく。 そして、冷たい外気に触れることで、再びその場に『強靭な大地の回路』としてカチン、と硬く定着(硬化)した。

「一つ目、完了……ッ!」

ルカは、息を荒げながら、大地に深く突き刺さっていた真鍮の義手を「フンッ!」と掛け声を上げて力ずくで引き抜いた。 泥と溶けた琥珀の粘着力が凄まじく、義手を引き抜くというその一つの動作だけでも、ルカの左腕と背筋の筋肉が千切れそうなほどの労力を要求された。

スコンッ!と重い音を立てて抜け出た真鍮の腕は、溶けた琥珀をべっとりと纏い、赤熱した鉄と樹脂の焦げる甘ったるい匂いを猛烈に放っている。

「次! 右斜め前方、四メートル! 地脈の交差点よ!」

ルカは、一息つく暇もなく、泥だらけのブーツで大地を蹴り、次の座標へと走った。 義手の関節はすでに破壊され、布帯で自身の胴体に強引に縛り付けている状態だ。腕だけを動かすことはできない。

ルカは、次の座標に到達すると、再び全身のバネを使い、腰を大きく捻って身体ごと真鍮の腕を後方へ振りかぶった。 そして、すべての命運を懸けた次なる打撃を、大地に向けて解き放つ――。


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