【第55話】素材の統合と、セインとの共闘
永遠の完成を誇っていた絶対防壁が、数千万の青白い光の破片となって砕け散った。 その光の吹雪が完全に森の土へと溶け込んで消えるのを待つことなく、ルカは荒い息を吐きながら、世界樹の根本へと続く、古びた石畳の道へと足を踏み出した。
防壁を粉砕した代償として、彼女の右肩からぶら下がる麻痺した腕とステラ・ニードルは、もはや武器としての限界を迎えていた。 絶対零度の結界を物理的に打ち割った衝撃で、腕と巨大な針を一体化させていた分厚い革紐はズタズタに引き裂かれ、純銀の刀身も激しく刃こぼれを起こしている。ノアから受け取った莫大な熱も、すでに冷たい外気へと霧散してしまった。
それは今や、ルカの小柄な身体にはあまりにも重すぎる、ただの「無骨な金属の塊」であった。 一歩足を踏み出すごとに、その途方もない質量が右肩の肉と骨を乱暴に下へと引きずり込み、千切れかけた革が素肌に食い込んで、死んでいるはずの肩の奥深くに生々しい激痛を走らせる。
「……っ、ふぅ……」
ルカは苦痛に顔を歪めながらも、左手でその重い右腕と針を抱え込むようにして庇い、決して立ち止まろうとはしなかった。
セインの結界が破られたことで、数十年ぶりにこの森の最深部に吹き込んだ「外の風」が、ルカの汗ばんだ前髪を優しく揺らしていく。 それは、アイアン・ヘイヴンの煤煙と土の匂いを微かに含んだ、泥臭く、生温かく、そして間違いなく「世界が生きている」ことを証明する風だった。
その風に背中を押されるようにして、ルカとノアは、世界樹の巨大な根が複雑に絡み合う迷宮を抜け、ついにその中心――森の真の最深部へと辿り着いた。
「……え?」
そこにあった光景を目にした瞬間。 ルカの心臓が、まるで冷たい手で直接鷲掴みにされたかのように、ドクン、と不吉で巨大な音を立てて跳ね上がった。
世界樹の太い根と根の間に抱かれるようにして、ひっそりと建つ一つの建造物。 それは、セインが作り上げた琥珀色の結晶群のような、狂気的で幻想的な芸術品などではなかった。また、アイアン・ヘイヴンのような無機質な煉瓦と鋼鉄の塊でも、王宮のような白銀の尖塔でもない。
そこにあったのは、丸太と漆喰で組まれた、極めて質素で、古びた『木造の山小屋』だった。
切妻屋根には、雨風を凌ぐための厚い杉皮が葺かれ、石組みの小さな煙突がちょこんと突き出している。 壁の木材は適度に風雨に晒されて深い飴色に変色し、窓枠には、素朴な意匠の施された木彫りの飾りが嵌め込まれていた。
森の時間を止めていた琥珀色の結晶は、なぜかこの山小屋の周囲数メートルの空間だけには及んでいなかった。 まるで、セインの狂気的な魔力でさえも、この場所だけは侵すことができなかった不可侵の聖域であるかのように。
しかし、ルカの足が床に縫い付けられたように止まり、彼女の呼吸が浅く、震え始めた理由は、それが単なる古い小屋だったからではない。
(……どうして。どうして、ここにあるの?)
ルカの視線は、その山小屋のディテールの一つ一つを、食い入るように、そしてひどく怯えたように舐め回した。
雨除けのために少しだけ長く突き出した軒先の角度。 冬の隙間風を防ぐために、不格好に打ち付けられた窓枠の補強板。 そして、玄関の木製の扉に刻まれた、長年の使用によって丸くすり減った微かな傷の形に至るまで。
それは、偶然の似合わせなどというレベルではなかった。 目の前にあるその山小屋は、十年前のあの日、禍々しい銀の雨に飲み込まれて世界から完全に消滅してしまったはずの――ルカの『故郷の家』と、狂おしいほどに全く同じ姿をしていたのだ。
「……嘘。幻覚よ。こんなの……」
ルカは、震える左手を自身の口元に当て、後退りしようとした。 右腕に縛り付けられた巨大な針が、カツン、と不吉な音を立てて揺れる。
母エレンが、森の地脈と調和するために、故郷の家を真似て魔法で作り出した仮の住処だったのか。あるいは、この森そのものが、ルカの心の一番深い奥底に隠されていた記憶を読み取り、残酷な幻影として眼前に現出させているのか。
理屈は分からない。 だが、目の前にあるその建造物は、ルカがこの十年間、絶対に思い出さないように、自分の魂の最も冷たく暗い地下室に厳重に南京錠をかけて封印し続けてきた『トラウマの原型』そのものだったのだ。
「クゥゥン……」
ノアが、ルカの異常な動揺を察知し、心配そうに彼女の右脚に鼻先を擦り付けた。
「大丈夫……大丈夫よ、ノア。ただの、小屋だもの」
ルカは、自分に言い聞かせるように震える声で呟き、強引に足を踏み出した。
一歩近づくたびに、靴底が踏みしめる土の感触が変わっていく。 結晶化を免れている小屋の前の土は、凍りついておらず、適度な湿り気を帯びた柔らかい「生きた土」だった。 ザクッ、ザクッという足音が、ルカの鼓膜に不気味なほど鮮明に響く。
ルカは、玄関の扉の前に立った。 使い込まれたオーク材の重厚な扉。その中央には、真鍮で作られた、涙の雫のような形をした古びたドアノブが取り付けられている。
ルカは、ゆっくりと、恐る恐る、生身の左手をそのドアノブへと伸ばした。 指先が冷たい真鍮の表面に触れた瞬間。
ビクンッ!!
と、ルカの全身を、凄まじい電流のような衝撃が駆け抜けた。
(……この、感触)
手のひらに収まる、少しだけ歪な涙型の膨らみ。表面に刻まれた、微かな緑青のざらつき。 そして、ノブを下に押し下げた時に手のひらに伝わってくる、「カチャリ」という、少しだけバネが緩んだ特有の金属の抵抗感。
それは、魔法による幻影などでは絶対に再現不可能な、途方もない『物理的なリアリティ(質量)』を持った記憶のフラッシュバックだった。
ドアノブを握った左手から、十年前のあの日――まだ世界が完璧ではなく、温かく、ざらざらとしていた頃の記憶が、濁流となってルカの脳髄へと雪崩れ込んできた。
『ルカ。泥だらけの手でドアノブを触っちゃ駄目って、いつも言っているでしょう?』 『ごめんなさい、お母様。でも、ノブを回す時の、このカチャって音が好きなの』 『ふふっ。変な子ね。さあ、手を洗っていらっしゃい。今日はルカの好きな、カボチャのシチューよ』
シチューの煮える、甘く香ばしい匂い。暖炉の中でパチパチと爆ぜる薪の音。足元を駆け回る、村の野良犬の鳴き声。 そして、布を縫うミシンの、カタカタ、カタカタという、規則正しくも優しいリズム。
すべてが、このドアノブの向こう側にあった。 ルカが世界で一番愛し、世界で一番守りたかった、温かくて、不完全で、愛おしい日常。
しかし、その記憶の直後にフラッシュバックするのは、あの絶望の光景だ。
空が紫黒く染まり、空間が悲鳴を上げて引き裂かれ、空から降ってきた禍々しい銀の雨。 すべてが「無」へと還元されていく中、このドアノブも、家も、シチューの匂いも、そして自分を庇って手を伸ばしてくれた母のその温かい指先も。 すべてが、一瞬にして目の前で消え去ってしまった。
「あ……ぁぁ……」
ルカは、ドアノブを握ったまま、その場にへたり込みそうになった。呼吸がうまくできない。肺が極限まで収縮し、酸素を拒絶している。 喪失のトラウマが、容赦なく彼女の精神を侵食していく。
そんな彼女を現実に引き戻したのは、山小屋の奥から吹き抜けてきた、ある「匂い」だった――。




