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ステラ・ニードルの記憶 〜完璧な魔法を失った天才魔導師は、真鍮の義手で不完全な世界を継ぎ接ぎする〜  作者: 紡木 綸


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【第31話】義手と完璧な魔法の衝突

純白の制御室を支配していた絶対零度の静寂が、空間そのものを切り裂くような凄まじい破砕音によって粉々に打ち砕かれた。

「――対象の『完全消去』を実行する」

父アルベルトのその冷酷な宣告と同時に、彼の手にある指揮棒から展開された青白い魔力の刃が、その本性を露わにした。

それは、かつてルカが王宮で振るっていた白銀の『ステラ・ニードル』が放つ、空間を縫い合わせるための繋ぐ光とは対極に位置するものだった。 光ではなく、むしろ周囲の光を貪欲に吸い込み、空間の座標そのものを「無」へと還元しようとする漆黒の亀裂。 それこそが、アルベルトが到達した完璧な魔法の結晶――一切の誤差を許さず、対象を分子レベルで計算し尽くして消滅させる『黒い針(絶対消去の刃)』であった。

音もなく、しかし光をも置き去りにする速度で、黒い針がルカの心臓めがけて真横に薙ぎ払われた。 空気が燃える音すらしない。なぜなら、摩擦熱が生じる前に、空気の分子そのものがそこに存在しなかったこととして演算処理され、消去されているからだ。

剣術というような生易しい軌道ではない。 それは、空間上の点から点へと、寸分の狂いもない最短の直線を結ぶ、純粋な数学的ベクトルだった。

「……ッ!」

ルカは回避行動をとらなかった。 いや、とれなかったのではない。アルベルトの完璧な計算によって放たれたその一撃は、ルカの運動神経の反応速度、筋肉の収換時間、さらには重力による落下のわずかなタイムラグすらもすべて変数として組み込み、いかなる回避行動をとっても必ず命中する未来を確定させた上で放たれていたからだ。

だからルカは、避けるのではなく、最も重く、最も鈍重で、最も「計算外のノイズ」に満ちた盾を、自らの心臓の前に強引に引き上げた。

シュゴォォォォォォォッ!!!

限界をとうに超え、赤熱した真鍮の重装手甲が、ルカの右半身の痙攣と、ノアから受け継いだ熱の記憶に呼応して、猛然と蒸気を噴き上げながら持ち上がった。 そして、その前腕部の鞘に固定された白銀の残骸――光を失った『ステラ・ニードル』が、アルベルトの放った黒い針の軌道上へと、極めて不格好に、泥臭く割り込んだ。

ガキィィィィィィィィンッ!!!!!

純白の制御室に、世界が終わるかのような凄絶な金属音と、膨大なエネルギーの衝突による閃光が弾けた。

アルベルトの蒼い瞳が、ほんのわずかに、しかし確実に細められた。 彼の計算では、この一瞬でルカの義手は、その内部の不快な熱源もろとも「ゼロ」に還元され、灰すら残さずに消滅しているはずだった。

黒い針の絶対的な消去プログラム。 それは、接触した物体の質量、硬度、魔力抵抗値を瞬時に解析し、それと全く同じだけのマイナス・エネルギーをぶつけることで、対象の存在確率をゼロにするという、誤差ゼロの完璧な魔力操作である。

金属の硬さも、蒸気の圧力も、アルベルトの魔法の前では無意味だ。 百の力で抵抗してくれば、マイナス百の力で相殺する。それが完璧な論理の圧倒的な強さだった。

しかし。 衝突の閃光が収まった後、そこには、赤熱した真鍮の表面から黒いオイルの煙を上げながらも、未だ確かな質量を持ってアルベルトの刃を押し留めている、ルカの不格好な右腕が確かに存在していたのだ。

「……馬鹿な。なぜ消滅しない」

アルベルトの唇から、初めて理解不能という感情を伴った呟きが漏れた。

「計算が合わなかったんでしょう、お父様」

ルカは、接合針が右肩の神経を焼き切る激痛に顔を歪めながらも、血の滲む唇の端を吊り上げて笑った。

「私のこの腕はね……私自身にも、次にどう動くか計算できないのよ!」

アルベルトの完璧な魔法がルカの義手を一瞬で機能停止させようとしたその極小の時間の狭間で、凄まじい物理的、かつ哲学的な矛盾が衝突していた。

黒い針が真鍮の義手に接触した瞬間、アルベルトの魔法は義手の現在の状態を完璧に解析した。 『質量三十五キロ。表面温度二百十五度。内部蒸気圧十二気圧。……これらを相殺するマイナス・エネルギーを出力』 魔法の演算は、万分の一秒という神業的な速度で完了し、消去の力を叩き込んだ。

だが、その魔法が実際に義手へと作用するその万分の一秒の間に、ルカの義手は「別の状態」へとすでに変化してしまっていたのである。

ガリィが作ったこの義手は、失敗作だ。 歯車の噛み合わせにはミクロン単位の遊び(クリアランス)があり、シリンダーのパッキンは摩耗して蒸気が不規則に漏れ出し、ノアから受け取った獣の体温がフレームの熱膨張を局所的に歪ませている。

さらに、ルカの死んだ神経から送られる生体電流には激しいノイズが混じり、〇・五秒の遅延ラグと、数パーセントの出力誤差を常に生み出し続けている。

つまり、ルカの義手は、アルベルトの魔法が対象を固定して解析した次の瞬間には、歯車が不規則に滑り、蒸気が漏れ、熱膨張で形を変え、解析されたデータとは全く違う数値へと、勝手にズレてしまっていたのだ。

百のエネルギーを解析し、マイナス百の魔法をぶつけた瞬間、義手は自らの不完全さゆえに、勝手に九十七や百四へと出力を変動させている。 結果として完璧な相殺ゼロは成立せず、残ったわずかな物理的な摩擦とエネルギーが、魔法の論理回路を『物理的な暴力』として弾き返したのである。

「これが……『誤差』の力よ!」

ルカが義手に全体重を乗せて押し込むと、アルベルトの黒い針の軌道が、ギリリッ、と嫌な音を立てて数ミリだけ上へと逸らされた。

「……あり得ない。これほどの不確定要素ノイズの塊が、自己崩壊せずに形を保っているだと?」

アルベルトは、自らの完璧な数式が、ただの機械のガタつきや金属の摩擦という極めて原始的な物理現象によって破綻させられた事実に、戦慄すら覚えていた。

「私のシステムを狂わせるノイズ……! ならば、そのノイズが変化するよりも早く、すべての変数を同時に消去するまでだ!」

アルベルトは即座に戦術を切り替えた。 彼は黒い針を一度引き戻すと、今度はルカの義手の「一つの点」を狙うのではなく、無数の細かな斬撃の雨――空間そのものを細かいメッシュ状に切り刻む、千の絶対消去の刃を同時に放った。

それは、いかなる誤差が生じようとも、対象の存在する空間ごと完全にゼロで塗り潰してしまう、逃げ場のない論理の檻だった。

シュパパパパパパパパパッ!!!

青白い閃光が、ルカの全身を包み込む。その一撃一撃が、触れれば肉体を分子レベルで消し去る必殺の刃だ。 しかし、ルカの眼差しには一切の絶望はなかった。彼女は義手を振り回すことすらしなかった。

ただ、自らの不完全な右腕の『物理的な重さ』と、その奥底で脈打つ『弾性』に、すべてを委ねたのだ。

「シィィィィィッ!!」

ルカは、義手のメインバルブの排気口をあえて「閉じた」。 本来ならば、暴走する蒸気を逃がさなければ義手は内部から破裂してしまう。

しかし、ルカは高圧の蒸気をシリンダー内にパンパンに密閉し、真鍮の腕全体を極限まで張り詰めた巨大なバネ(サスペンション)へと変貌させたのだ。

アルベルトの千の刃が、真鍮の装甲に降り注ぐ。 その瞬間。

ボゥンッ! ボォォォォンッ!!

奇妙な、くぐもった破裂音が連続して制御室に響いた。アルベルトの消去の魔法は、義手を切り裂くのではなく、義手の表面で「弾き返され」、あるいは「滑って」いたのだ。

アルベルトの魔法は、誤差ゼロの硬い論理だ。 硬いものは、同じように硬いものとぶつかれば、強い方が勝つ。 しかし、ルカの義手は今、内部に充満した高圧蒸気と、ノアの熱によって極限まで膨張した金属の弾性しなりによって、極めて不規則で柔らかい「クッション」と化していた。

完璧な魔法の刃が突き刺さろうとした瞬間、真鍮の装甲が熱と圧力でミクロン単位で歪み、刃の威力を受け流す。 刃が空間の座標を固定して消去しようとすれば、義手内部の歯車が不規則な摩擦を起こして微振動し、座標そのものをコンマ数ミリずらして空振りさせる。

それはまるで、鋭利なカミソリの刃で、流れの複雑な濁流を真っ二つに切り裂こうとするようなものだった。 水は切れない。完璧な刃であればあるほど、その不規則な流動性と弾力性の前に、力を空回りさせられてしまうのだ。

「……くっ!」

アルベルトの顔が、初めて明確な焦燥に歪んだ。 彼の放った千の斬撃は、ルカの義手に無数の浅い傷と塗装の焦げ跡を残しただけで、その重装のフレームを断ち切るには至らなかった。

「お父様の魔法は……綺麗すぎるのよ」

猛烈な蒸気の白煙の中から、ルカが静かに、しかし地鳴りのような圧力を持って前へと踏み出した。

「計算通りに動く世界なんて、どこにもない。人間は間違えるし、機械は錆びるし、天気は予測できない。……この世界は、最初から『不完全』で、ノイズだらけなのよ!」

ルカは、右肩の激痛を歓喜の叫びに変えながら、義手のメインバルブを一気に全開にした。 溜め込まれていた超高圧の蒸気が、爆発的な勢いで後方へと噴き出す。

その凄まじい物理的な推進力が、ルカの身体をアルベルトの懐へと弾丸のように打ち出した。

「だからこそ……私たちは、傷つきながらでも、摩擦を起こしながらでも、互いの『隙間』を埋め合うために、手を伸ばすんじゃない!!」

ルカのこの突進は、単なる物理的な攻撃ではなかった。 それは、完璧さを求めて世界を拒絶した父の孤独な論理に対する、不完全な娘の『慈愛の論理』の真っ向からの証明だった。

アルベルトは、迫り来るルカの真鍮の拳を前に、咄嗟に最大の防御魔法を展開した。 空間そのものを硬化させ、絶対零度の分子停止結界を何十層にも重ね合わせた、いかなる物理現象も魔力も通さない「完璧な壁」。

「私の論理は、絶対だ。……世界は、完璧でなければならないのだ!!」

アルベルトの悲痛なまでの叫びが響く。 その完璧な壁は彼の強さであると同時に、決して誰にも触れられまいとする絶対的な拒絶の殻でもあった。

ルカの真鍮の拳が、その絶対防御の壁に激突する。

ピシッ……!!

一瞬の静寂の後、制御室の空気に、微かな亀裂の音が走った。 アルベルトの壁は、ルカの放った凄まじい運動エネルギーを、完璧に「ゼロ」に相殺しようとした。

しかし、ルカの拳の先端――義手の鞘に収まっていた『ステラ・ニードル』が、その完璧な壁の「計算の綻び」を、物理的にこじ開け始めたのだ。 ステラ・ニードルは、かつて空間の綻びを完璧に縫い合わせていた魔法の針だ。

今は魔力を失い、ただの黒い金属の楔と化しているが、その針には、ルカがこれまでの旅で蓄積してきた「不完全な世界の手触り」が、圧倒的な質量となって宿っていた。

極北の荒野の泥の重さ。アイアン・ヘイヴンの油と鉄の匂い。絶望の底から立ち上がった時の、足の裏の感覚。 そして、この義手とルカの死んだ神経を繋ぎ止めている、ノアの熱い鼓動と、狂おしいほどの『生きたい』という摩擦の痛み。

それらすべての計算不可能なノイズが、義手の不格好な歯車の軋みを通じてステラ・ニードルの先端に集約され、アルベルトの完璧な壁に「極めて非合理的な物理的圧力」としてのしかかったのである。

「シィィィィィィィィッ!!!」

ルカの呼気とともに、義手の出力が機械としての限界点を突破した。

ガガガガガガガガッ!!!

完璧な壁が、悲鳴を上げた。 アルベルトの魔法は、この「割り切れない、泥臭い命の質量」を計算式に組み込むことができず、処理落ちを起こしたのだ。

完璧なものは、たった一つの計算違い(エラー)が生じた瞬間、その全体がドミノ倒しのように崩壊する脆弱性を抱えている。 免震構造を持たない硬すぎるガラスは、固有振動数に達した瞬間、粉々に砕け散るしかないのだ。

「……そんな、馬鹿な。私の、完璧な世界が……!」

アルベルトの蒼い瞳が見開かれ、その奥で何十年も保ち続けてきた凍てつく氷が、音を立てて砕けていく。

「お父様!」

ルカの叫びとともに。 不完全な真鍮の義手と、鞘に収められたステラ・ニードルが、アルベルトの完璧な魔法の壁を、文字通り物理的な力学と摩擦の暴力で、バリィィィィンッ! と凄まじい音を立てて粉砕した。

飛び散る青白い魔力の破片の中を、ルカの真鍮の拳が突き進む。 それは相手の張った強がりな拒絶の殻を叩き割り、その奥で震えている「心」の胸倉を、泥だらけの手で強引に掴み上げるための、どこまでも重く、どこまでも不器用な『継ぎ接ぎ』の一撃だった。

義手の先端が、アルベルトの純白の軍服の胸元に触れる。 その瞬間、ルカは義手の蒸気圧を意図的に反転させ、打撃の威力を完全に殺した。

しかし、その義手が纏っていた莫大な熱とノイズ、そして「生きているという圧倒的な質量の摩擦」はアルベルトの身体を激しく打ち据え、彼を『論理の玉座』から冷たい床の上へと無様に吹き飛ばした。

完璧な論理の支配者が初めて物理的な痛みに顔を歪めて床に転がった、まさにその衝撃の瞬間。 アルベルトはさらに恐るべき虚無の結晶をその手に顕現させようとしていた――。


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