【第30話】ノアの消去と「完璧な論理」の強制
純白の制御室を支配する、絶対零度の静寂。 アルベルトが手にした指揮棒――極度に圧縮された青白い魔力の刃が空気を切り裂く特有の、高い摩擦音だけが、無菌室のような空間に冷たく響き渡っていた。
その刃の切っ先は、初めは真っ直ぐにルカの心臓に向けられていた。 しかし、アルベルトの蒼く澄み切った瞳は、やがてルカの足元で、血と泥と煤にまみれながらも主を守るように低く唸り声を上げている一頭の獣――銀狼のノアへと、極めて緩やかに、そしてひどく冷酷な軌道を描いて滑り落ちていった。
「……そもそも、計算が狂い始めたのは、すべてその『異物』からだ」
アルベルトの唇が、感情の欠落した機械のように動く。
彼の視線に射抜かれた瞬間、ノアの全身の毛が逆立ち、「グルルルゥゥッ!」とこれまでにないほど激しい警戒の咆哮を上げた。 ノアの野生の本能が、目の前に立つ男を「生命の敵」として、あるいは「自分という存在そのものを根本から否定する絶対的な虚無」として正確に認識したのだ。
「星読みの町に発生した虚無の亀裂。あれは本来、私とお前の『完璧な論理』をもってすれば、いとも容易く消去できるはずのエラーに過ぎなかった。……だが、お前はその完璧な数式の中に、あろうことか『慈愛』などという、最も不確定で、最も非合理的なノイズを混入させた」
アルベルトは、魔力の刃をノアの鼻先へとゆっくり向けた。
「その獣だ。……すでに虚無に侵食され、死というプロセスが確定していたその不完全な生命体を、お前は私情に駆られて救おうとした。世界の厳密な質量保存の法則を無視し、死ぬべきものを生かそうとする致命的なバグ。……ルカ、お前の中に芽生えたその『私情』こそが、この世界を歪めている最大の病巣なのだ」
「私情……それが、病巣ですって?」
ルカは、重い真鍮の義手を引きずりながら、ノアを庇うように一歩前へ出た。
「お父様には、これがただのエラーに見えるのね。……ノアは、私がすべてを失って、魔法も使えなくなって、雪の中で死にかけていた時に、自分の命を削って私を温めてくれたわ。この痛いだけの鉄の腕が動くのも、ノアの血の通った熱があるから。……これのどこが病巣なの! 弱者が排除されるべきだなんて、そんな冷たい世界、間違ってる! これは、世界が生きている証よ!」
「生きている証だと? 愚かしいにも程がある」
アルベルトの表情に、微かな、しかし底知れない軽蔑の色が浮かんだ。
「命などというものは、ただのタンパク質と生体電流の無秩序な化学反応に過ぎない。熱を持ち、摩擦を生み、やがて腐敗して周囲を汚染するだけの、極めて非効率なエネルギーの浪費だ。お前はその獣が与えてくれた熱を『愛』や『絆』などという曖昧な言葉で装飾しているが、私から言わせれば、それは単なるシステムへの寄生だ」
アルベルトはゆっくりと、靴音一つ立てずにルカへと歩み寄り始めた。
「お前はかつて、王宮の蒼刻の塔で、誰よりも美しく、誰よりも完璧な論理を紡ぐことができた。私の最高傑作であり、この世界を完璧な球体へと導くための、最も鋭利な針だった。……ルカ。今すぐその薄汚れた獣から離れろ。そして、私の元へ戻ってくるのだ」
アルベルトの声には、威圧だけでなく、彼なりの歪んだ『父親としての愛情』,あるいは『製作者としての執着』が混じっていた。
「お前の右半身を拘束しているその醜悪な鉄屑は、私が最高の魔導合金と論理回路を用いて、生身の腕と見分なう完璧な義手へと作り直してやろう。失われた感覚も、魔法の出力も、すべて元通り――いや、以前よりも遥かに高次元の完璧さを与えてやる。……だから、その『不確定性の塊』を、今すぐ私の目の前で消去しろ」
ノアの消去。 その言葉が意味するものは、単なる殺害ではない。
アルベルトが手にする青白い魔力の刃は、対象の肉体を切り裂くためのものではなく、対象の存在そのものを「空間の座標からデータごとデリートする」ための、恐るべき論理の兵器だった。
「……断る、と言ったら?」
ルカは、義手の前腕部に作られた鞘に収まるステラ・ニードル――もはや光を失い、ただの鈍い銀色の楔と成り果てたそれを、アルベルトへと真っ直ぐに向けた。
「断る権利など、お前には最初から与えられていない」
アルベルトは冷たく言い放ち、ピタリと足を止めた。
「お前はまだ気づいていないようだな、ルカ。お前の右腕が動かなくなった本当の理由を」
「……魔力のオーバーロードよ。ノアを異界の引力から強引に引き剥がした時に、私の神経回路が焼き切れた。それだけのことよ」
「違う」
アルベルトの言葉は、氷の杭のようにルカの心臓を鋭く突き刺した。
「単なる魔力神経の断裂であれば、王宮の治癒魔法、あるいは私の技術をもってすればいくらでも細胞の再構築が可能だったはずだ。だが、お前のは右腕は、細胞が死滅しただけではない。世界そのものから『動くことを拒絶』されているのだ」
アルベルトは、ルカの右半身にのしかかる、赤熱し、油まみれになった真鍮の重装手甲を見据えた。
「世界の法則は、常に等価交換と厳密な均衡の上に成り立っている。死ぬべき運命にあった獣を、お前は己の不完全な慈愛という私情によって無理やり現世に縫い止めた。……その結果どうなった? 宇宙の完璧な論理は、その生じた歪みを矯正するために、お前の魔力の源であり、世界と繋がる接点であった『右腕』を代償として没収したのだ」
「代償……」
ルカは息を呑んだ。 アルベルトの言葉は、かつてルカ自身が絶望の淵で何度も自問自答した、呪いのような疑念そのものだった。
「そうだ。お前のその麻痺は、怪我でも事故でもない。完璧な論理を裏切り、不完全な慈愛というノイズに溺れたお前に対する、世界の冷徹な『裁き』なのだ」
アルベルトは、魔力の刃を高く掲げた。
「裁きを下された腕にそんな重い鉄屑を被せ、獣の熱という更なるノイズで無理やり動かそうとするなど……法則への二重の冒涜だ。だからこそ、お前は常に生身の肉が引き裂かれる摩擦の激痛に苦しみ、機械の遅延に苛立たねばならない。……それは、お前が完璧な世界から追放された罪人であるという、何よりの証明ではないか!」
アルベルトの断罪の言葉が、ガラス張りの制御室に反響し、ルカの鼓膜を容赦なく叩き据えた。
世界の裁き。罰。罪人。 かつて天才としてもてはやされた少女が、一夜にしてすべてを失い、泥にまみれて這いずり回ることになったのは、自分自身の「優しさ」が間違っていたからなのか。 世界は完璧な論理だけを愛し、慈愛や絆といった不完全な感情を「罪」として罰するほどに、冷酷なものなのか。
ルカは、自身の右腕の奥深く――重装手甲に拘束され、激痛に苛まれ続けている生身の腕に、ズキリと走る重い痛みを感じた。 義手は限界を迎え、今はノアの熱を帯びたまま、ただの重い鉄の塊としてルカの肩にぶら下がっている。動かしようとすれば、骨が軋み、肉が裂けるような痛みが伴う。 アルベルトの言う通り、これは「罰」なのかルールなのか。
しかし。 ルカは、足元で自らの足をしっかりと支え、アルベルトの魔力の刃から決して目を逸らさないノアの、その力強く温かい背中を見た。
(……もしこれが、罰だというのなら)
ルカは、ゆっくりと顔を上げた。 彼女の瞳には、かつての完璧な天才としての傲慢さも、すべてを失った直後の絶望も、もう存在しなかった。
そこにあったのは、痛みも、泥も、喪失も、すべてを自分の一部として飲み込んだ、一人の強靭な「人間」としての、揺るぎない覚悟だった。
「……ええ。お父様の言う通りかもしれないわね」
ルカは、静かに、しかし制御室の空気を震わせるほどに深く通る声で応じた。
「この右腕が死んだのは、私がノアを選んだことに対する、世界の冷たい裁きだったのかもしれない。私完璧な法則を裏切って、不完全な感情に流されたことへの、罰だったのかもしれないわ」
「ならば、過ちを認めろ。その獣を消去し、論理の正座へと戻るのだ」
「でもね、お父様」
ルカはアルベルトの言葉を遮り、不敵な笑みすら浮かべてみせた。
「私、この『罰』を愛しているわ」
「……何だと?」
アルベルトの完璧な無表情に、初めて微かな亀裂――理解不能なバグに直面したような当惑の色が走った。
「完璧な世界は、確かに綺麗だった。痛みがなくて、悲しみがなくて、計算通りにすべてが運ぶ、無菌室のような世界。……でも、そこには『体温』がなかった」
ルカは、動かないはずの真鍮の右腕を左手でしっかりと掴み、自らの意志と、残された左手の魔力、そしてノアから受け取った熱の記憶を総動員して、強引に胸の高さまで持ち上げた。 ギィィィ……ッ、と限界を超えた歯車が悲鳴を上げ、関節から黒い油が滴り落ちる。
内側の生身の腕がネジり上げられる激痛が神経を焼き、ルカの額に玉の汗が浮かぶ。
「この痛みは、私が『外の世界』に出た証拠よ! 完璧な無菌室から飛び出して、泥だらけになって、火傷して、誰かと傷つけ合いながらでも、一緒に生きていくことを選んだ……そのための『入場料』なのよ!」
ルカの叫びが、制御室の冷たいガラスをビリビリと震わせた。
「世界が私を裁いたというのなら、上等よ。私は、その冷たい世界に、この痛いだけの不完全な鉄の腕で、強引に『温かいノイズ』を叩き込んでやる。ノアは私の私情の象徴だわ。私の弱さで、私の未練で、私の愛の形よ。……それを消去しないと維持できないような『完璧な論理』なんて、ただの脆いガラス細工じゃない!」
ルカは、真鍮の義手の鞘に収まった『ステラ・ニードル』の切っ先を、父アルベルトの青白い魔力の刃へと、真正面から突き付けた。
「お母様が死んだあの日から、あなたは自分をその牢獄に閉じ込めてしまったのね。お母様が死んだのは、世界が不完全だったからじゃない。命が、最初からそういう脆くて儚いものだからよ。それを直視するのが怖くて、全部を機械の論理に置き換えようとしているお父様こそ……誰よりも、その『悲しみ』という名の私情に囚われているんじゃないの!」
その瞬間、アルベルトの顔から一切の人間性が完全に消え失せた。
「……対話は、終了だ」
アルベルトの瞳が、絶対零度の殺意に凍りつく。
「お前はもはや私の娘ではない。修復不可能な、致命的な論理矛盾だ。……中央論理回路の名において、対象の完全消去を実行する」
アルベルトが指揮棒を振り下ろすと同時、制御室の床面に張り巡らされていた青白い魔力のラインが、凄まじい光を放ってルカとノアを取り囲んだ。 純粋な論理による空間の圧縮。逃げ場のない、絶対的な「無」への強制移行プログラム。
「行くわよ,ノア!!」
「ガァァァァァッ!!」
ルカの叫びと、銀狼の咆哮が重なり合う。 ルカは、限界を超えて赤熱する真鍮の義手のメインバルブを物理的に破壊して全開にした。
シュゴォォォォォォォォォッ!!!
もはや制御など存在しない。 激痛と引き換えに、ただひたすらに前へと進むための暴走する蒸気の推進力。
完璧な論理を信奉する断罪者の刃と、不完全な慈愛を抱きしめた継ぎ接ぎ屋の、激痛と泥にまみれた真鍮の拳が、アイアン・ヘイヴンの最も高く、最も冷たい空の真下で、ついに激突の時を迎えた――。




