最終話
ふっと、目を開く。
いつの間にかまどろんでいたようだ。
目の前には青白い光を放つディスプレイがある。
まぶしさに目を閉じ眉間に手を当てる。
不意にその仕草にあるものを思い出し、そっと鍵つきの引き出しから小箱を取り出す。
そこに収められているのは花柄のハンカチだ。
あの時実は返しそびれた。
今はいない人の持ち物。
そっとそれを箱に戻し、引き出しを締め、背もたれに力なくもたれかかる。
そろそろベッドで寝ないと持たないかもしれない。
ここ半年、実は葵はまともにベットで眠っていない。いくら若いとはいえそろそろ限界かもしれないと思うが、寝ようとすると次に目覚めた時に最悪な現実が待っている気がして落ち着かなかった。
葵は深い溜息を吐いた。
あの日、あの家族を襲った悲劇のあと、葵は両親と別れ祖母の元に残った。
あの少女を見守るために海外に戻ることができなかったからだ。
事情を聞いた祖母だったが、直接の事故の原因が従兄弟や葵ではないとわかると、彼女に対する支援はしないといった。
信じられない祖母の言葉だったが、直接かかわっていない以上、支援するのはおかしいし、そんなことをすればあの場に森ノ宮の者がいたことがばれて、会社にも悪影響が出る。
祖母の言い分は正しいと言わざるを得ない。それは葵にはわかっていた。
だから、葵は個人の意思で個人の資産で彼女を影から守ることを決めた。
それに関して祖母はなにも言わなかった。
ただ森ノ宮の名前だけは悟られないようにとだけ言った。
その日から葵はそっと影から彼女の家族を見守り続けた。
もちろん自分自身が動くことはできない。
葵には祖母の元に残ったことで課せられた仕事や勉強があった。
それは生半可な量ではなく、未成年である彼が日本に残る代償としてのことなので苦にはならなかった。
その代り葵は今まで稼いだ個人資産で私設のセキュリティ会社を作った。
もちろん子供の葵では代表になれないので、信頼できる代表の名前でだが。
そうして集めた調査員たちにそっと彼女の安全を見守らせていた。
あの事故の後、やけどを負っていた彼女だが、幸い顔や人目に触れる場所には残らなかったらしい。
たまに、送られてくる彼女の写真では夏でも長袖の姿に痛々しいものを感じつつも、平穏な日常が刻まれているのがわかって、ほっとする。
彼女の笑顔の刻まれた写真を見ることだけが葵の忙しい生活の中で唯一の楽しみとなった。
彼女の十年はとっても平和なものだった。
ただ幼い子供が少女となり、大人の女性に変化する様を緩やかに写真だけで追っていく。
少女の周りは何も特別なものはない。
ただ平凡に、ただ優しい兄に守られ、ただ少ないながらも気の置けない友人に囲まれつつも緩やかに成長する。
その間、葵は森ノ宮の英才教育により様々な企業や組織に実を置きながら、政治や経済について学んでいった。
何度か両親が自分たちの下に戻らないかと言ってきたが、最早そのつもりは葵にはなかった。
祖母は葵を幼いという理由で決して甘やかさなかった。
一度、森ノ宮財閥に恨みを持つ男に誘拐されたことがある。
その時だって、祖母は一銭もお金は出さず、ただ葵に自力で帰るように言っただけだ。
言われたとおり葵は逃げる方法を考えた。
その時に葵は少女のことを思い出した。
可愛い可愛い少女。泣いて笑って悲しんで。あの娘のように振る舞えば大抵の大人は油断するだろう。
実際に、彼女を真似て泣いて見せれば、幼い自分の年齢も相まって、男には祖母に見捨てられたかわいそうな男の子に見えたらしい。まんまと男を騙して油断させ、逃げ出すことに成功した。
その後、捕まった男の行方は知らないが、そのことで人を騙し、動かす方法をなんとなく理解した。
葵の十年は終えてみれば短いものだった。
特に細かく覚えている記憶はないが、内容は濃かったと思う。
たくさんのことを学んだ。
しかし心に残ることは何もなかった。ただ学んだことや技術は思い出せる。
だが感情的なことはあの日から成長が止まった気がする。
そんな葵と対照的なのが、彼女だ。
写真の少女は実に感情豊かだ。
あれほどの事故に巻き込まれて生還した過去があるように見えない。
優しい兄に見守られ、笑って、怒って、泣いて、喜んで、恋して。
様々な感情の表し方を葵に教えてくれる。
昔に比べて葵の顔は随分と色々な表情が作れるようになった。
専ら演技用で仕事用だが、少女から学んだことは多い。
彼女の写真を送ってくる調査員はなかなかに芸術家らしい。
様々なアングルや背景で捉えられた彼女。
たまにカメラ目線のものもあって気づかれてないかどきりとするが、バレてはいないようだ。
彼女の周りで移ろう季節と空の色が鮮やかで、時間の動きを見逃しがちな葵にそれを教えてくれる。
そんな年月が経ったある日、葵は祖母に呼び出された。
その場で祖母はいずれ葵を後継者として指名するつもりだと言った。
認められたことを素直に嬉しかったが、後継者になるのはなんとなく面倒かと思っていた。
祖母の後継者となれば、華やかで社交の場にも足を運ばねばなくなる。
葵はどちらかといえば表立って何かするのはあまり得意ではない。
それより影で誰かを操っている方が性に合っている。
そのことを素直に言うと、祖母は笑った。
確かにそうだ、快活に笑ったものの、後継者の件は引いてくれる気はなさそうだった。
そんな会話をした数日後、祖母から命令が下った。
かつて祖母の父、葵の曽祖父が建てたとされる学園が汚職の巣になっているらしい。
噂だけでも裏口入学、金による成績の水増し、賄賂。
そんなモノの巣窟となっているという学園を救い、正常な形に戻せ、という命令だった。
かつて曽祖父の理念に沿った学園は美しく規律正しい存在であったという。
しかし、現理事長と現学園長が就任して以降腐敗が著しいらしい。
森ノ宮学園は祖母がまだ娘時代に、曽祖父の死を受けて、祖母の兄が経営を継いだ。
決して無能な人間ではなかったが、賢い人間でもなかったらしい。
あずき相場に手を出し借金だけが膨らみ、学園を人手に渡すしかなかった。
以降、莫大な借金のため一時は一家心中の危機に陥った家族を救うべく、祖母が立ち上がった。
なりふり構わず仕事を見つけては働いた。
そうして、なんとか森ノ宮という名前の小さな会社を再建し、そこから企業戦略を立て、今や日本に名を轟かす巨大グループとなっている。
森ノ宮学園を買いなおすという考えは常に祖母にあった。
しかし、この年になっても買い直さなかったのは、森ノ宮学園がちゃんと父親の理念を実践する人間に運営されてきたからだった。
それに兄が存命中で、自身のせいで手放す羽目になった学園を妹の自分が買い直してしまえば、変にプライドを傷つけてしまう気がしてできなかったらしい。
しかし、祖母の兄である大叔父は昨年長く患っていたガンで亡くなった。
そして、ここに来て森ノ宮学園の汚職の話が広がった。
祖母にはあの学園をその手に取り戻す時期だと感じたらしい。
そして祖母は学園を手に入れた暁には、葵に総代としてその椅子に座るよう命じた。
もちろんそれは一時的な物だ。
葵は祖母の事業も引き継がなくてはならないため、学園の経営などする暇はない。
学園を正しく運営できる理事や学園長が育つまでの間の間繋ぎの役職なのだ。
しかし祖母にとって総代というのは特別なものらしい。
この総代の地位を持って、祖母は葵を後継者として内外に発表すると言った。
祖母が森ノ宮学園に並々ならぬ関心を持っているのは、割と有名な話だ。
その学園の総代という地位に自身の孫をつけると言うこと。
それこそが、祖母にとっての葵のお披露目だという。
しかし、祖母には悪いが、葵はそのことに関してはさほど関心がなかった。
ここまで育っててもらった手前、祖母に逆らう気もなかったので、言われるまま祖母の命令に従って、計画を立て開始した。
その命令を受けて数ヵ月。
葵は淡々と影からその手を着実に伸ばし、森ノ宮学園の実権をその手に収めていった。
そうして、日々は過ぎあの事件は起こった。
五ヶ月前。あの日のことは忘れられない。
月が出ていた。細い鋭利な刃物を思わせる月だ。
ゴミの散乱した汚い室内。開いた扉から僅かな月明かりが室内を照らしている。。
ゴミと埃の充満する灰色の空間に、真紅の花のようなものは人の血液だなんて葵は信じたくなかった。
前日で確かに幸せそうに笑っていた少女から流れたものだなんて信じたくなかった。
傷だらけで疼くなる彼女に触れれば、かすかに苦痛でかぴくりと反応があるものの体温は限りなく冷たかった。
かつて抱きしめてくれたあの腕や体の暖かさはなく、ただ人形のように体温を伝えない。
葵は自分の心臓が凍りつく音を聞いた気がした。
その日、葵は間違えた。
森ノ宮学園の実験掌握計画の実行中に、理事長がとある動きを見せた。
どうも裏口入学の相談に行くようだという情報を入手し、ここで証拠を得られれば、理事長を追い落としやすくなると考えたが、その時ちょうど空いている部下が誰もいなかった。
そこで思いついたのが、自身の経営するセキュリティ会社の調査員の存在だった。
普段は少女に張り付かせている調査員に理事長に追わせる。
この約十年。彼女の周囲は平和そのものだ。
ここ数年、たまに兄の元彼女と思わしき女が自宅周辺をうろついていたという報告は聞いていた。
しかし、何をするでもなくその場を去っていったため、問題視していなかった。
ほんの少しの油断だった。
しかしそれが取り返しのつかない事態を招いた。
あの日、調査員を一日だけ理事長に張り付かせ、少女の元を離れさせた。
たった一日だ。十年近くでたった一日。
だが、その日に彼女は攫われて殺されかけた。
彼女が家に帰っていないという一報を聞いて、葵の動かせるすべての人間を動かし探させた。
そして見つけ出した彼女は死にかけていた。
血だらけの彼女を一緒に連れてきていた医者に見せたとき、覚悟はしてくださいと言われた時目の前が真っ暗になった。
幸いなんとか一命は取り留めたが、体の傷はもとより、今まで傷のなかった顔に負った切り傷は後が残るという。
再びICUの住人となった彼女をただ見守ることしかできない自分のなんと無力か。
結局葵は彼女を守れなかった。
しかも今回は完全に葵が悪い。
あの女に対する報告はかなりの数きていた。
しかし葵は見落とした。
事情聴取にあの女は言った。
普段は必ず誰か人がいて、手を出せなかったけどあの日は一人だったから連れ去れた、と。
その言葉に葵は自分を呪い殺したくなった。
何が天才児だ、何が有望な財閥の後継者だ。
たったひとりの少女も守れないで、何万人もの社員の上に立つ?
ワラワセルナ。
これは葵の罪だ。
十年前の他の誰かのしでかしたことではない。
ごまかしようもなく、葵の油断が彼女を危険に晒した。
最悪の形だ。
しかもあの時の比ではなく、彼女の体もそうだが心の傷も深い。
結局葵のしてきたことはなんだったのだろうか。
あの日彼女の幸せを守ると誓った。
しかしそれすらできない自分はなんのためにここに存在しているのだろうか?
・・・・・・。
ふと、思考の海から浮上し、時計を見れば午前二時だ。
朝までまだ間がある。ふと寮に今眠っているはずの少女を思い出した。
夜の学校。どうやら葵の忠告も聞かず、一人になって生徒会、学生会両方から追われていた。
葵はそっと彼女の後を追っていた。彼女が逃げ切れるようそっと他の生徒をかく乱しながら。
しかし彼女は思いがけず袋小路のような場所にいってしまった。
仕方なく葵は彼女を隠し教室のある場所に誘導した。
そこで隠し扉から彼女を引っ張り込んだのだが、彼女の様子がおかしかった。
呼吸が乱れ、ひどく震えていた。
どこか焦点の合わない瞳で泣いている彼女に驚いていると、急に彼女が葵に縋り付く。
あの時の小さな子供の体ではない。
しっかりと成長した、しかしまだ初々しさの香る彼女の香り思いがけず、心が跳ねた。
しかし、相手の反応が通常のものでないことはわかっていた。
震えながら、懇願するような、上ずった声がずっと彼女の口からこぼれる。
「助けて…兄さん…助けて!」
何度も呪文のようにつぶやかれる彼女の懇願する声に、思わずその体を掻き抱く。
すると、彼女も葵の体温に縋り付くように身を寄せてくる。
それをさらに力を込めて彼女をぎゅっと抱きしめた。
するとだんだん彼女の震えがおさまる。
だがうわごとのように紡がれる名前は変わらない。
それがなぜかひどく心をかき乱す。
だが、今は自分のことを気にしている場合ではない。
おそらく、彼女はあの時の記憶に正気を失っているのだろう。
薄暗い室内や、あの鋭利な月はあの時彼女を失うと思った夜に似ている。
さらに追い詰められるような鬼ごっこ。
葵は自分の軽率さを殴りたくなった。
そっとあやす様に背中をたたいてやるとこわばっていた彼女の体が弛緩するのがわかる。
しばらくすると寝息のような安心しきった吐息が聞こえてくる。
なぜそうしようと思ったのか葵にはわからない。
ただ安心して眠る彼女が悪夢を見ないよう、彼女のいうおまじないのようなものをしたかったのかもしれない。
「おやすみ。…よい夢を」
そっとつぶやいてその額にキスを落とした。
その行為に彼女は少し身じろいだが、結局目を覚まさなかった。
そのまま彼女を寮に運び込んで、寮監に託した。
伊切の報告を聞き、溜まった書類を片付けていた時に寝てしまったようだ。
その時、ふとメールが入ってきているのに気が付く。
マウスを操作し、文章を開くと、どこか性格をうかがわせる
びっしりと細かく書かれたメールが出てくる。
差出人の欄は確認しなくてもわかる観平雲英だ。
文面を視線だけでたどると、いちいち固い時節のあいさつから始まる。
礼儀正しいらしい彼女の兄の文章は大まかに見れば、緋露を入学させてくれたお礼と、彼女を心配する文章と、後は葵への礼と不安がにじんでいた。
まあそれはそうか、と葵は彼の心情を理解する。
不安なのだろう。
大切な妹をどんな人間かよく知らない人間に託したことが。
あの事件のあと、まるで関係のない第三者みたいな振りをして彼に葵は近づいた。
妹さんの事件大変でしたね、とまるで善意の第三者みたいな顔をして。
そして彼に彼女を葵に預けるしかないように話を持っていった。
人の心を操るのは得意だ。
彼女の語る兄はとても頭の良い人間だというから騙されてくれるかどうか正直不安要素はあったが、おそらく彼女の件で混乱していたのだろう。
案外あっさりと丸め込まれてくれた。
彼女の兄に飲ませた葵の計画は、森ノ宮学園への編入だ。
女性である彼女を男子校に入れるなど、平時であればとんでもない話だが、現在彼女は極度の女性恐怖症だ。
男子校である森ノ宮学園ならば、学校という閉ざされた空間と女性のいない環境でゆっくり傷を癒すことができると、言って兄を納得させた。
それは嘘ではない。だがすべてでもなかった。
葵はあの事件以来、自分の手の届かない場所に彼女を置くのがいかに危険か再認識させられた。
だから葵の手の届く範囲、森ノ宮学園に彼女がいれば、少なくともあの時のように全く予想外のところから彼女を危機に陥らせる要因を排除できると考えたのだ。
本来であれば、完全に葵が学園を掌握したときに彼女を呼びたかったのだが、出席日数を気にした彼女が他の学園に目を向けているのを知り、慌てて編入の許可を出した。
そのころには葵も学園の生徒として、潜入していた。
理事長と学園長を陥れる罠の完成を自身で調整するためだ。
今なら、自身も近くで彼女を守れる。
彼女が自分と同じクラスに編入するようにして、わざと後ろの席に彼女を座らせ、話しかけた。
彼女には昔のような人懐っこさはなくなっていたが、むしろ良い変化だと思う。
だが、同時にさみしくもなるのは葵の気のせいだ。
あの頃と違うのは自分も同じなのだから。
だが、あんなことがあったあとなのに警戒心のなさにはあきれた。
彼女は葵が親切めかして脅した学園の内情にまったく気にも留めず、自身の身の危険も顧みず、一人で行動する。
そのたびに葵は彼女の姿を求めて駆けずる羽目になった。
まったく、葵をここまで引きずり回し困惑させるのは今も昔も彼女だけだ。
明日目覚めた彼女が引き起こす学園での日々を思って、葵はそっとため息を吐いた。
それが大変さを思ってのことか、楽しみゆえか自分自身にもわからなかった。
ただ、今までただ起きて寝てを繰り返す、ただ摩耗していくだけの生活ではないことだけは確かだと思った。
「……緋露」
そっと彼女の名前を唇に乗せる。
一度は冷たくなった彼女の体に触れたときの絶望感。
抱きしめたときに感じたかつてと変わらない温かさに胸がキュと痛んだ気がした。
それがなんなのか葵は知らない。
だが妙に甘さを感じるものだと感じただけだ。
葵はそっとディスプレイの電源を落とした。
さて、明日おそらくまた彼女が引き起こす何かに対応するために駆けずり回る羽目になるだろう。
ならば体調を万全にしなくては。
今日ならベッドで眠れる気がして、葵はそっと椅子から立ち上がった。
もともと長編だったものを無理やり短編にしたため、後半かなり駆け足ですみません。
ちなみにもっと短くするつもりが、キリのいいところまで書いたところ、ある程度の枚数になったので中篇程度の連載版にさせていただきました。
冒頭のプロローグはかなり前に書いていたのですけれど、
当初の流れをかなり逸脱した作品になりました。(-_-;)
かなりエピソード削ってるからな。
最終回と言いつつ、何にも解決してませんね?
プロローグに出てきた連中結局その後全く出なかったし(-_-;)
この後もなんだかんだでひっちゃかめっちゃかあるんですけど、長くなりそうなので、とりあえずここで完結とさせていただきます。
機会があれば、その後も書きますが、未定。
需要なさそうですしねえ。
ここまでお付き合いいただき感謝です。
ありがとうございました。