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5.とあるあわれな召使い

 庭師の朝は早い。

 太陽が頭を覗かせる前に起き出すのが日常だ。

 目を開けたとき、まだあたりは薄暗くて、そんな朝をしばらく迎えていなかったことにアガサは気づいた。


 ずしりと重たい身体。疲れが抜けきっていないらしい。

 夢の感覚がまとわりついている。どんな内容だったか、もう思い出せない。

 それどころか、昨夜はどうやってこのベッドに戻ってきたのかも覚えていなかった。

 でも、起きなくては。寒いと感じる間に樹木の剪定を済ませなければいけない。

 冬の庭は広いのだ。二本の手では余ってしまうほどに。


 アガサはぐっと腹筋に力を入れて、少し左腕を内側に引っぱった。

 ころり、と腕の上を何かが転がる感触がした。

 なんだろう。疑問に思って、左側へと首を曲げる。

 それが、間違いだった。

 横を向いた途端、鼻先をかすめた甘い香り、さらさらと落ちた銀糸が上唇を撫でていく。


「……」


 アガサは再び、正面を向いた。

 低い天井だ。何度も補修を繰り返しているのでつぎはぎの色板が交錯して、教会の天井壁画のようだなと友人に称されたこともある。

 背中に当たる硬さは慣れ親しんだもの、薄い布越しにやわらかな木の弾力を感じる。もちろん城内で使われているような、綿を贅沢に使用した寝具にはとても敵わないだろうけれど。

 目を閉じて、もう一度目を開けるところからやり直す。

 けれど、左腕が軽くなることはなかった。

 すーすーという規則的な呼吸音が、夜明けのしじまの隙をついて、鼓膜へと届く。

 キイ、と甲高く寝台がしなった。悲鳴のように、アガサには聞こえた。

 開幕の合図になったように、まぶたが動いた。

 雪はやがて溶け、やわらかな風が大地を駆け抜ける。

 春の予感に花びらは開く。その様子を、この世のもっとも近い場所からアガサは観察した。


「…… おはよう、ございます?」


 はたして、今するべきは朝の挨拶で正しいのか。

 もっと、口にしなくてはいけない言葉があるような気がしたけれど、あいにくアガサの台本は真っ白だ。

 左腕のそれは一度、二度とまばたきを繰り返した。まつげが上下するたびに、ぱち、ぱちと火花が散るような音がする。


「おはようございます……」


 鳥のさえずりような声をかすかに漏らし、またまぶたという名前のどん帳が下りていく。意外なことに朝には弱いらしい。

 ほっとしながら、はたと思い出した。そうだ、磔にされる夢だった。

 まさにこういう格好で。

 両手を押さえつけられ、十字の柱にくくりつけられた。そして目の前で、庭に火を放たれる、そんな悪夢。

 思い出さなければよかった。アガサは顔をしかめた。

 それを、いつのまにか覚醒したらしい、間近から眺める目が二つ。

 視線が通い合ったと思ったら、雲の中へとすぐに隠れる月色の瞳。

 

「…… 申しわけ、ありません」


 消え入りそうな声がした。

 布団に耳を寄せないと、何を言っているのかわからなかった。

 何度か聞き直してやっと謝罪を意味する言葉だと理解する。

 粗末な寝台の上、この貧弱な左腕はけっして快適な睡眠をもたらすものではなかっただろう。

 見えない表情が憤怒を表していてもしょうがないと思い、アガサは心配になる。


「よく眠れましたか?」

「え? は、はい。とても心地よかったです」

「それはよかった」


 一応、枕の役目は果たせたらしい。

 顔から上だけを左に向けている状態で、身体は正面を向いているので、首が痛かった。

 けれど、アガサは振り向く好奇心をおさえこむ。

 同じ磔にされるなら、居心地のいい夢を見たままでいたいから。


「ところで、姫様はどうしてここに?」

「どうぞ、ノリ、と呼んでください」

「はい?」

「ノリ、と呼んでいただきたいのです。難しいでしょうか」


 ためしに、舌の上に乗せて練習をしてみる。

 たったの二音、声にするだけで魂が抜け落ちてしまいそうだ。

 けれど、目の前の人をこれ以上落胆させたくなくて、アガサはなんでもないように了承する。


「いいですよ。ただし、俺のことはアガサと呼ぶこと」


 こういうことは、等価交換が決まりである。

 はたして冬の庭師の名前と銀月の姫君の名前が等価であるかは疑問が残るとして、貸し借りはしない主義だ。

 顔はもう一度布団の下へともぐり、かなりの時間が流れたのちに、うなずく仕草をした。

 

「ところで、ノリはどうしてここに?」

「家出です」


 先ほどの質問を言い直すと、即答が戻ってきた。

 なるほど、とアガサは少し苦笑いをした。

 ここもまだ敷地内ではあるが、姫にとっては、あの城から外に出たという事実だけでその労力に見合うかもしれない。

 布団からはみ出していた眉が、額の中央へと寄る。

 アガサは、手首を締め付けている見えない縄が、きゅっと締まったような気がした。

 

「ええと、笑ったりして、すみません」

「いえ、そのとおりです。わがままで浅はかな小娘が思いついた、くだらない、小さな抵抗にすぎません」


 渋々というふうに、顎の下まで出てきた。その頬は少し膨らんでいる。

 混乱を極めている頭が、一瞬、隣にいる存在すら見失う。

 美しい、人形のような面立ちは身近に見れば、きちんと同年代の少女のもので、軽く混乱する。

 これはいったい誰だっけ。そもそも家出をしたとして、どうしてこんな狭い寝台を背に、硬い腕を枕にして眠っているのか。


「ご迷惑でしょうか」

「ええと……、そうですね」


 銀色の瞳の中に映りこんでいるのは、ぼさぼさの髪と眠気眼の庭師だ。

 ついに自分まで見失いそうになり、アガサは慌てて首を振り違うことに意識を転換させることにする。

 目がダメならば、鼻だ。

 甘い香りだ。ノリが動くたびにふわりと香る。この源はどこにあるのだろう。 

 くんくんと鼻をきかせる。匂いの元を確かめておかなければ気がすまないのは、庭師の悪い習性だった。

 なんといっても、花の楽しみは色と香りだと思う。どちらを重視するかと聞かれると、アガサにとっては、断然後者だ。

 匂いの道筋をたどり、小さな耳元に顔を寄せ、すんと息を吸い込もうとすると、ノリがあわてて上半身を起こした。

 前回の逃亡の反省は活かされているようだ。

 着衣はさすがに肌色を透かすほどの薄さではなく、けれど白のレースがたくさん使われた寝巻きだ。まるで物語に登場する花の妖精のようだなと生真面目に思う。

 衣の純白と対比するように、妖精は見る見ると朱色に染まった。

 窓から朝日が差し込んできている。

 ああ仕事に行かなくちゃ、そう思いながらも、アガサは知らず手を伸ばしていた。

 触れたとき、びくり、と震えたのはどちらだったか。


「ゴホン」


 右腕が咳払いをした。

 つられて、アガサが反対側に向き直せば、にっこりとした笑顔。

 色鮮やかな大輪を咲かせる花も、なかなかここまでの華やかさは持たない。


「おはよう、アガサ」

「おはよう。…… よく眠れたか?」


 義務のように問い返すと、友人はさらに笑った。


「ああ楽しかった。なかなか味わえない寝心地だったよ」

「そうか、よかったな」


(ああ、夢から醒めてしまった)


 やわらかな感触が去っていくのを名残惜しく思いながら、アガサは現実を確認する。

 左腕に姫、右腕に王子。

 ただでさえ狭いベッドの上に三人が川を成して眠っていたのか。


「なんだ、妹よ」

「…… 別になんでもありません」

「なんでもない、という顔ではないが」


 いつのまにか、川岸越しの兄妹戦争が勃発しそうになっている。

 この隙に、とアガサは抜け出そうとして失敗する。

 両腕に縄がついたままだったのを忘れていた。両側から手首をがしっと握られた。 


「だいたい兄さまはずるいのです。勝手に城を抜け出してはこっそり、こんな素敵なところで過ごしていただなんて」

「妹よ、その指摘は的外れとしか言いようがない。確かに俺とアガサは友情を育んだ中だけど、それは偶然であって、街に行くのに動きやすい拠点がほしかったとかそんな利己的な理由じゃない。ただ気に入った、それだけだ。なのになぜお前に教えてやる必要がある」

「兄さまならおわかりでしょう? 外で見聞した知識を自分だけの楽しみにするということがどれほどおろかなことか。あの晩、城の脱出路を記した紙を私の部屋に忘れていったこと、あれまで偶然とは言わせません」

「あれには感謝されこそすれ、責められるとは思わなかったな。結果として、お前はここに導かれたのだろう。なんの文句があるのだ」

「全部兄さまの思惑どおり、というのがまったくもって気に入りません」

「お前はあてがわれた相手なら誰でもいいのか、違うだろう?」

「もちろんです。私は今、私の意志でここにいます。だからどうか、アガサさまは私にお譲りださい」

「いやだね」


 握られている腕がしびれていることに気づいた。

 感覚がないのだ。長時間血が堰どめられていたせいか青白くも見える。


「とりあえず、チタ」

「ん?」

「うるさい」


 ひょいっと体重を傾けてやると、寝台の一番隅にあったチタの身体が床へと落ちた。

 小さな悲鳴が上がり、続けて鈍い音が響いた。

 おそるおそるというように、ノリが身を乗り出した。


「お兄さま…… 大丈夫ですか?」

「ありがとう、ノリはやさしいね。さすがわが妹。それに比べてアガサ」

「なんだ?」

「なんか、態度が違いすぎやしないか?」

「当然だろ。どれだけの付き合いだと思ってるんだよ」


 おなかの上に置かれた白い手を丁重に横へと置きながら、アガサは今度こそ起き上がった。

 靴を履く。作業をするので、新品の靴を履くのをためらいたかったが、何か複数の視線を感じるのでありがたく使わせてもらうことにする。

 太陽はすっかり昇りきっていた。

 カーテンを引き、いつものように透明箱の中へと挨拶をした。

 名前を口にすることは、本人の前なので控えておく。

 水を汲みに行こうと空の桶を手に取った。


「とりあえず、二人とも」


 戸の前で振り返る。

 寝台の上でそろってこちらを見ていた二人。

 並んで見ると兄と妹、血の繋がりを感じる。半開きになった口の形が一緒だった。


「朝です。召使いの間ではこんな格言があります」


 アガサはぱんぱんと手を叩いた。


「働かざるもの食うべからず」






 外に出てみると、心臓が思い出したように動き始める。

 びりりとしびれる。夜の間に冷えた大気に触れて、やっと身体が目覚めたようだった。

 ふと、日差しが途切れた。

 アガサが顔を上げると、そこには立派な顎ひげが。


「ご苦労、さまです」


 かろうじて、頭を下げた。

 顎ひげの隊長さんことマイヤスクドールさんは、目じりに深いシワを刻み目礼したが、前を向いたまま直立している。

 どんな豪華な門番だ。

 いったいここにどんな敵が襲撃をくわだてるというのか。

 雨風を防ぐのもやっとだというのに、矢の一本でも届けば倒壊しそうなのだが。守る兵は大変だった。


 共同の水場に赴けば、すでに朝の支度は始まっている。

 城通いのものならとうに出城している時間帯なので、人の数はまばらだ。

 みんなが昨夜のことのすべてを知るわけではないらしく、あの立派な顎ひげは何なのかと幾人かに質問されて、アガサは曖昧に笑う。

 どの表情も決まって心配そうで、心配してもらえるというのはなんとも居心地のよいものだと感じる。

 家族のいないアガサにとって、先代の冬の庭師に拾われ後継とされたのはとても幸運なことだった。

 だから、姫君を笑う資格は自分にはないのだ。

 この広くて狭い冬の庭だけがアガサの世界で、これからもずっと変わることはないだろうから。





 水汲みを終え、小さなわが城に戻ってみると、甘い香りが消えていた。

 一抹のさみしさに視線で問えば、親父殿の寝所に赴いたと。

 どうしてそういう言い回ししかできないのか。無言で抗議すると、ちらりとも動じずに寝台の上の布団のシワを伸ばしている。


「おまえに嫌われたくないんだとさ。為すべきことを為す、そうだ」

「嫌うことなんてないと思うけど、そっか、行っちゃったのか」


 ほんの、束の間の夢だった。

 お湯をわかすために、すっかり冷えてしまった釜の火を起こす。

 棚には、さまざまな茶葉のコレクションの瓶があり今朝はとっておきを空けるつもりだったが、人数が減ったため、その隣の準とっておきへと手を伸ばす。

 準備を整え、席に着くころにはチタはどこからか取り出したのか、着替えを済ませていた。

 見習い兵士、ではなくこの国の王子の装いだろう。狭くて汚い部屋の中になじまない。

 チタは椅子代わりの丸太に優雅に腰かけ、カップに口をつけた。 


「なあ、王の補佐役を担う気はないか?」

「俺は庭師だ」


 今更ながらの自己紹介をすれば、知ってるよというふうに目の前の友人は顔をほころばせる。


「夢は、冬の庭をどの国の庭よりもいい庭にすることだ」

「壮大な夢だな」


 馬鹿にしているのかと思わせる言動にも嫌味を感じないのは、さすがに民からの人気もある王家の資質で、友人として付き合ってきた年月のおかげだ。

 城で出される料理のどれよりも不味いだろうに、チタはいつも興味深そうにお茶をすすった。

 やっぱりノリにも飲んでほしかったなと、ちらりと思う。


「じゃあ、銀月の姫君と結婚する気はないか?」

「言ったろ。銀月の姫君は誰とも結婚なんかしないって」


 アガサは呆れた。第一、その賭けはもう終わったことだろう、と。


「俺は、冬の庭師なんだ」


 繰り返した。

 冬が終われば春になり、夜になれば空に月があるように、ずっと変わらないこともある。

 チタは一瞬苦笑を漏らすと、立ち上がった。

 召使いの間の格言は、今度から国の指針にしようとかなんとか、どれだけ本気なのかわからない。

 戸を開け、出て行く後ろにそっと顎ひげの隊長さんが従う。

 アガサは言葉が足りなかったと気づいて、声をかけた。


「だから俺ができるのはせいぜい、ときどき美しい庭に友人の妹を招待することくらいだよ」

「充分だ」


 晴れやかな声が青空に響いた。

 王子はひらひらと手を振ると、そのまま春の庭のほうへと消えていった。

 進むごとに、どこから現れるのか従者の数が増えていく。奔放な主の下では苦労も多いだろう。

 そして時折、主が家出をたくらんでしまう気持ちもまた、わからなくもないような気がした。


 空を隠す雲ひとつない快晴だ。アガサは背伸びをした。

 身体が凝り固まってしまっていた。右へ左へとひねり、その場で軽く飛び上がる。

 働かざるもの食うべからず、だ。

 一歩、二歩と踏み出し、ふと足が止まった。

 昨日までの様々なことが頭をよぎり、今後のことにちらりと思いを馳せ、高い城の壁を見上げ、冬の庭を見渡した。

 相変わらずの殺風景、春到来の鐘の音を耳にするのは、まだ遠い道のりとなりそうだ。

 とある国のとある召使いはこっそりと、深い深い、ため息を吐いた。





 おしまい


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