武田家滅亡
当主となった昌幸は甲斐を離れ上野へ向かい、この地で北条方諸将への調略を開始する。昌幸の目的は要衝である沼田城を手に入れることであった。昌幸は父親譲りの調略の才能を発揮して沼田の敵方を寝返らせることに成功したものの、やがて武田と同盟関係にあった北条氏政が中止を要請してきたことで昌幸は調略を辞めざるを得なくなった。
当時東上野は氏政の弟上杉景虎の影響下にあり、氏政は景虎とともにこの地を支配下に置くことを目論んでいた。景虎は越後の上杉謙信の養子であり、謙信死後の跡目争いで争っている最中であった。そのような状況で景虎が東上野を守りきれないタイミングを狙っての昌幸の調略だったのだが、思わぬ横槍が入ったのである。
しかしその景虎は跡目争いで敗れ、上杉家は謙信のもう一人の養子であった上杉景勝が継ぐこととなる。そして武田勝頼は北条との同盟を破棄して上杉景勝と同意を結ぶこととなった。これにより昌幸の上野への調略が再開された。
天正8年(1580年)、昌幸は叔父の矢沢頼綱とともに小川城、猿ヶ京城、名胡桃城といった諸城を調略によって手に入れた。やがて昌幸は沼田城の調略にも手を伸ばし始める。この間大規模な戦闘は起きておらず、昌幸は余計な血を流すことなく目的を遂行していった。
それと同時に勝頼も上野方面に軍勢をもって攻撃を仕掛けてその勢力を拡大した。昌幸は勝頼の軍事行動による威嚇を背景として自らの調略を進めていったのである。
昌幸は沼田城の攻略にあたって、沼田城代の用土新左衛門尉を調略して武田軍の攻撃とともに反乱を起こさせた。それにより北条方であった沼田城は武田家に明け渡され、以降真田の所領となった。
天正9年(1581年)2月、もと沼田城主であった沼田万鬼斎の子である沼田景義が沼田城奪還を目指し動き始めた。昌幸はこれも調略により抑えつけようと考え、景義の叔父である金子美濃守に接近した。昌幸は金子に勝頼からの朱印状を見せて褒美を約束したうえで裏切りを約束させ、景義は金子により討ち取られた。昌幸は景義に味方した沼田衆を厳しく処断している。
その直後に真田により上野での権限を弱められることとなった海野幸光、輝幸兄弟が武田、真田への謀反を企てた。事前にそれを知った昌幸は兄弟を誅殺し、海野氏を滅ぼした。
このような動きの背景には、徳川家康により武田方の高天神城が攻め落とされたという事実がある。武田への信頼が少しずつ落ち始めていたが、逆に昌幸はそのような動きを許さずに封じ込め、上野での支配力を確固たるものとした。
織田徳川の連合軍が甲斐に迫りつつある。勝頼は新たな拠点として韮崎に新府城を築き、その普請は昌幸が担った。しかし木曽義昌、穴山梅雪といった諸将が武田を裏切り、武田は危急存亡の秋を迎える。
新府城では軍議が開かれた。新府城に籠城して敵を迎え撃つか、あるいは別の城に移るべきかといったことが話し合われ、小山田信茂は自身の城である岩殿城へ移るように献策した。それに対して昌幸は天然の要塞である岩櫃城へ移ることを主張する。
「岩櫃城に立て籠もれば長きにわたり敵を足止めにすることができましょう。時間さえ稼げれば形勢はいかんとも変えられます。その間に我が調略と采配をもって敵を切り崩してご覧にいれます。さらに岩櫃城であれば上杉の救援も頼みやすい。これより他に策はありますまい」
勝頼は大いに頷いた。彼は昌幸の才能と忠誠心を信頼している。
群馬県の東吾妻町に行くと岩櫃城跡があるが、ここが天然の要塞といわれた理由は一目で分かる。切り立った断崖絶壁の山の上にその城は立っていた。その山の麓には昌幸が勝頼を迎え入れるために3日で築いたという館の跡も残されている。
だが昌幸の策は受け入れられなかった。武田家中では真田を新参者と見る者も多く、譜代である小山田信茂の策が通ったのである。
しかし小山田信茂は武田家を裏切った。そして天正10年(1582年)、勝頼と一族郎党は天目山にて自害し、戦国に覇を唱えた武田家はあっけなく滅んだ。
小山田信茂は織田信長に頭を下げたが認められずに首をはねられた。一方で真田昌幸は最期まで武田家の存続のために尽力した。後に表裏比興の者として語られる彼であるが、大恩ある武田家に対してだけは忠義を貫ききったといえる。
その武田が滅んだことで昌幸は窮地に立たされた。真田は大名ではなく地方の一豪族に過ぎない。一つ手を打ち間違えれば簡単に滅び去ってしまうであろう。




