第3話「どっちの料理、しよう?」
九州か――
関西か――
トンコツか。
背脂醤油か。
邪馬台国人の胃袋を掴むのは、誰だ?
あと、ラーメン戦争とは別に
初めての海外大使が来ます。イギリスから。
【起】
「異人が参りました」
壱与がそう告げると、卑弥呼は御簾の隙間からすっと顔を覗かせた。
「どこじゃ?」
異人と聞いて、卑弥呼は興味をそそられたようだ。
「まだ、里の入り口とのことです」
気が早いですよ、と壱与が返した。
卑弥呼はつまらない、と顔を引っ込めた。
だが、しばらくもしないうちに待ちきれない様子で卑弥呼が、御簾の隙間からまた顔を覗かせた。
「どんな身なりじゃ?」
「私もまだ見ておりません」
壱与が苦笑交じりに答えた。
「中座させていただけるのであれば、見てまいりますが?」
里の入口では、すでに物珍しさから里の者たちの人だかりができていた。
畑仕事の途中の者。
薪を背負った者。
子供を抱いた者。
壱与が邪魔になるからと里の者たちを追い払っても、彼らは遠巻きにするものの、よりたくさんの里人が集まってくる。
しばらくして、山道の向こうから、二人の人影が現れた。
先頭を歩く男は、ひときわ背が高かった。
陽光に透けるように明るい髪。
なにより、肌が病人のように白かった。
もう一人は、よく見かける現代日本人のようだ。
一瞬、このまま里に迎え入れてよいものか、壱与は逡巡した。
珍しさのあまり、里の小さな子供が思わず一歩、前へ出た。
その子の母親が慌てて襟首をつかみ、引き戻す。
異国の男はその様子を見て、優しく笑ったようだ。
男の笑った口元から覗く歯は、白かった。
自分たちの黄色い歯とも違っていた。
異人の男は壱与の服装を見て、責任者と認めたのか、お辞儀をしてきた。
「初めまして。英国大使のサー・アーサー・ターナーと申します。
イヨさま? とお見受けします。
ヒミコさまに謁見したいのですが」
見事な日本語であった。
お辞儀から身を起こすと、ターナーは190センチの偉丈夫であった。
壱与は思わず腰を引いた。
卑弥呼は御簾の奥で、ターナーを迎えた。
ターナーは連れてきた通訳を介して、丁寧に挨拶をすると、片膝を立てて深く頭を下げた。
卑弥呼も静かに頷いた。
「正座でなくてよいのは、ありがたいです」
日常会話なら通訳を必要としないほど日本語は達者だったが、正式な外交の場である。
言葉の行き違いを避けるため、謁見には通訳を介した。
その通訳は隣できちんと正座して背筋を伸ばしている。
卑弥呼にすれば、その苦行としか思えない正座という礼儀作法を重んじる現代日本人が奇異に思えた。
が、異文化に異を唱えるのも違う気がするので、好きにすればよいとそのまま通訳を放っておいた。
別に非礼ということでもないのだ。
壱与は御簾のすぐ横で、訪問者たちの様子を油断なく観察していた。
異国人というものは、自分たちと違う。
しかし、角はなかった。
牙もなかった。
目は二つ、鼻は一つ、口も一つ。
腕も二本で、足も二本だった。
肌が白いのは、病気っぽくて気の毒だった。
翌朝。
ターナーは好奇心を隠そうともしなかった。
朝一番には田んぼにいたかと思えば、次は鍛冶場にいる。
昼には倉の中を熱心に覗き込み、夕方には水路の脇にしゃがみ込んでじっと流れを見つめていた。
壱与が当面の案内役と買って出た。
ターナーは珍しいものを見つけるたびに足を止めた。
稲の感触を確かめ、農民に頼んで鍬を持たせてもらい、猪の牙を不思議そうに眺めた。
祭器にも興味は示したが、壱与から何かを感じたのか、手を触れず、少し離れたところから畏敬の念を込めて眺めるに留めた。
分からないものがあると、ターナーは壱与の方を振り返って何かと問うた。
壱与が、身振り手振りをまじえて説明した。
納得すると深く頷いて、その都度、持っていた手帳に何かを書き記していた。
卑弥呼が巡察に出ると、英国人が随行を申し出た。
畑を回り、農作業を視察していると、卑弥呼は里の者から豆を渡された。
ターナーにもおすそ分けだ。
ターナーはもらった豆をしばし眺めると、口に入れた。
喉を詰まらせたターナーは、慌てて水を求めた。
その様子がおかしくて、卑弥呼は笑った。
壱与も笑った。
豆を差し出した里の者も笑った。
その夕方には、ターナーは十年前からそこに居たかのように里の者たちに混ざっていた。
同じように魚を焼いて、齧りついた。
肩を組んで酒を飲んで歌った。
ターナーは猪肉、粟飯、どんぐりパンも食べた。
滞在する最後の晩。
里の者たちの輪の中に座るターナー。
里人に酒を注がれ、誰かの話に耳を傾け、楽しそうに踊った。
ターナーの手帳には、たくさんの書き物が残された。
翌朝、ターナーは影の薄い通訳を連れて帰っていった。
何十人の里人が、里の入り口までターナーを見送った。
英国から来た最初の客人は、ずいぶんと名残惜しそうに、何度も何度も振り返り、邪馬台国を去っていったとのことだった。
その日は、里から笑顔が5パーセント減った。
俗にターナー・ショックと呼ばれる現象だった。
【承】
ターナー・ショックから、数日経った頃。
邪馬台国に、九州から一人の料理人がやってきた。
――料理人なら、会ってもよい。
晴日のこともあり、卑弥呼は謁見を許したのだった。
料理人の男は伯方大作と名乗った。
「この国で、トンコツラーメンの店ば開かせてください」
「とんこつ?」
卑弥呼が不思議そうに首をかしげる。
横に控える壱与も、その言葉を知らなかった。
「豚の骨から取った汁で、麺ば食べるとです」
伯方が地の言葉に戻って説明した。
興味を持った卑弥呼は、美味いのかと訊ねた。
「間違いなく、気に入るばい」
伯方は胸を張って言い切った。
なんだか、凄い自信だ。
食べてから、また考えてもいい。
そう思った卑弥呼は、伯方が店を開くことを許した。
伯方が開店予定の家屋を改修していると、珍客が現れた。
――同業者、しかし、トンコツじゃない。
「自分も、ラーメン屋か?」
珍客が伯方の襟元に鼻を寄せ、くんくんと匂いを嗅いだ。
そして、伯方に声をかけてきた。
「そうたい」
伯方は手を止めて珍客を睨みつける。
訛りは、関西っぽい。
天下のドロドロか、背脂醤油か?
「見るからにトンコツやな。
臭すぎるわ。
近所迷惑も考えてや」
――こいつは、敵だ。
伯方は肩を怒らせて威嚇した。
「俺は、伯方大作。
トンコツばもう一度、日本中に広げる男たい」
珍客は薄笑いで伯方をさらりとかわした。
「ワイは、横道安志。
背脂醤油に、人生を捧げた男や」
横道は伯方の店舗予定の家屋の、通りを挟んで向かい側の空き家を指さした。
「謁見があんたの後になって、出遅れてしもた。
おかげで、開店準備も今からやけどな」
伯方は、相手の店舗予定の空き家を見る。
控えめに言ってあばら家だ。
どう急いでも、自分の店舗の方が先に開店できると確信して、高笑いをした。
「こっちが先に開けるばい。
しかも、天下一のトンコツ。
お前が店ば開けても、客は来んばい」
横道は阿呆がとせせら笑った。
「そんなもん、ハンデや」
「ハンデ?」
「先に、客を掴ませたるって言うてんねん」
「そりゃ、助かるばい」
「そら、助かるやろ。
ワイが店を開けたら、そっちは閑古鳥やさかいな」
二人の間では、もう勝負が始まっていた。
まだ一杯のラーメンも作っていないというのに。
やはり、先に暖簾を出したのは、トンコツの店だった。
昼前には、店の前に里の者たちの列ができていた。
初めて見る料理で、里の者も興味津々なのだ。
卑弥呼と壱与も、しれっと列に並んでいた。
白く濁った汁。
細い麺。
肉と葱。
卑弥呼が迷いなく麺を噛み切って一口分を含んだ。
壱与も卑弥呼の真似をする。
美味い、と卑弥呼が目を丸くする。
美味しいです、と壱与も頬を緩める。
伯方が満足げに笑った。
「麺を啜らんと?」
「啜る?」
卑弥呼は気に入ったのか、先ほどより多い分量を噛み切って口に含んだ。
じっくり咀嚼する。
麺にからむ汁が、とにかく濃い。
卑弥呼には、初めての味わいだった。
店の中では、里の者たちが次々と麺を食っている。
とりわけ食いつきがいいのは、里の少年たちと若い男たちだった。
一杯を食べ終えた少年が、まだ名残惜しそうに麺のなくなった丼を覗き込んでいる。
もう少し欲しそうにしている少年に、伯方は替え玉があるばい、と教えた。
「かえだま?」
「麺だけ、もう一杯たい」
少年の目がパッと輝いた。
その後も客足は止まず、夕方を待たずに準備していたスープが底をついたのだった。
「並んどるお客さん、すいません。
今日のスープは、ここまでたい!」
伯方がそう叫ぶと、まだ並んでいた者たちから、残念そうな声が上がった。
申し訳なさそうに、何度も頭を下げた。
しかし、伯方の表情は、充実感で満ちていた。
翌々日。
背脂醤油ラーメンが開店した。
こちらの店にも、朝から行列が並んだ。
一昨日、昨日とトンコツを食べた者も列にいた。
しれっと卑弥呼と壱与も並んでいた。
「一昨日も、ラーメン食べましたよね」
壱与が呆れたように言った。
「食べ比べぬと分からぬじゃろ?」
卑弥呼は至って真面目だった。
背脂醤油のラーメンは、醤油の香りが立っている。
太めの麺。
表には脂が浮いている。
壱与が先にスープを口に含んだ。
「……これも美味しいです」
卑弥呼も汁を飲んで深く頷いた。
「うむ」
「せやろ!」
横道がカウンターの向こうから自慢げに胸を張った。
トンコツで何度も替え玉を頼んでいた少年たちもいた。
「こっちもうまい!」
「トンコツと、全然違う」
「どっちが好きや?」
横道が満面の笑みで少年たちに尋ねる。
目は、笑っていない。
少年たちは顔を見合わせた。
「……両方」
横道の顔が、少しだけ曇った。
その日、背脂醤油ラーメンの行列は、途切れなかった。
昼から夕方を過ぎても、横道は忙しく立ち働き、丼が飛び交った。
若い者たちは、脂の浮いた汁を最後まで飲み干した。
そして、スープがなくなった。
「すんません、今日はここまでや!」
トンコツ店を閉めた伯方が、背脂醤油の店に入ってきた。
「一杯くらいは、よかろうもん?」
「スープはないって、言うたやろが」
それでも横道は、まかない用に残していたスープで、自分の夜食を作った。
そして、その半分を取り分けて、伯方の前に置いたのだった。
「半端やから、お代はいらんわ」
伯方は出されたラーメンを、黙って食べる。
黙って麺を啜る。
汁を飲む。
そして、静かに丼を置いた。
「うまか」
横道は嬉しそうに笑った。
「そら、どうも」
「俺ん次に、うまかラーメンたい」
「誰が、二番やねん!」
横道が即座に突っ込んだ。
翌日。
今度は横道が、閉店後のトンコツの店に現れた。
横道は白い汁を啜る。
細い麺を食べる。
最後まで残さずに平らげた。
「うまいやん」
「そうやろもん」
「ワイの次に、うまいラーメンや。
つまり、日本で二番目や」
「なんば言いよる」
二人は、互いに相手の腕は認めた。
しかし、絶対に譲らなかった。
それからしばらくの間、二軒ともよく繁盛した。
昨日、背脂醤油を食べた少年が、今日はトンコツへ来る。
トンコツで替え玉を頼んだ若者が、翌日は背脂醤油へ行く。
二人の店主は、それすらも互いの客の奪い合いだと思っていた。
邪馬台国の側の者たちは、そこまで深く考えていなかった。
新しくて、
美味くて、
腹いっぱいになる。
誰からともなく、二軒のラーメン屋が並ぶこの通りは、『ラーメン通り』と呼ばれるようになった。
ある日の夕方。
トンコツの店から伯方の声が上がった。
「すいません、今日はスープがここまでたい!」
ほとんど同時に、少し離れたところから横道の声が響いた。
「こっちも売り切れや。また明日な!」
向こうの暖簾も下りた。
二人の店主が、片付けの手を止めて通りへ出る。
今日も、どちらの店も売り切れだった。
横道が腕を組んでねめつけた。
「邪馬台国一になるんは、ワイや」
伯方が不敵に笑った。
「ぬかせ!」
二人は、互いにそっぽを向くと、それぞれの暖簾をくぐって店に戻った。
明日の戦いは、もう始まっているのだ。
【転】
それから、少しして。
二軒のラーメン店から、あの賑やかな行列が少しずつ、消えていった。
客が全く来なくなったわけではない。
昼になれば、腹を空かせた少年たちが駆けてくる。
替え玉と元気に少年が頼む。
はいよと伯方が元気に応じる。
若い男たちも店へ来る。
彼らは丼を受け取ると、勢いよく麺を貪る。
「やっぱり、うまいな」
「そうやろ!」
彼らは食べ終われば、長居せずにすぐ席を立つ。
ラーメン屋とはそういうものだ。
「ごちそうさん!」
「また来いよ!」
少年たちは嵐のように店を飛び出していった。
そして、店の中は不自然なほど静かになった。
伯方は、ぽつんと空いた席を見た。
さっきまでそこには五人の客がいた。
だが今は、誰もいない。
横道の店も似たようなものだった。
若い客が、店へ来る。
よく食べる。
うまいと言う。
そして帰る。
横道はため息をつきながら空いた器を下げ、卓を拭いた。
次の客が、なかなか来ない。
「……なんでや」
横道は力なく呟き、空いた時間で作ったまかないで自分の味を確かめる。
味は、いつも通りだった。
麺も悪くない。
出汁も悪くない。
来た客は今日も、笑顔でうまいと言ったのだ。
それなのに、席が空いている。
伯方の悩みも同じだった。
朝から丁寧に仕込みをする。
店を隅々まで掃除する。
道具を磨く。
一杯ごとに味を見る。
仕事に手を抜いた覚えは一切ない。
客が来れば喜んで食べる。
また来るとも、客は言ってくれる。
だが、そのまたが、なかなか来ないのだ。
「うまかって言いよるとに……」
伯方は、どうにも納得がいかずに腕を組んだ。
そして、二人の店主は図らずも同じことを考えた。
原因は、向こうの店にあるのではないか、と。
伯方は、通りの先を睨むように見る。
背脂醤油。
あの関西弁の男なら。
客に何か良からぬことを吹き込んでいるのではないか。
自分の店へ来る客に、トンコツは臭いだの、重いだの。
あることないこと悪口を言っているのではないか。
横道も、腕を組んで向かいの店を見た。
トンコツ。
あの九州弁のあいつなら。
うちの背脂はくどいだの、醤油が濃すぎるだの。
客を取るためなら、それくらい平気で言いかねない。
翌日の昼。
二人は仕事の合間に、それぞれ相手の店をこっそり見張った。
トンコツの店には、空席がある。
背脂醤油の店には、空席がある。
互いの目が合った。
気まずい沈黙の後、先に口を開いたのは横道だった。
「そっちもか……」
伯方は答えなかった。
向こうの顔が、不安げで、恐らく自分も同じ顔をしていたからだ。
その日の夕方。
壱与がたまたま二軒のラーメン屋の前を通りかかった。
「壱与さま」
右から声が飛ぶ。
「今日はトンコツ、どうね?」
伯方が身を乗り出す。
左からも声が飛んだ。
「いやいや、今日はこっちにしとき!」
横道が手招きする。
壱与は困ったように足を止めて眉をしかめた。
「今日は、卑弥呼様と食べて、その後も祭祀ですので」
匂いものは、と続くところだったが……
「持って帰っても、よかばい!」
「こっちも、持ち帰れるで!」
二人の必死な様子に、壱与はきっぱりと言い放った。
「今日は、煮魚です。仕込んであるので」
ラーメン屋の二人には、それ以上言葉が続かなかった。
壱与は、彼らが黙っている隙にそそくさと歩き去った。
翌日から、二人の店主の客引きはさらに熱を帯びた。
「兄ちゃん、昼まだやろ!」
「今なら、すぐ座れるばい!」
「こっち来たら、ええやん!」
「昨日は、そっち食うたやろ!」
「なら、今日はトンコツたい!」
「なんで、そうなるねん!」
客を間に挟んでまで、二人の男が大声で叫ぶ。
そうまでしても、減ってしまった客足は一向に戻らなかった。
増えないから、焦ってまた声をかける。
二人とも必死だった。
真面目に作っている。
客には美味いと言ってもらえる。
それなのに、開店当時のように売れない。
固定客はついているが、新規の客層が広がっていかない。
二人は、どうすればいいのか全く分からなかった。
とある昼下がり。
山道から、一人の男が里へ入ってきた。
かつて邪馬台国を訪れた、あの英国人、ターナーだった。
ターナーはラーメン通りまで来て、足を止めた。
以前ここへ来た時にはなかった。
向かい合う二軒のラーメン屋。
その前では、二人の店主が一人の客を挟んで揉めていた。
「今日は、トンコツにせんね!」
「いや、こっちや。昨日そっち行ったやろ!」
「昨日食べたけん、今日も食いたくなるったい!」
「なるか!」
挟まれた里の客は、どうしていいか分からず困った顔をしていた。
ターナーは、その珍妙な光景から少し距離を置いてしばらく眺めた。
どちらの店にも、空いている席はある。
けれど、店主たちは通りへ出て、必死に客を呼んでいる。
ターナーは、どちらの店主にも見覚えがあった。
二人とも、日本では評判のラーメン店の店主だった。
以前に食べた、それぞれのラーメンの味を思い出した。
どちらも、美味しかったと思う。
だから、ターナーには不思議だった。
「うーん……」
ターナーは首を傾げた。
美味しい料理を作ることは、とても大切だ。
けれど。
あんなに必死になって、店へ引き込まなければならないものなのだろうか。
ターナーはもう一度、騒がしい二軒の店を眺めた。
そして、疑問は一旦わきに置いて、まずは卑弥呼へ帰ってきた報告をすることにしたのだった。
【結】
ターナーは、卑弥呼への再入国の挨拶を済ませた。
今回の彼は外交官としてではなく、まったくの私用で勝手に来たのだという。
英国の、外交官を辞めてしまった。
この邪馬台国で暮らしたいのだというのだ。
卑弥呼は驚いて、口を押さえた。
壱与は驚いて、つい立ち上がってしまった。
かつて一度この国を歩き、食べ、飲み、里の者たちと心を通わせて過ごした男である。
卑弥呼は、ターナーの定住を快く受け入れた。
「仕事は何をする?
特技があれば、融通しようぞ?」
「実は、考えていることがございます」
それからしばらくして、里の通りに新しく小さな店ができたのだった。
看板には、『PUB』と書かれていた。
卑弥呼と壱与は開店早々に店を訪れて、料理を存分に楽しんだ。
店で出される料理は、決して珍しいものではなかった。
川魚。
猪肉。
芋。
豆。
野菜。
卵。
そして、酒。
邪馬台国で採れたものを、里の者が食べ慣れた形で提供しているだけだった。
畑仕事を終えた男たちが賑やかに話している。
店の扉が開いた。
後から入ってきた男が、奥に知り合いを見つける。
「ああ、ここにいたのか」
「おう。こっち来いよ」
男たちが椅子を一つ詰め、席を空ける。
酒が一杯、注がれた。
語らう者が、また一人増えた。
ターナーは空いた皿を下げ、嬉しそうに酒を注ぐ。
そんなパブの様子を、伯方と横道は申し合わせたかのように、店の外から腕を組んで眺めていた。
「いらっしゃいませ」
英国人は、いつも通りの笑顔で二人のラーメン店主を迎えた。
伯方と横道は酒を頼んだ。
料理も頼んだ。
ただ黙々と食べた。
「……うまか」
伯方はぼそっと呟いた。
「うまいやん」
横道は伯方の顔を見た。
二人は、店内を見回した。
食べ終わった客が、立ち去る気配もなくまだ楽しそうに話している。
新しい客が入ってくると、客同士で少し席を詰める。
また酒が増える。
店主のターナーは、特に客寄せをしていない。
それなのに、自然と人が集まってくる。
伯方が首をかしげた。
「客ば、回さんと?」
「回す?」
伯方の問いに英国人が意味が分からない、と問い返すのだった。
「食べ終わったら、次の客ば入れるったい」
ラーメン屋では常識。
客の回転率が勝負だ。
ターナーは愛おしそうに店内を見渡した。
「皆さん、まだ帰りたくないようですから」
横道も、しみじみと店内を見つめた。
「……飯食いに来とるだけや、ないんか?」
伯方は静かに杯を傾けた。
「場所ば食べに来よると?」
「場所なんか、食えんやろ」
横道が容赦なく突っ込んだ。
「分かっとるたい」
真面目な顔をした横道は、ぽつりと呟いた。
「まさか、あのメシマズの国の店に負けるとはなあ……」
伯方も同意して深く頷いた。
「今日は、こっちの負けたい」
「今日は、な」
「ラーメンなら、負けとらんばい」
「それはこっちの台詞や」
二人のやり取りを聞いていたターナーは優しく笑った。
「私は皆さんの料理が好きですよ。
ときに好みに合わない料理があるだけです」
二人は気まずそうに少し黙り込んだ。
横道はそっぽを向いて頭をかいた。
「……メシマズは、悪かったわ。
こんなうまい料理を作れる舌を育てた料理が、不味いわけないわ」
「悪かった。
あんたの料理ば、うまかって言うたくせに。
その人の国の料理ば、メシマズって貶しよった。
とんだ二枚舌たい」
伯方は素直に頭を下げた。
「お気になさらず」
ターナーは微笑んで二人のグラスに酒を注いだ。
やがて二人のラーメン屋は席を立った。
明日も自分たちの店があるのだ。
二人は勘定を済ませると、店の扉から出ていった。
後ろ姿だけを見れば、ずいぶん仲が良さそうな二人だった。
感傷に浸る間もなく、店内から注文の声が飛んだ。
「マスター、こっち、酒もう一つ」
「はい」
「マスター、皿下げて」
「今、行きます」
「あ、来た来た!」
新しい客が入ってくる。
「こっち、空いとるぞ」
先客が声をかけ、また席が埋まる。
そして、また楽しげな会話が始まる。
少し遅い時間になって、ようやくターナーも遅い夕食を摂り始めた。
それを隣に座っていた客が覗き込んだ。
「マスター、それ何?」
「これですか?」
ターナーがどんぐりパンにはさんでいたものは、邪馬台国の者にとっては、見慣れない料理だった。
薄切り猪肉ステーキ。
炒めた玉ねぎ。
持ち込んだ熟成チェダーチーズ。
マスタードの代用でからし菜の種を炒ったもの。
どぶろくで煮詰めた代用グレイビーソースもどき。
どんぐりパンは香ばしくなるように菜種油をひいたフライパンでカリッと焼いたもの。
「故郷の料理です。
もっとも、材料はこちらのものですから……
英国風、といったところでしょうか」
「うまそうだな」
その客はまじまじと見つめる。
少し間があった。
「分けて?」
客はおねだりしてきた。
ターナーはくすりと笑った。
「いいですよ」
自分の皿から少し取り分けて渡す。
一口食べた客が大きく頷いた。
「うまい。うまいよ」
それを聞いた隣の客も物珍しそうに寄ってきた。
「俺も」
「私も食べたい」
ターナーは自分の皿を見た。
もうほとんど残っていない。
「評判がいいなら……
明日は皆さんに行き渡る分を仕込みましょうか?」
客たちが一斉に喝采の声を上げた。
翌日。
英国風の料理がひとつ、パブのメニューに並んだ。
店内の掲示板には……
『いつも、ではありません。
材料のある時だけですよ。
季節によって、変わります』
そうやって、邪馬台国のパブには、英国風の料理が増えていくのだ。
客を回転させるのではない。
ご飯と酒と、会話を回す。
飯よりなにより――
場の空気が美味いのだ。
――かつての世界最強国家は健在なり。
邪馬台国で一番繁盛している外食産業。
それは、イギリス流パブである。




