第2話「狼が出るぞ」
異邦人は、良いものも、悪いものも連れてくる。
悪意のあるなしに関わらず。
で、あるからして。
何かしら新しいことを持ち込もうとする者には、できる限り卑弥呼がその是非を吟味することにしている。
真面目で誠実なので。
そのようなわけであるから、先のパン祭りで明らかになった卑弥呼の美声を直に耳にしたいと、あわよくばその類まれなる美貌を拝まんとして。
『邪馬台国に朗報』と称して訪問するものが引きも切らなかった頃のお話である。
進言がございます。
そう言って卑弥呼の元に参上した者が、パン祭り以降でも百人はいた。
邪馬台国に実際に役に立ちそうなアイデアだったのは、今のところ一つきりだ。
その知恵者は御簾の3メートルほど手前で片膝をついて、頭を垂れながらそう言った。
知恵者の名は、晴日穂積という。
壱与の下調べでは、期待のパン職人にして、若手急成長株の料理研究家だとのことだ。
――やむを得ないのかもしれぬが、人を変え品を変え、こうもひっきりなしでは、のう……
邪馬台国の役に立たなかったからといって、これまで使えない進言をした知恵者を邪険にしたり、まして処罰したことはない。
国それぞれに事情がある。
母国でうまくいった問題解決法が、他の国ではそもそも問題ですらないことだってある。
善意で訪れた知恵者たちを邪険にするわけにもいかず、かといって聴き取りにかまけて本業の政治、祭祀もおろそかにはできない。
斎宮にして国一番の知恵者である卑弥呼とて邪馬台国から出たことはない箱入りである。
外の世界のアイデアを自分なりに理解するのには時間がかかる。
それが邪馬台国を良くするものか否かの判断になれば、なおさらだ。
壱与にも頼れない。
祈祷せぬ者、食うべからず。
国民の生活を守り、心を安らかに保つことが卑弥呼の使命である。
「どんぐりパンの改良を、提案いたします」
今回は大変わかりやすい進言だった。
飢えを満たすのが第一義であるが、美味しくなるのであれば是非もない。
食事は娯楽でもあるのだ。
「ふむ。今でも美味しいどんぐりパンをか。
それで、何を良くするのじゃ?」
その知恵者は、傍らの袋から、フリップを取り出した。
『どんぐり(粉)
小麦粉
練乳 なければ何かの乳
砂糖 なければ蜜
バター なければ何かの油脂
イースト なければ酒粕
塩
水』
知恵者がフリップをひっくり返すと、出来上がり予想図の写真があった。
ふっくらとした、今にも香りが漂ってきそうなNEWどんぐりパンである。
卑弥呼は平静を装ったが、御簾前に控えていた壱与は思わず唾をのんだ。
「実は、邪馬台国でその材料が日常的に揃うかどうか。
そのお話から確かめたいのです。
それが叶うのであれば、
今より美味しいパンが邪馬台国に溢れることでしょう」
「どんぐりは、もちろんある。
小麦粉……小麦でよいのじゃな。
固いどんぐりと違って粒のままで食えるゆえ、
粥や重湯にしておったが、
粉にするのはどんぐりと同じようにすればできるじゃろう。
練乳が判らぬ。
牛乳……牛は畑仕事に欠かせぬゆえ、そこら中におる。
乳も仔牛がいる母牛がいれば絞れば出るであろう。
砂糖も判らぬ。
蜜というからには甘いものじゃな。
手っ取り早いのは桃や柿であろうな。
干し桃なら、今も在庫はあろう。
バター?
油脂ということは脂か。
パンに使うのであるから、食用の方じゃな。
先月の我らが狩った方の、猪の獣脂はまだ残ってるかの?」
晴日の眉がピクリと動いた。
「恐れながら、
食用と、それ以外の油脂があるというのは理解いたしました。
『我らが狩った方の猪』というのは、違う方の猪があるのですか?」
晴日は料理研究家らしく几帳面な男だった。
いきなり卑弥呼に質問するという無礼に、壱与が慌てて腰を上げた。
卑弥呼は御簾の奥で優しく笑って、よいよい、と壱与を宥めた。
「学者というものは、国を問わずこのようなものじゃ。
余程でなければ、流してもよい。
それで、猪じゃな。
まず猪は、田畑を荒らす。
我らはその猪を退治するのじゃ。
この猪は、新鮮であるゆえ、肉も油脂も食用に回しておる」
晴日は卑弥呼の言葉を手元のノートにメモし始めた。
壱与は『拝聴することに集中しろよ。憶えろよ』と言いたげに睨みつけたが、当の卑弥呼が微笑んでいるので澄まし顔に直った。
「田畑を荒らしに来た猪を、
ときどき我らより先に、狼が狩っていることがある。
狼は腹肉を食すのみで、残りは置いていくのじゃ」
晴日は気になることがあったのか、メモを取る手を止めて顔を上げた。
「……狼?」
「どうしたのじゃ?
狼の食べ残しについては、放っておいては熊が寄ってくる。
とはいえ、食しては我らが腹を壊すこともあるゆえ、
肉は乾燥させて畑の肥料、
油脂は灯火や潤滑剤、石鹸につかうのじゃ」
「……狼?」
晴日は思わず立ち上がって御簾の前に迫ろうとした。
さすがに卑弥呼は眉をひそめた。
そして御簾の前に壱与が立ちはだかった。
「晴日、控えなさい」
晴日はさすがに非礼を感じて、数歩下がって平伏した。
「申し訳ありません。
狼は、私にとって神聖なものでありますので、平にご容赦を」
幼いころに国立博物館で見たニホンオオカミ。
剥製と骨格標本だった。
《1905年の奈良県での捕獲例を最後に絶滅した。
日本の自然、文化、民俗に深く定着してきた》
説明書にはそのような短い文章だけだった。
『人間が酷いことをして絶滅させたんだ。
僕が生き残りを見つけて、保護してあげなくちゃ』
幼き頃の少年・晴日ほづみは心に固く誓ったのだった。
「お前の都合でっ!」
いきり立つ壱与を卑弥呼は優しくたしなめた。
「客人である。
我が国での無礼に気付いて、謝罪もしておる。
ひとまず、落ち着いて座りなさい」
晴日の知る狼と同じものかは保証せぬが、と卑弥呼は断ってから、邪馬台国での狼について語り始めた。
似て異なる、こそが齟齬の元。
異文化交流とは、認識のすり合わせから始まるのである。
兎、鹿、狸、猪、熊。
これらは邪馬台国の敵である。
凶作の年には狩りの対象になることもあるが、野にいる分には、敢えて退治はしない。
だが、田畑を荒らすときは、敵である。
村をあげての退治、時には国をあげての殲滅となる。
一方、狼。
兎、鹿、狸、猪を狩っているようだ。
ときに熊に獲物を奪われるようだが、昔人の言い伝えによると、敵に回すと熊以上に強いらしい。
熊を退治する邪馬台国の民を遠くで眺めていることがある。
あちらも、人のことを敵に回すと厄介だと思っているのかもしれない。
縄張りがあるようで、人里にはなかなか現れない。
現れても、田畑にやってきた害獣を狩る用事が済めば、大人しく引き上げていく。
縄張りの外であれば、人に襲い掛かることはないようだ。
つまり、大変気難しい隣人である。
「……狼を狩ることは、ないのですね?」
「狩りは、こちらも命がけじゃ。
敢えて危険を犯すような真似を、
民にさせる意味もなかろう?」
卑弥呼はご機嫌であった。
教える、という行為は非常に気分のいいものなのだ。
「皆には、わかりやすく狼の縄張りを『神域』、
狼は『神のお使い』と教えておる。
これでわざわざ狼に近づく愚行を避けておるわけじゃ」
内緒じゃぞ、と卑弥呼は御簾越しにウィンクまでして見せた。
「卑弥呼様?」
いつになく愛想のよい卑弥呼に、壱与は目を剥いた。
『おおかみが、でたぞ――――っ』
そうはいっても、神域から、ときどき狼が出てくることはある。
狼は縄張り意識が強い生き物であるが、まだ若い個体であれば好奇心で人間の生活圏に近づくことも稀ではなかった。
邪馬台国では、声の大きい、脚の速い者を『オオカミ番』として村に一人は置いているのだった。
狼が出たのは、卑弥呼のいる里のはずれ、歩いて1時間ほどの山のふもとだった。
「卑弥呼様、大事な御身なのですから、お越しにならずとも」
壱与が何度目ともわからぬ諫言を訴えた。
卑弥呼も壱与も仕立ての良い活動着、貫頭衣に着替えていた。
「狼が来たともなれば、来ないわけにもいくまい?」
卑弥呼は国の指導者が『神の使い』の来訪を迎えるのは義務である、と主張したのである。
本当は堅苦しい織物を着て、堅苦しい謁見の場から飛び出したかっただけなのは、壱与にもわかっていた。
卑弥呼も壱与も箱入りである。
しかし、邪馬台国を治める身であると同時に、それぞれの里や村の様子を窺う最高監督者でもある。
二人とも、見た目によらず活動的で非常に健脚なのである。
その二人の横では、膝に手を置いてぜえぜえと息を上げている晴日がいた。
「旅の疲れが残っておったのかの。
無理をしてはならんぞ。
邪馬台国にて果てたとなれば、国としての資質が疑われてしまう」
里のオオカミ番が壱与の元に参じて、山の一角を指さした。
晴日は持ち込んだ双眼鏡でそのあたりを覗いた。
茶褐色の体毛に覆われた引き締まった体。
犬のようで、そうではない。
ちょうど、こちらを見つめているらしく、双眼鏡越しに晴日は『目が合った』と感じた。
「……ニホン、オオカミ。」
居たのだ、と呟くと晴日はその場で号泣し始めた。
晴日は邪馬台国に泊まり込んだ。
当初の目的、どんぐりパンの改良はもちろん忘れていない。
邪馬台国の早い朝に合わせて日の暗いうちから起きて働いた。
現代人には重い碾き臼を使って小麦粉を作り。
具合のいい甘みの干し桃や柿を探し歩き。
できる限り獣臭の薄い猪脂を試して回り。
仔牛のいる母牛を訪ね歩き。
そして、夜には、神域とされるニホンオオカミの縄張りに足を踏み入れて調査をした。
避けられているのか狼に出会うことはなかったが、その痕跡を調べれば調べるほど、現代日本では絶滅したはずのニホンオオカミと一致するように思えた。
何といっても初めて目にした、ニホンオオカミの野生個体であって欲しかった。
――人間が酷いことをして絶滅させたんだ。
見つけて、保護してあげなくては。
だが、狼は一向に晴日の前に姿を見せなかった。
狼を保護させてください、と晴日が卑弥呼に助けを求めた。
自分だけでは、狼を見つけることさえ叶いそうもなかった。
神域に出入りする晴日を、里の者たちが遠巻きにし始めていたこともあった。
「恐らく現代日本で、
最後の、しかも野生のニホンオオカミなんです。
保護させてください」
晴日にそう陳情されても、卑弥呼は困惑するばかりだった。
「そなたの言うとおりに最後の狼であるなら、そっとしておいてやれ」
卑弥呼には『種を保護する』という発想そのものが理解の外であった。
晴日の言い分はこうだ。
『絶滅させないためには調査も保護も必要である』。
つまり、健康な思想の現代人としては、種を保存するにあたり、環境保全のやり方を知るための『介入』がどうしても必須であると訴えているのだ。
これが邪馬台国の人間には、どのように聞こえるのか。
『現代人が狼を追いやったらしい。
それは人全体で考えた場合に「悪かった」と認めることはできる。
それが、人間が「狼の生き方を管理する」に繋がることがどうにも意味がわからない』
邪馬台国人には『神が人の上に、人が動物の上にいる』という感覚はないからだ。
彼らは必要以上に自然を壊す傲慢さも、
絶滅危惧種を管理するという傲慢さも持ち合わせていない――
譲れぬ想いはいつまでも、平行線を辿る。
これが、異文化交流の一面である。
『おおかみが、でたぞ――――っ』
オオカミ番の叫びに、いち早く卑弥呼は御簾を蹴って飛び出した。
その後を壱与、晴日が慌てて追いかける。
今回はさほど走らずとも良かった。
若い狼は、里のど真ん中に堂々と姿を見せたのである。
悠々と。
しかし荘厳とした佇まい。
凛とした面差し。
若き山の王者の巡行である。
「ひ、卑弥呼様。そのように前にいらっしゃっては……」
狼を遠巻きに眺める里人をよそに、これまた堂々と近づこうとする卑弥呼を、壱与は袖を掴んで懸命に後ろに引き戻そうとする。
主従がそうして悶着している間に、晴日がその脇をするすると狼の元に……
近づけなかった。
唸りこそしなかったものの、牙を剥き出しにした狼に威嚇されたのだ。
怯みこそすれ、晴日が構わずに前進しようとすると、狼はいつでも飛びかかることができるような前傾姿勢を取った。
晴日はやむなく後退りして一定の距離を置くと、狼は直立した姿勢に戻って穏やかな表情に戻った。
「晴日よ。
これが、答えじゃ。
狼はそなたの『家来』でも『子ども』でもない。
庇護したいというが、
そなたは狼を『下の存在』と侮っているのではないか?」
晴日は愕然とするほかなかった。
そんなつもりは、なかった。
ないはずだった。
日本の、日本人の犯した罪を、償いたいだけだった。
だが、自分の思う『保護』とは、卑弥呼のいう侮りがあるではないのか。
互いに尊重するのであれば、違った道を……
晴日が辺りを見回すと、ただ『あるがまま』の邪馬台国人たち……
自分を大人しく観察している若い狼。
この狼は、このところの縄張りへの闖入者を確かめに来たのかもしれなかった。
だとすれば、日頃は人里に来ないはずの狼が降りてきたのは、晴日のせいかもしれない。
狼にも、里の人にも遭わずともよい危険に晒したことになる。
「人が狼を追いやったのなら、それは人の過ちじゃ。
だからといって、
狼を生き延びさせようとする意図があるにせよ、
山を箱庭に見立てて人が狼を囲うのは、どうなのじゃ。
それは逆に言えば、
人がいなければ、その狼は生きていけないのではないかな?
それでも、その狼を保護するというのであれば……
そなたを、邪馬台国の『敵』として、見なさねばならぬが?」
あくまで卑弥呼の言葉は穏やかなものであった。
しかし、『敵』と耳にした里人の雰囲気が、一斉に殺伐としたものに変わったのだ。
真面目で誠実、朴訥で素直な邪馬台国人。
現代日本から文明で大きく後れを取っているからと侮ってはいなかったか。
自然と暮らす人々は、同じく自然と最前線で戦う勇猛な人々でもある。
しばし呼吸を忘れていた晴日は、肩を落としてゆっくりと息を吐いた。
その様子を見て、卑弥呼は里人に警戒を解くように、ゆっくりと手で合図をした。
「無念はあろう。
だが、そなたたちは『間に合わなかったのじゃ』
切り替えて、本業に励むが良い」
卑弥呼に慰められた晴日は、若い狼に深々と一礼をすると、踵を返して元の道を引き返すのだった。
狼は『なんだそりゃ。つまらない。飽きちゃった』と言いたげにとぼとぼと自分の山へ戻っていった。
晴日が邪馬台国に持ち込んだ改良どんぐりパン。
材料をかき集め、製法を試行錯誤で練り上げ、ついに完成したのだった。
現代人にも美味しい、すこし甘くて、ほんのり塩気もあって、千切るとふっくら柔らかい。
卑弥呼もその味と食感を絶賛した。
「ところで、このどんぐりパンは、どのくらい保存できるのじゃ?」
晴日の盲点。
現代日本には、様々な保管方法がある。
邪馬台国には、冷暗所の倉庫を除いてほとんどがない。
「……密封できれば10日ほど、でしょうか。
直射日光や高温多湿を避ければもう少し長めに。
その辺に置いておくと翌日にはパサパサになって……」
晴日の会心作の欠点を聞いた卑弥呼は目が点になった。
壱与はこめかみに手を当てて首を横に振ると小言を繰り始めた。
美味しいのに。
せっかく楽しみにしていたのに。
なぜ日持ちしないのですか。
現代人はどうしているのですか。
ずるい。
「壱与。その辺にしておけ。
日持ちしないパンを、
民の常の糧にするわけにはいかぬ。
だが、晴日のパンだけに、
ハレの日のパンであればよかろう。
つまり、祭りの日に焼いた分を、皆で食べきるのじゃ。
それならば、特別で、良いものじゃろう?」
礼を言うぞ、と卑弥呼は晴日をねぎらうのだった。
――進言がございます。
そう言って卑弥呼の元に参上した者が、パン祭り以降でも百人はいた。
邪馬台国に実際に役に立ったアイデアだったのは、今のところ二つきりだ。
異文化交流。
欠点を補い合うのではなく、
長所を活かし合いましょう、という一節でした。




