第1話「邪馬台国、春のパン祭り」
どんぐりパンを買いなさい。
国宝にも匹敵する斎皿を下賜する。
【序】
かつては、失われた国とされてきた謎の国、邪馬台国。
古代中国の史書『魏志倭人伝』には、その名が記されている。
畿内説、九州説……
学者たちは長らく論じ続けてきた。
にもかかわらず、日本の古代史をいくら掘り返しても、肝心の邪馬台国そのものは見つからなかった。
当然であった。
古代の日本に、存在していなかっただけだったのだ。
邪馬台国は、現代日本の@@市の山奥にある。
あるのだ。
古代にではなく、現在にあったのだ。
二千年ほど時代がずれているという意見もあろう。
そもそも歴史とは、人間があとから編纂したものである。
国の方が、少しばかり歴史より後ろに立っていたとしても。
四十六億年続く地球から見れば、誤差である。
邪馬台国の民は、今も麻の衣をまとい、神に祈り、田畑を耕し、観光客に道を尋ねられれば丁寧に答えてくれる。
誠実な国民性が窺える。
女王である卑弥呼は今日も御簾の奥に座し、神託を降ろす。
宗女である壱与はその傍らで、国務を支えているのだ。
邪馬台国は、現代日本の片隅で、国家を営んでいた。
真面目に。
あまりにも、真面目に。
その邪馬台国は、建国以来最大級の危機に直面することになる。
原因は、現代日本の物価高である。
【起】
軽いものといえば、何を連想するだろうか。
羽毛。
ヘリウムの詰まった風船。
発泡スチロール。
綿。
スポンジ。
紙。
現状の邪馬台国では、ここに国庫が加えられる。
女王卑弥呼の御前に、恭しく壱与によって運び込まれた国庫を収めた壺は、彼女の片手で持ち上げられるほど軽くなっていた。
「壱与よ」
御簾の向こうから、卑弥呼の声が降りてきた。
「壺の中身が、ずいぶん寂しくなってはおらぬか?」
「仰せの通りでございます」
壺を大事にそっと、そうっと床に置いた壱与は、淡々と答えた。
「寂しいというより、もはや孤独でございます」
壺の底には、百枚に満たない古びた銅銭と、どんぐりがたくさん転がっていた。
どんぐりは通貨ではない。
中身の乏しい国庫の壺は、ちょっとした風でも転がっていくので、重石代わりに入れてあるのだ。
卑弥呼が見渡すと――
祭祀用の白布は、継ぎ当てをして大事に使っている。
神託に用いる銅鏡は、研磨する余裕がないためくすんでいる。
神殿の屋根は、雨漏りしているが修繕する費用が足りない。
情けなさに卑弥呼は静かに下唇をかんだ。
邪馬台国は、真面目で正直で誠実な国である。
観光客から法外な入国料を取らない。
細工物も適正価格で売る。
神託も適正価格にする。
消費税も地方消費税も、きちんと税務署に納める。
その誠実さが、現代日本では裏目に出た。
「日本は、物価が高うございます」
壱与は木簡型タブレット端末を見ながら言った。
「電気代、
水道代、
ガス代、
はてはキャッシュレス決済手数料。
すべて、上がっております」
「神託にも、手数料か」
「時代は対面のない、オンライン神託が人気でございますゆえ」
「世も末じゃな」
卑弥呼はしばらく沈黙した。
邪馬台国は農業経済である。
商業経済である現代日本に太刀打ちできるわけもなかった。
今から工業化しても、勝つことなどおぼつかない。
技術で競っても、国庫の危機には間に合わないのだ。
「……観光を強化する」
神託を受けた卑弥呼は、静かに言った。
壱与は深く頭を下げた。
「入国料を上げますか」
「ならぬ。
道を求めてきた者の懐を搾り取る国になっては、
神前に立てぬ」
「では、どんぐり細工を値上げしますか」
「そもそも、ろくに売れておらんじゃろうが」
さすがに神託料の値上げまでは、話題にしない。
壱与には、とうに万策は尽きているように思えた。
だが、卑弥呼の目はまだ死んでいなかった。
「聞くがよい、壱与よ。
現代日本には、春になるとパンを食べることで神に感謝を捧げ、
その貢献の高い者どもに、白い皿を授ける大きな祭りがあるそうな」
「皿を、ですか」
壱与の表情がわずかに改まった。
恩賞というからには、ただの皿ではあるまい。
「そうじゃ。
現代人は毎年、競うように務め、
証として白き皿を求めるというぞ」
壱与は、少し考えた。
「祭祀ですね」
「そう。我らの得意分野じゃ」
皿職人は、卑弥呼の命を受け、長い沈黙の末に頷いた。
「女王のご命令とあらば、焼きましょう」
その声は穏やかだった。
だがその表情には不満がありありと浮かんでいた。
「済まぬ」
卑弥呼は言った。
「国を支えるためじゃ」
「……承知しております」
皿職人は深く頭を下げた。
敬愛する女王からの命である。
断るなどありえなかった。
その日から、職人は窯に張り付くこととなった。
壱与がパン祭りの告知文を整えている頃。
邪馬台国の民は、材料となるどんぐりを懸命に集めていた。
邪馬台国のあちらこちらで祭りの旗が掲げられた。
国を挙げて春を迎える準備を始めたのだ。
自分たちの、美味しいどんぐりパンで祭りを盛り上げようと。
苦しい台所事情であっても、働く喜びと、新しい祭りを迎える高揚感があった。
春とともに、邪馬台国に笑顔が戻ってきたのだ。
『邪馬台国、春のパン祭り
@月@日より
一.邪馬台国謹製どんぐりパンを買いなさい。
一つごとに『斎なる証文』を与える。
二.尽力して『斎なる証文』を集めた者には、
国宝にも匹敵する斎皿が、
畏くも女王の名において下賜される。
具体的には証文三十枚である。
三.斎皿は、女王の食膳にのみ用いられる清浄な祭器である。
まれに壱与が功を認められた際、下賜される特別の皿である。
皿を焼くのは、我が国最高最強の職人である。
この祭りへの参加には、国籍や身分といった条件を設けない。』
邪馬台国としては、身を切るような大盤振る舞いであった。
【承】
パン祭りの初日。
物珍しさからか、邪馬台国の参道は、久しぶりに現代人の歓声で満ちていた。
「本当にやってた」
「邪馬台国でパン祭りって」
「女王様の斎皿、ちょっと見てみたいよね」
観光客たちは笑顔で、邪馬台国謹製どんぐりパンを買っていったのだ。
一抹の不安を抱えていた邪馬台国の民は、ほっと胸を撫で下ろした。
壱与もまた、告知文を握ったまま、御簾の方へ小さく頭を下げた。
――卑弥呼様は、正しかったのだ。
そう思えた。
観光客が、どんぐりパンを口に入れるまでは。
「…………」
観光客はどんぐりパンを噛んだ。
噛み切れない。
もう一度、噛んだ。
首をひねり、水を口に含んでみた。
何かが咀嚼を拒否している。
同行者がどんぐりパンの感想を訊ねた。
「どう?」
「……歴史を感じるというか」
それはもちろん、美味しいという意味ではなかった。
一つなら、食べられる。
物珍しいし?
話の種にもなる。
邪馬台国の民が真面目に作ったものだと思えば、それなりにありがたみも感じる。
「俺は、一つで腹いっぱいかな」
中には二つ目に挑戦する勇気ある者もいた。
「証文、二枚目です。
斎皿まで、あと二十八枚でございます」
係員が丁寧に告げると、客は静かに笑った。
「二十八……」
その勇者の顔から春が消えた。
どんぐりパン。
一つならそれなりに思い出になる。
二つでも、十分に武勇伝になる。
三つ目からは、何になるのだろう?
これを、三十個……
邪馬台国の民にとっては、美味しいどんぐりパン。
現代日本人にとっては、甘さも塩味もバターの香りもない。
それが、とても硬い。
卑弥呼の、誤算であった。
それでも物珍しさから、初日はそこそこの数が売れた。
二日目も、前から話題に上っていたので少しは売れた。
三日目には、観光客がまばらになった。
そして、四日目。
参道に、春の風だけが通った。
さまざまな商品を並べた平台の上には、パン祭り目玉であるどんぐりパンがたくさん並べられていた。
整然と。
朝から一つも売れることなく。
さすがに不審に感じた壱与は、木簡型タブレット端末で評判を確かめた。
そこには現代人たちの生の声が溢れていた。
《邪馬台国のパン祭り、斎皿は欲しいんだよ?》
《どんぐりパン、一個ならなんとかね?》
《二個目で、人生を見つめ直すことができる。
俺、何をしているんだろうって》
《あれを三十個は、魏志倭人伝より難解モード》
壱与は、唇をわなわなと振るわせて、静かにあくまで静かに端末から目を逸らした。
――現代人が悪いわけではない。
どんぐりパンが悪いわけでもない。
ただ、誠意が、まだ正しく伝わっていないだけなのだ。
一粒だけ涙をこぼすと、壱与は拳を握り締めた。
――卑弥呼様の御提案を、失敗にするわけにはいかない。
「私が、伝道師になります!」
壱与は襷を取り出して、麻の衣の袖をまくった。
「壱与?」
御簾の向こうで、卑弥呼の声がわずかに揺れた。
「はい。私が……
伝道師、祭礼の広報役を務めます。
現代人に、誠意をもって直接、祭りの意義を伝えます」
「無理をするでない」
「これが、宗女の務めと覚悟でございます」
その翌日から、壱与は祭り会場の入口に立ったのだった。
清潔な麻の衣をまとった身で、背筋をピンと伸ばして、訪れた観光客にどんぐりパンを両手で差し出す。
「邪馬台国謹製どんぐりパンでございます。
お一ついかがでしょう」
やや震えるその声、慣れない棒読みで。
使命感に緊張して、表情は硬く。
それでも態度は丁寧で。
それは、現代人から見ると、冷たい感じに見えた。
「だが……それが、良い!」
その冷たさが、なぜか刺さった観光客たちだった。
壱与は齢十七歳。
涼やかな目元。
聡明な面差し。
素朴ではあるが、凛とした佇まい。
早い話が、美少女だった。
《邪馬台国で、巫女さんにどんぐりパン渡されたでござる》
《表情が動かない。
だが、これがなかなか強いのだ》
《壱与さま、塩対応たまらん。クル!》
《パンの味はあんまりだけど、
壱与さまは尊いのです。
これは、世界の真実》
《どんぐりを渡されたいだけの人生だった。
俺は人生が、かなった》
閑古鳥が鳴いていた祭りの流れが、変わった。
まばらにしかいなかった観光客は、その日のうちに百人を超えた。
それからというもの、一日に五百人を超えることも珍しくなくなった。
どんぐりパンを作っても作っても追いつかない忙しい日々がやってきた。
邪馬台国の民は、嬉しい悲鳴を上げたのだった。
一方、壱与は困惑していた。
「女王様。
私ごときがどんぐりパンを渡すだけで、
なぜ現代人どもは、喜ぶのでしょう」
「貴方が宗女だからです」
「宗女だから」
「そうです。
神に仕える者から供物を受ける。
祭祀として、なんら不思議はありません。
それが、喜びとなるのです」
「なるほど」
忠節な壱与は、それであっさりと納得した。
もちろん、卑弥呼とて黙って見ていたわけではない。
国を支える礎は、女王である。
この祭りを提案したのも、女王である。
民の先頭に立ち、国の威厳を示すのは当然である。
壱与ばかりが現代人に褒めそやされていることに嫉妬したわけでは決してない。
断じて、ない。
卑弥呼は祭りの場にも簡易な御簾を設け、その奥に座することにした。
姿をすべて見せることはしない。
それが女王の威厳というものだ。
ただし、御簾の位置は、観光客から声が届きやすい場所にした。
宣伝ではない。
神威の顕現を身近にしたのである。
壱与の手からどんぐりパンを受け取ることをなおも迷っている観光客に、卑弥呼は御簾の奥から神託を降ろした。
「買いなさい」
そう言葉をかけられた観光客は、感激に打ち震えた。
卑弥呼もまた麗しき佳人である。
声からも神々しいまでの嫋やかさを感じさせる貴婦人である。
御簾越しにも洗練された清淑な輝きを放ってしまうのだ。
早い話が、絶世の美女だった。
現代人はこぞって褒めそやした。
《買いなさい、いただきました》
《声が艶やかすぎる》
《御簾越しなのに何という凄まじい存在感なのか》
《見えないのに、美しさの圧が物凄い。
これが、本物なのだ》
《卑弥呼様の方から、神聖な吐息が零れてくるのがわかる》
こうして、どんぐりパンは、飛ぶように売れ続けた。
斎なる証文は、当初に用意した分ではとても足りず、増刷され続けた。
壱与は、清楚系アイドルとして崇められた。
卑弥呼は、神秘系ディーヴァとして崇められた。
邪馬台国の民は、大いに喜んだ。
自分たちのどんぐりパンは、現代人に受け入れられるものだった――
ただし、現代人の多くは、どんぐりパンそのものについては……
「素朴な味」
それでも売れれば、国庫は潤う。
二人の重鎮の吸引力により、邪馬台国の国庫は危機的状況を乗り越え、潤い始めた。
祭祀用の白布は、新調することができた。
神託に用いる銅鏡は、きれいに研磨されるようになった。
神殿の屋根は修繕が済んでもう雨漏りしなくなった。
卑弥呼は、御簾の奥で小さく息を吐いた。
「壱与よ。
祭りとは、よいものじゃな」
「はい。民に笑顔が戻りました」
「皿職人にも、無理をさせておる。
折を見て、労わねばならぬ」
「はい。
本日分の斎皿の在庫が心許ありませんので、
手配するついでに、私が様子を見てまいります」
壱与は深く頭を下げた。
【転】
壱与が窯場の入り口に立つと、そこには熱気が満ちていた。
燃え盛る窯。
積み上げられた薪。
乾かされている素地。
焼き上がりを待つ皿。
割れてしまった皿。
歪んでしまった皿。
だが、肝心の皿職人の姿がなかった。
いつもなら、窯の前で背筋を伸ばし、無言で土と火に向き合っている男の姿が見えるはずだった。
壱与は声をかけてみたが、一向に返事はなかった。
よく目を凝らすと、奥の土間に投げ出されたように人の脚があるのが見えた。
壱与は土間に駆け寄った。
土間には、倒れ伏した皿職人がいた。
幸いなことに皿職人の息は、まだあった。
ただし、顔色は周囲にある土器よりも悪かった。
「……まだ」
皿職人が、かすれた声で言った。
「まだ皿の数が……」
「もうよいのです」
壱与は思わず叫んだ。
「もう、焼かなくてよいのです」
「女王の……ご命令とあらば」
「女王の命令です。今は、休むのです」
壱与は責めなかった。
彼の誇りを、壱与は知っている。
斎皿は、女王の食膳に用いる清浄な祭器である。
かつては、壱与ですら容易には賜れなかった。
その皿を、功績もない現代人のために焼く。
職人に不満がないはずもなかった。
それでも、彼は焼いた。
それが女王の命であり、国のためと信じたからである。
「大変なところ、申し訳ございません。
出来上がった皿は……」
壱与は、震える声で訊ねた。
「本日、納められる斎皿は、九枚です」
壱与は九枚の斎皿を見つけて布で丁寧に包むと、それを小脇に抱えて踵を返した。
「女王様」
壱与は御簾の前に跪いた。
らしくもなく息が切れていた。
「何事じゃ」
卑弥呼の声にも、ただならぬものを察した緊張が滲んだ。
「皿職人が、倒れました」
御簾の奥で、卑弥呼の呼吸が止まった。
「……生きておるか」
「はい。ですが、これ以上、窯に立たせることはできません」
「もちろん。すぐに休ませよ」
「すでに手配しました」
「……それで、斎皿の在庫は」
「本日下賜できるものは、九枚のみでございます」
気まずい沈黙が支配した。
そんな中、神殿の外からは、ゆうに五百人を超える現代人たちの声が聞こえてくる。
「ようやく、三十枚集めた。
今日こそ、斎皿もらえる」
「壱与さまから、もらえるかな」
「卑弥呼様の神託、楽しみ?」
卑弥呼は、目を閉じた。
民はこぞって働いた。
壱与は最前線に立った。
職人は倒れるまで焼いた。
だが、斎皿はない。
どんぐりパンを三十個食べた現代人が、今か今かと斎皿を心待ちにして列をなしている。
約束は、果たさねばならない。
「すぐに、白い皿を買ってくるよう手配いたします」
壱与が低い声で言った。
苦渋の進言であった。
卑弥呼は、即座に首を横に振った。
「ならぬ」
「しかし、卑弥呼様」
「女王の名において下賜すると約束したものは、斎皿じゃ」
卑弥呼の声は静かだった。
しかし、彼女の視線は鋭かった。
「斎皿とは、清められた器。
これを下賜すると決めたのじゃ。
約束は、邪馬台国の誠意そのものじゃ」
「現代人は、そこまで考えていないと思います」
「たとえそうだとして、こちらが誠意を示さない理由にはならぬ」
壱与は、唇を引き結んだ。
その通りだった。
卑弥呼の言い分が正しい。
だが、ないものはないのである。
「約束は破れぬ」
卑弥呼は言った。
「下賜の格も落とせぬ」
声が、わずかに震えた。
「だが、斎皿はない」
御簾の奥で、長い沈黙が続いた。
壱与は待った。
女王の言葉を。
その神託を。
やがて、卑弥呼がゆっくりと顔を上げた。
「皿とは、器である」
「はい」
「そして、人にもまた、器がある」
壱与の表情が凍った。
「卑弥呼様?」
「斎皿に代わるものとして、穢れなき器を持つ者という、位を授ける」
「功なき現代人に、位を?」
「……言いたいことは、分かっておる」
卑弥呼の声からは、苦みが伝わってくる。
「分かっておる。
いかにも業腹である。
国の秩序に、外の者の名を刻むことになる。
後の世の者に謗られるかもしれぬ」
「ならば」
「だが」
卑弥呼は遮った。
「約束を反故にはできぬ」
壱与は、うつむいた。
女王の言葉であった。
苦しみながらも、逃げない者の言葉であった。
「斎皿の代わりとして、斎皿位を授ける」
卑弥呼は言った。
「私が、皆に告げよう」
「卑弥呼様」
私が、と壱与が前に這い寄りかけた。
「責任者は、私じゃ」
強い決意の言葉とともに、御簾が静かに上がった。
神殿の前に集まった現代人たちは、女王の姿を見てどよめいた。
現代人が初めて目にする卑弥呼は、神々しく、寒空の月のように凛としていた。
だが、その顔色はわずかに青い。
壱与は、傍らでそっと控えていた。
「迷える者たちよ」
卑弥呼の声が響いた。
「斎皿は、尽きました」
ざわめきが走った。
「え?
皿、ないの?」
「三十枚集めたんだけど」
「パン、きつかったんだけど
今日も朝から食べてきたのに」
現代人たちの声には、明らかな不満が混じっていた。
当然の責めに卑弥呼の胸が、わずかに痛んだ。
斎皿を下賜すると約束したのは、邪馬台国である。
そのために証文を集めよと言ったのも、邪馬台国である。
そして、彼らは約束通り集めたのだ。
「安心せよ。邪馬台国は約束を違えぬ」
卑弥呼は、懸命に崩れそうになる姿勢を保った。
「斎皿に代わる恩賞として、斎皿位を授けます」
現代人たちは沈黙した。
「……お皿じゃないの?」
「位です」
壱与が答えた。
「売れる?」
「売買してはなりません」
「じゃあ、何に使うの?」
沈黙が落ちた。
邪馬台国側からすれば、斎皿よりもさらに身を切るような恩賞である。
だが、現代人からすれば、皿の代わりに身分を渡されても、意味がない。
「皿が良いなあ」
「斎皿、楽しみにしてたのに」
不満は、怒号にはならなかった。
だが、確実に沈んでいた。
卑弥呼は、御簾のない場所で立ち尽くした。
今すぐ、違うのじゃ、と言いたかった。
これは安易な代替品ではない。
位とは、邪馬台国の秩序に名を刻む重い恩賞なのだ。
しかし、そう言えば言うほど、皿を渡せない事実だけが際立つ。
そのとき、列の後方にいた古代史系動画配信者が、小さく呟いた。
「待って。
位ってことはさ。
俺たち、ただの観光客じゃなくなるってことだよな」
周囲の視線が集まった。
「どういうこと?」
「邪馬台国から、公式に身分をもらうってことじゃん。
つまり、公式ファンクラブのメンバーみたいなもんだよ」
その言葉に、数人が反応した。
「メンバー?」
「チャンネルメンバーみたいな?」
「そんなとこ……
いや、もっとすごい。
現存邪馬台国の公式メンバーなんだぞ」
現代人たちの目が、少しずつ変わっていく。
並んだうちの一人が、恐る恐る手を上げた。
「質問なんですけど、
あの、位を授かったら、
ただの観光客とは違う扱いになるんですか?」
卑弥呼は、答えに詰まった。
違う。
違うのじゃ。
そう言いたかった。
だが、褒美の斎皿を渡せなかった。
その代わりに、位を授けると言った。
ならば、何も変わらないとは言えない。
いや、位とは名誉。
何かが付随するとは考えるものではないのだ。
しかし、本来渡すはずだった斎皿を用意できなかったという引け目が卑弥呼の口を重くしていた。
「……そ、そうじゃな」
卑弥呼の声が、わずかに揺れた。
「ほんのわずかに、じゃが」
現代人たちの空気が、期待に満ちたものに変わった。
「じゃあ、神殿に近づけるんですか?」
「祭礼の……妨げに……
ならぬ範囲であれば、な」
「もちろん。
任せてください。
それと、壱与さまの近くにも?」
「壱与が、授与を行うゆえ……」
壱与の体がビクンと震える。
「卑弥呼様にも?」
卑弥呼の肩がわなわなと震えている。
「御簾の前まで、じゃぞ……」
壱与が目を見開いた。
破格過ぎはしないかと。
だが、公の前で女王の決めたことなのだ。
もはや口を挟めることではなかった。
それでも……
「卑弥呼様」
卑弥呼は、小さく首を横に振った。
今さら、違うのじゃ、とは言えなかった。
「メンバー特典じゃん」
誰かが言った。
「限定エリア入場権だ」
「壱与さまのお渡し会だ」
「卑弥呼様にスーパーチャットできる?」
「奉納という意味であれば……」
「推しに、スパチャできるんだ!
ヒャッホ―――イ」
「それなら、斎皿位、ほしい!」
「俺も!」
「皿も欲しいけど、こっちの方が凄い!」
「パン三十個、俺の顎に、意味あった!」
沈んでいた空気が、一気に熱を帯びた。
斎皿位は、皿の代替品ではなく、推しへ近づくための資格になったのだ。
邪馬台国側からすれば、身分である。
現代人側からすれば、公式メンバー特典である。
壱与は、控えていた係員から急ごしらえの木札を受け取り、それを一枚ずつ並んだ現代人に授与していった。
現代人は、両手でそれを受け取り、深々と頭を下げた。
中には涙ぐむ者もいた。
「ありがとうございます。
来月も、メンバー継続します」
「黙って引退しないでくださいね。
もしも引退するなら、
半年は前から告知をお願いします。
卒業ライブには、渾身のスパチャをしますから」
卑弥呼は御簾の前に立ったまま、呆然としていた。
斎皿を渡せなかった引け目。
位を授けた苦渋。
現代人たちの歓喜。
奉納金の山。
すべてが、彼女の中でうまく結びつかなかった。
――現代人とは、分からぬ。
【結】
初夏を迎え、『春のパン祭り』は好評のうちに幕を下ろした。
あの狂騒が嘘のように静かな日々が戻ってきた。
御簾の向こうで卑弥呼は目を閉じた。
「現代人とは、分からぬ」
もはや国庫の危機は去った。
今でも現代人たちはスーパーチャットと称して奉納し続けてくれるからだ。
「だが……国庫は潤い、現代人は喜んでおる。
ならば、よい祭りだったのだな」
働き過ぎた皿職人は、未だに体調が回復せず、しばらく皿という字も見たくないと申し出てきた。
「もうじき、夏越祓だ」
卑弥呼は準備を怠ることのないよう、壱与に申しつけた。
邪馬台国では、本格的な夏を迎える直前の最も危険な時期に国を挙げて神に祈りを捧げる。
その一方で……
《また、お祭りが始まるでござる》
《間に合わなかった拙者にボーナスタイムでござるな》
なんでも祭りにしてしまう現代日本人。
彼らを呼び込んだことを後悔しても……
後の祭り。
お後がよろしいようで。




