19時間目 収束
理事長直々の発言による、グループエントリー締切間際の試験規定改定。
それは当然ながら学校全体を巻き込む波乱となり、急きょ調整作業のために二年生の教師全員が駆り出されるという非常事態になった。
今日の授業は午前切り上げの全自習授業。その自習授業も、次に控えている各授業の課題や試験勉強に取り組んでいて構わないという、なんともお粗末な指示しか出されなかった。
つまり、あらかた課題を片づけている人間にとっては暇でしかなく…。
ぼんやりと窓の外は眺めていたユキは、あることを思い立って席を立つ。
向かったのはトモの机だ。
「トモ。お前、やっぱちょっと殴らせろ。」
「……へっ⁉」
遅れて反応したトモがぎょっとして、ユキから逃げるように慌てて席を離れた。
「え…え……なんで? おれ、なんかした?」
真っ青になって壁際へと逃げていくトモ。
「ほほう? さっきあんだけ公衆の面前で人をピエロにしてくれて、その自覚はなしと?」
「だ、だってあれはユキの―――」
ガンッ
次の瞬間、ユキの拳が問答無用でトモの耳元をかすって壁に激突した。
「ひえ……」
トモがひき潰された蛙のような悲鳴をあげる。それとなく様子を盗み見ていた周囲も、ユキが漂わせる怒りのオーラに飲まれて硬直した。
「つべこべ言わず来いっつってんだよ。」
「はい…」
間近から地を這うような低い声で命令され、トモはもうそう頷くしかない。
ユキはトモのネクタイを引っ張り、堂々と教室を出ていく。
さすがにあんな騒動があった後だ。聞き耳を立てについてくるような愚か者はいないらしい。
一応屋上に着くまで人の気配を敏感に読んでいたユキは、それを確信するとトモのネクタイから手を離した。
「うえっ…苦しかった……ユキ、容赦なさすぎ…」
「ああ、ごめん。自分でMって言うくらいだから、このくらいご褒美かと思ってたわ。」
「さすがにそこまでの境地には至ってないよ⁉」
「ふぅん。」
ユキは特に興味もなさそうにそう返し、屋上の柵に寄りかかって息を吐いた。
そして。
「トモ、サンキューな。」
建前とは正反対の言葉を彼にかける。
「ぶっちゃけ、さっきの作戦はお前だけが頼みの綱だったからさ。ちゃんと乗ってくれて助かったわ。」
ユキは疲れた微笑みを湛えた。
それは大きな仕事を終えた後のような、疲れながらも満足した笑顔だ。
そう。レードルとの掛け合いは生徒たちに痛烈なインパクトを焼きつけるためのパフォーマンス。賭けなんて、初めからこちらの負け戦だ。
「よ…」
トモが唇を震わせる。
次の瞬間。
「よかったー! やっぱそういうことだったんだよね⁉ 殺気がマジだったから、焦ったあぁ!」
がっくりとその場にしゃがみ込んだ彼は、心底安心したように肩を落とした。
「ユキから前にヒントだけは聞いてたから、すぐにピンと来たんだよ。」
「そんな顔してたわ。だから、わざと大袈裟にオレを笑い者にしたんだろう。それくらい分かってるよ。」
ユキは肩をすくめる。
レードルに協力を頼んで決行したこの作戦では、あくまでも自分がナギを嫌っているという立場を貫き通さなければならなかった。
そしてこの賭けが初めから負け戦だと分かりきっている以上、周囲には自分のことを、自分の策に溺れた滑稽な策士に見せなければならなかった。
当初の打ち合わせでは自分を叩く役はレードルがやってくれる手はずだったのだが、いち早く状況を察したトモがその役を買って出てくれたので助かった。おかげで会話の流れも仕草もごくごく自然だった。
ほとんどの生徒たちは余計な制度を提案しやがってと不満を持ちつつも、それの際たる被害者となったのが提案者の自分であることをいい気味だと思っていることだろう。
そもそもこの制度は自分やナギのような次元違いの成績優秀者に取り入ろうとした馬鹿が痛い目を見るだけで、自分の学力を大幅に越えない常識の範囲で成績優秀者の威を借りるくらいならば、そこまで大きなハンデは課されない。
そういう上乗せ率になるよう、レードルと細かく調整した。実際に成績ノルマが更新された時、賢い連中はそれに気づくだろう。
この制度を障害と見るか好機と見るかは、その人の捉え方次第である。
とまあそんな感じで、規定改定における不満は自分が道化になることで回収した。そして自分は強制的に、試験終了まではナギと関係を保ち続けなければいけないことになる。
仮に試験終了後もナギが自分の周囲にうろついていたとして、その頃にはほとんどの生徒たちが自分たちの関係に違和感を持つこともなくなっているだろう。むしろ逆に、ナギが自分にくっついている方が都合よくなっているはずだ。
だって下手にナギに興味を持たれて彼に巻き込まれてしまったら、いつ成績ノルマ引き上げ制度の餌食になるとも限らないのだ。
できることならナギの手綱は握っておいてくれ。
今後の生徒たちは自分やトモに対してそう思うはずだ。
そういう目先の利益しか考えていない輩はナギにまとわりつく必要もないし、そもそもナギ自身もそんな不届き者には興味すら持つまい。この壁を越えてナギに近づく奴がいるならば、そういう相手のことはちゃんと見てやればいい。
「本当にお見事です。確かにニックたちを黙らせながら、ごく自然にナギと友達でいれる方法だよ。」
トモは嬉しそうに笑い、次に地面に尻餅をついて空を見上げた。
「あー、でもだからって、引っ張り出してくる人が理事長だとは思わなかったぞ~。ふざけて見せてたけど、内心すんげぇビビってたんだからな‼」
「知ってる、知ってる。素でびっくりしてたもんな。立て直しの速さはすごかったと思うよ。」
白状すると、トモがあんまりにも愉快な顔をするものだから、机に伏せているのをいいことにちょっと笑わせてもらっていた。
「くっそ、あれは卑怯だよー。ネットワークの広さなら負けないって思ってたのに、あんな大物出されたら勝ち目ないじゃんかー。ジョーカーもいいところだよ? ほんと、あんな人といつの間に仲良くなってたのよ。」
「いや…あの人には、案外お前らもよく会ってるはずなんだけどな。」
極限にひそめた声でユキはぼやく。
「え、なんて?」
「なんでもねぇよ。」
ユキは首を左右に振り、大きく肩を落とした。
トモの表情からも分かるように、今回の策は大成功に終わった。
終わりはしたのだが、一つ文句があるとすれば…
「あの性悪じいさんめ…余計なことを次から次へと……」
ユキは不機嫌そうな顔で腕を組む。
あの計画に想定外があったとすれば、周囲に見せる自分とレードルの関係の深さだ。
事前の話し合いでは、自分と彼は今回の事件においてのみ利害の一致で手を組んだだけ。入院していた時に事情聴取に来た彼と会い、話が合ったから数度関係を持っただけだという風を装うはずだったのだ。
『―――ユキ?』
ナギやトモと違って彼に君づけで呼ばれなかった時点で違和感はあった。
そしたらトモに乗ってまあ話を全然違う方向に持っていきやがって。何が何度も食事をした仲だ。あれはまだ、自分がウォルトの正体に気づいてなかった時のことじゃないか。
とどめの一撃が、あんな大勢の前で堂々と自分を可愛がっていると断言してしまったこと。挙句の果てにこの夏でナギと同率一位になっていたことを暴露された時には、思わず「この性悪じじぃが…」と暴言を吐きそうになってしまった。
自分がレードルに食ってかかる様子に周りはドン引きしていたが、自分としてはあれくらいじゃ全然文句を言い足りないくらいだった。
ああ、確かにレードルの挑発には乗ってやったとも。
望んで得た力なら使え、と。
そう煽るものから、ちゃんと協力を依頼したじゃないか。
でもだからといって、まだ理想である安定を捨てたつもりはなかったのに。
(まあ…オレのこと、守ってくれたんだろうことは察するけどさ……)
国内でも屈指の権力者であり、教育業界のトップに君臨するレードルに目をかけられていること。そしてそれを彼本人の口から言わせたことは、何にも勝る強い武器だ。しかも自分に彼が直接協力したという事実がある以上、大抵の人間は自分にうかつに手を出せなくなったことだろう。
しかしその分、今後彼にどんな難題を吹っかけられるのやら。本気で将来は彼の駒としてこき使われるんじゃないだろうかと、今から不安で仕方ない。
もしかしたら、レードルが素直に勧めてくれている内に、ダニーの研究室の件を前向きに検討すべきなのかもしれない。
ぶつぶつと文句を連ねているユキに、トモは複雑そうだった。
「ユキさぁ…。校長先生のことは狸親父って言うわ、理事長のことは性悪じいさんって言うわ…本当に勇者だな。」
「まあ、色んな奴に怖いもの知らずとは言われたよ。」
「ははは、確かに。……でも、それがおれらには真似できないユキのいいところ。」
ふと和らぐトモの声。
それでトモの方に意識を向けると、彼はまるで眩しいものを見るかのように目をすがめてこちらを見ていた。
「ユキはそれでいいんだよ。おれらは小さい頃から、あいつとは付き合え、そいつとは付き合うなって、利害関係第一に人を見るように育てられてるもんだから、ユキよりもずっと視野が狭いんだ。んでさ、そうやって長い時間かけて腐った奴らには、結局のところ終わりしかないんだよね。いつだって世の中を牽引するのは、何にも囚われずにどんなことも受け入れて、そしてどんな小さなことでも確実に自分の力に変えられる人なんだ。ユキはそんな人間だよ。忘れるくらいたくさんの人間を見てきたおれが言うから間違いない。」
トモはどこか自慢げに断言し、握った拳をユキに向かって突き出す。
「ユキ。そのまま安心して気持ちのままに進めって。ユキが求めてる安定なら、きっともう手に入ってるよ。ユキが今後どれだけ困ったって、絶対に誰もユキのことを見捨てないさ。少なくとも、おれは何があってもユキを見捨てないよ?」
「なっ…」
こいつは急に何を言い出すのだ。
ユキは狼狽える。
「何があってもって、大袈裟だな。勝手にそんな気を張られても…」
「そうだよ。他人はいつだって勝手なんだよ?」
「………っ」
その言葉にユキは肩を震わせる。
トモが告げたその一言に、無意識が都合の悪い未来を予期したからだ。
「ユキがどれだけ他人と距離を取ろうとしたって、他人にはそんなの関係ないんだ。たとえユキが実際には何もしていなくても、ユキの態度や信念に感化された奴らは勝手にユキを慕う。ユキが望んでいなくたって、勝手に手を伸ばしてユキを支えようとするよ。ユキがそれを余計なお世話だって怒ったって知ったことか。おれらは助けたいからユキを助けるんだ。助けることがユキのためだって思うから助けるんだ。今回理事長があそこまでユキを庇ってくれたのだって、あれはユキ一人に背負わせちゃだめだって分かってたからだよ。そんなのおれだって分かってたさ。」
トモは真っ直ぐにユキの空色の瞳を見つめる。
「いい、ユキ。周りが無理にでも手を貸そうとする時は、それがユキ一人で背負い込むもんじゃないって時なんだよ。その時に伸ばされる手くらい、払いのけないでよね? そういう時、おれらはユキが引いた線なんて簡単に越えてやるんだから。」
「‼」
ユキは息を詰まらせる。
この時に感じたのは―――そこはかとない恐怖だった。
(なんだ…これ…)
ユキは思わず固唾を飲んだ。
胸の辺りがざわざわとして、無意識が逃げろと訴える。
トモはそんなユキに構わず先を続けた。
「別に、すぐに受け入れろとは言わないよ。おれは今回のことでなんとなく、ユキが距離感を大事にしたい本当の理由が分かった気がしたから。」
「……は?」
恐怖の中から湧いてきた不快感に、ユキは眉を思わずひそめる。
分かった気がしたなんて、そんな簡単に勝手な解釈をしないでくれ。
そう不満をぶつけようとした瞬間。
「おれは自信あるよ。……現に今、ユキビビってるでしょ?」
そのとおりとしか表現できない、明らかすぎるトモの指摘。それに、喉元まで出かかっていた文句が勢いをなくした。
トモは言葉を続けた。
「ほら図星。さらに言うと、ユキはなんで自分がビビってんのか分かってないんじゃない?」
「うっ…」
次々と胸の内を言い当てられ、もはや言い返す言葉がない。
なんだか気持ち悪い気分だ。自分じゃない誰かに、自分以上に自分のことを語られるというのは。
(オレがビビった理由…?)
考えてみても、これと言える理由が思い当たらない。
思考を巡らせれば巡らせるほど、ただえもいわれぬ不安が胸に澱を落としてくるだけだ。
「くくく、悩め悩め。今回のことで、何もさせてもらえなかったお返しだ。あー、すっきりした。」
思い切り口をへの時にして唸っているユキに満足したのか、トモはようやく全てを出し切った顔をして地面から立ち上がった。
「まぁ、そうだなー……ナギと一緒にいれば、その内自覚する時が来るんじゃないの?」
これまた不可解なことを。
「なんでここであの馬鹿が出るんだよ。」
「教えてやんないよーだ。」
トモは底抜けに明るい顔で笑った。
「前にも言ったじゃん? ユキとナギって相性いいと思うって。ユキでしかナギに教えられないことがあるように、ナギじゃないとユキに気づかせられないこともあるってこと。ってことで、ナギのことよろしくー♪ ばぁーい。」
トモは何か言われる前に、颯爽と屋上から消えてしまう。
「………」
一人屋上に残されたユキは。
「何なんだ、ほんとに…?」
珍しく眉を下げて後ろの柵に深く身を預けた。
レードルもトモも口を開けば似たようなことを。
一体ナギといることになんのメリットがあるというのだ。
うざいほどに張りつかれるわ、それを僻まれるわ、果てには殺されかけるわ…。ナギと関わり始めてからの数ヶ月、思い返したって頭の痛くなる記憶しかないじゃないか。
騒ぎがひとまずの収束を迎えた今だって、自分の心には置き去りにできない疑問と違和感が残される羽目になっている。
(オレの力、ね…)
自分を悩ませる疑問の一つ。
別に誰かを従わせようとか、巨大な権力が欲しいとか、そんなことを考えて駆け上がってきた道じゃないけど。
『ユキが求めてる安定なら、もう手に入ってるよ。』
仮にトモの言うあの言葉が事実だとして。
なら、自分はこの先何を目指して進めばいい…?
(まさか、こういうことを考えるきっかけがあいつとか言うんじゃないだろうな…?)
認めるのは癪だが、今の自分が考え方を改める転換期にいるのは事実。そしてここに至る色んな騒動の種を持ってきたのは、確実にナギだ。
「ああもう…オレの人生はどこに行くんだよ……」
ユキは片腕で目を覆い、深く息を吐いた。
仕方あるまい。腹をくくろう。
あのままつらい気持ちを押し通して縁を切る手もあったのに、その縁を結び直したのは他でもない自分だ。
逆に考えろ。
ここまでの労力を割いて、得られるものが一つもないないんて腹が立つだろうが。
「とりあえず、やるだけやってやるよ。」
誰に言うでもなく、ユキはそう呟いて自分の両頬を張った。
さあ、うじうじするのもここまで。
この切り替えは一瞬でできるはずだ。
「―――……あ。」
ひとまず悩みを振り払った瞬間、とあることを思い出す。
ユキは軽くその場を走り出した。
そして最速スピードでトモに追いつき、宣言どおり彼の腹に渾身の一発を決め込むのだった。
★
その後あれ以上の騒動は起こることなく、平穏無事に期末試験は執り行われた。
学年トップスリーが組んで提出された論文は学校全体に公表され、誰もが内容の緻密さと深さに舌を巻いたという。
だが、ある意味一番注目を浴びたのは二日に分けて行われた体術試験であろう。学校側が用意した精鋭としてユキやナギが指名された時、自覚のある人間は半ば死を覚悟して青ざめたのだから。
『言っとくけど、オレらもこれ試験だから。評価が保証されてるわけでもねぇから―――本気でぶっ飛ばしにかかるぞ。』
完全に猛者の目で宣言したユキに、教師も含めその場の全員がすくみ上がったという。
それから短めの冬休みを抜けてしばらく。
日々は平和に過ぎていく……はずだった。




