18時間目 賭けの勝敗は…
突然の理事長の訪問。
それはまさに晴天の霹靂のような出来事だった。
教室にいる生徒たちはおろか、廊下の生徒たちも騒然としていた。
理事長ことレードルは悠々と教室を進む。
「やあ、ナギ君。こうして話すのは、以前の会食以来かな?」
「あ、うん…」
にっこりと笑いかけられ、ナギがぎこちなく頷く。
「どうしたのかね? いつもの元気がないようだけども。」
「………」
ナギは何も言わない。
他の生徒たちも理事長という大物を前に、完全に萎縮してしまっているようだ。
しん、と静まり返る教室の中で、レードルの溜め息はやたらと大きく響いた。
「……ふむ、なるほど。その様子だと、今年の論文試験を棄権するかもしれないという噂は本当なのかな?」
レードルの言葉に生徒たちが驚愕の声をあげる。
「………」
やはりナギは何も言わない。
どうやら単なる噂というわけではないようだ。
「困ったね。君は世界的に名が通る優秀な子だ。そんな子を留年にするのは忍びないのだが、何か試験に不満でもあるのかね?」
「………」
「おやおや、何も話してくれないのだね。……まあ、何があったかはそれとなく小耳には挟んでいるよ。」
レードルはちらりとユキを見つめ、次に周囲の一人一人を丁寧に見回す。
露骨に目を逸らす者、怯えたように固まる者、誰かの後ろに隠れる者。生徒たちの反応はそれぞれだが、皆共通してレードルと絶対に目を合わせようとはしなかった。
「では、今回の論文試験について規則を改定するというのはどうだろうか?」
「……え?」
その申し出に、これまでずっと沈黙を守っていたナギがようやく顔を上げた。
「もちろん君に非はないが、君の才能が引き起こした問題ではある。罪悪感があるなら、責任を取る機会を与えてもいいよ?」
レードルはにっこりと笑った。
「そうだね…今回の一件は、試験の評価基準を明示していなかったのも原因の一端だろうね。どちらかと言うと、論文の採点基準はその内容というよりも、二か国語翻訳の技術を七割重視だったのだが…ここから改めるとしようか。」
レードルの言葉に、その場にいた半数ほどの生徒が顔を青くした。
論文の評価の重点は翻訳の方だったということは、辞書を片手に努力すればある程度の成績が取れたわけだ。
賢い人間は、この時点でナギを取り合う争いがいかに不毛だったかを悟ったことだろう。
「そもそも複数人で仕上げる課題においては、同じグループの人間はそれ相応に同等の学力を持っている。学校としては、そう判断しても構わないはずだね? どう思うかい?」
「うん…確かにそうかな。同じ話題について話すにも、同じレベルの知識を持ってないと話が通じないもんね…。」
ナギはこくりと頷く。
「ではこうしようか。」
レードルが一つ指を立てた。
「今回の論文成績において、グループを組んでいる生徒については、その中で最も成績が上位の者に合わせて、今後の個人成績ノルマを引き上げる、というのはどうだろう。」
ざわっ
レードルが示したその条件に、誰もが言葉を失った。
個人成績ノルマ。
それはユリア高校独自の成績制限だ。
ユリア高校に入学すると、入試と入学後最初に行われる実力試験の結果に応じて、各個人に最大値を十とした成績ノルマが課される。その成績ノルマは学期ごとに更新され、ノルマを二回クリアできなかった場合には成績不振による退学処分が下される。
そしてこの成績ノルマは、上がることはあっても決して下がることはない。
つまりレードルが言うこの規則改定が採用されてしまえば、成績保証のために優等生に取り入っていた人間は漏れなく痛い目を見ることになるのだ。
「それが適応されたら、どうして俺が責任を取れることになるの?」
真剣な顔で訊ねるナギ。
「そうだね。それもきちんと話しておこう。」
レードルはゆったりと頷いた。
「成績ノルマの上乗せ率は、グループ内の学力差によって変動する。つまり成績上位の者と組めば組むほど、己に返ってくるノルマは相当なものになる。そうだね…成績ノルマが十プラスである君と組むとなれば、二段階以上のノルマ引き上げは逃れられないだろうね。」
「うん。」
「そして一度採用したならば、このノルマ引き上げ制度は今後の課題や試験においても適応される場合がある。今回は初の試みとなるから情報を開示するが、これ以降は不正防止のだめ、生徒へ情報開示はしないこととする。」
「つまり、俺と組もうとしたらいつ成績ノルマが上がるか分からないってこと?」
「そのとおり。珍しいね。君がそこまで真剣に話を聞いてくれるのは。」
くすりと笑ったレードルは、次の瞬間厳しく目を細めた。
「君が招いた混乱だ。今後も同じことが起こる可能性があるのであれば、それが起こらないよう、君には誰も手を出せない高みにいてもらう必要がある。理事長として、不穏の目は摘み取らなければならないのだよ。君がこの条件を飲まないのであれば、私は別の者に処分を下さなくてはならなくなるからね。」
「………っ‼」
それに明らかな反応を見せたのはニックたちだ。なんとなく事の発端だけは知っている他の者も、まるで彼らに責めるような目を向けている。
「これも一つの社会勉強だ。学校の名誉を守るために、君は一人でいなさい。」
レードルから突きつけられる非道な宣告。
誰もが口をつぐんだ。
騒ぎが大きくなりすぎたこの一連の事件について、彼がそれなりに怒りを抱いているのだと。
それははっきり言われずとも、彼の雰囲気から全て伝わってきていた。
もちろん本来なら、この件でナギが責任を負う必要などないだろう。だが、皆自分に火の粉が飛ぶことを恐れてそれを言い出せないでいた。散々ナギを自分たちのもの扱いしていたニックたちですら、彼を庇うことはせずに素知らぬ顔を貫こうとしている。
「―――理事長、いいですか?」
静まり返った教室で、レードルに声をかける猛者が一人。
「何かね、トモ君。何か不満でも?」
綺麗に挙手しているトモにレードルの視線が移る。
「いえ、成績ノルマ引き上げ制度については賛成です。」
トモはまず彼の提案を肯定し、「ただ…」と続けた。
「学校のためにナギが一人でいなきゃいけないってのは、ちょっと違いますよね。それはあくまでも、ナギと組もうとする人が誰もいなかったらって話じゃないですか?」
「ほう…?」
レードルの切れ長な双眸がすっと細まる。
「確かに君の言うことは正しい。だが、この条件下で誰がナギ君に手を伸ばすかな? まさか、君がこのリスクを負うとでも?」
「はい。」
トモは間髪入れずに頷いた。
「トモ…」
ナギが目を丸くし、他の生徒たちも驚きを隠せずに動揺している。
「お、おい。トモ、正気か?」
「お前、成績ノルマ七.五だろ? 二段階引き上げなんかになったら…」
トモを心配した数人が、おそるおそる口を挟んだ。
「大丈夫、大丈夫! おれ、どっちかっていうとMだし、追い詰められても平気だと思う! それに…」
友人たちを明るく笑い飛ばし、トモはナギの肩を叩いた。
「おれはナギの幼なじみ兼犬なんで! どんな状況でも、ナギを見捨てることだけはできないよ。」
はっきりと断言するトモは、すでに腹をくくった顔をしていた。
「ふむ、なるほど…。別に君の選択にとやかく言うつもりはない。覚悟があるなら好きにしなさい。」
「はい!」
「しかしまあ、そうなると……」
レードルは思案げに呟き、とある一点に目をやった。
そして告げる
「はてさて…。どうやらこの賭け、私の勝ちのようだね? ―――ユキ?」
★
レードルが声をかけた相手に、教室中がこれまでとは比べ物にならない喧騒に満ちた。
全員の注目を浴びていたユキは、
「そのようですね。最悪ですよ。」
深い溜め息をつきながら、ぐったりと机に上半身を預けていた。
「なんだ、面白くなさそうだね。」
「面白いわけないでしょう。こっちは十中八九勝てると思ってたんですから。」
ユキがふいっと顔を背けると、レードルが面白そうに笑う。
「嘘、だろ…」
誰かが茫然と唸る。
二人の話ぶりから皆が一瞬で悟った。
ユキとレードルの関係が、つい一日二日で成り立ったものじゃないことを。
神出鬼没なことで有名な彼とお近づきになる機会など、それなりの権力者だってないのだ。
「ユキ、お前なんつー人と知り合いで……」
これには、コミュニケーションのプロであるトモも青ざめている。
「知り合いどころか、もう何度も食事をした仲だよ。」
「あの、今この状況でそのノリはやめていただけません?」
わしゃわしゃと髪を掻き回してくるレードルに対し、ユキはそう言って遠慮なくその手を払いのけた。
「うおぉぉい、ユキ! こんな方にまでそんな態度するな! 勇者かお前は⁉」
トモが慌てふためくが、ユキは特に動じていない。
「しょうがねぇだろ。騙されに騙されて、気づいたらこの人の手の平の上だったんだ。多少の恨みくらいあるわ。」
「いや…理事長と友達って、恨みを帳消しにしてなお余るくらいだと思うんだけど。」
「いっぺんこの人に使われてみろ。そんなこと言えなくなっからな。」
辟易とぼやくユキに、もはや二の句も継げなくなったトモが茫然と瞼を叩く。
その考え方はおかしいだろ。
声にならない総ツッコミが聞こえてきそうだ。
「これは相当拗ねているな。君から提案してきた賭けじゃないか。」
「はいはい。そうですね、そうですよ。さっさとお話進めてください。」
もう自分に構うな。
ユキが態度でそう語る。
「では、ナギ君。君に一つ朗報をあげよう。」
先ほどまでの厳しい態度を一変させ、レードルがにこやかにナギへと笑いかけた。
「なんとなく事情は察したと思うが…。今回の規定改定において課されるこの厳しい条件下で、君に味方する人間が現れるか否か。私と彼は賭けをしていてね。」
「え…え……?」
まるで状況を読めないナギはきょとんと瞼をしばたたかせている。
「さて、私が賭けに勝った時の条件だ。こんな理不尽な規定を押しつけられた不満もあるだろうから、今回の試験のみ、一人だけ強制的に君の理不尽に巻き込むことを許そう。」
そこできらりと光るレードルの瞳。
「―――まあ、誰が犠牲になるかは明らかなようだがね?」
「………」
皆の視線が全く同じ場所に集中する。
「………」
渦中にいるユキは相変わらずふてくされている。
「ちょっと待てよ…」
生徒たちが囁く。
「ユキの成績ノルマって…」
「確か九.五とかじゃなかったっけ?」
個人成績ノルマは公開情報。興味がある人間は、誰がどれくらいのノルマを課せられているかを事細かに知っていることだろう。
「じゃあ、ユキの成績ノルマは今後…」
「少なくとも十。発案者の責任を取らせるなら、ナギ君と同じ十プラスを吹っかけてもいいかもねぇ?」
生徒たちのざわめきに答えを寄越したのはレードル本人だ。
「え…」
ふとそこでトモが何かに思い至ったように目を大きくした。
「もしかしてユキ、ナギを吊し上げるつもりが逆に自分の首締めちゃったわけ?」
「………」
「嘘だろ⁉ 馬鹿じゃね⁉」
「うるせーな! 誰のせいだ。だ・れ・の‼」
大声で笑ったトモに、ユキが苛立ちも露に顔を上げる。
「ここまできつい条件なら、さすがのお前も庇えねぇと思ったんだよ!」
「うっわ、開き直った! いくらナギが嫌いだからって、これは権力の横暴よー?」
「別に。この人だって乗り気だったからいいじゃねぇか。大体、オレは今回のことで散々理不尽な思いしたんだぞ⁉ このくらいの仕返ししたっていいだろう。」
ユキがはっきりと仕返しと表現すると、トモが大袈裟な仕草で身を引いた。
「うわ、こわぁ…。ユキ怒らせると、理事長レベルの人が出てきちゃうわけ?」
トモがそう言ったことで、その場にいた全員が「まさか…」とでも言いたげに顔を真っ青にする。
「まあ、ユキには普段よく働いてもらっているからね。それなりに可愛がっているよ。」
全員のまさかを認めたのは、他でもないレードル本人だ。
レードルは皆の視線を集めてほんの少し口角を上げ、次に自分の発言を見せつけるようにユキの頭に手を置いた。
「だけどこの子はいつもそっけなくてねぇ…。可愛がっている分いつだって助けてやるのに、この頑固者は限界を越えても頼ってこんのだよ。」
「あー、確かに。ユキは人に頼るの嫌いだもんなぁ。」
レードルの笑顔を受けたトモがそれに応えるように笑い、彼と同じようにユキの頭に手を置いて話を続ける。
「じゃあ、今回の助っ人は半分理事長から提言したんですか?」
「そうなんだよ。さすがに見ていられないから、いい加減力の使いどころを覚えなさいと説教をしたんだ。」
「それはおれも思いますねぇ…」
「ああもう! 二人揃ってオレの頭をなでないでください‼」
面白おかしく話すレードルとトモに挟まれていたユキは、痺れを切らしたように二人の手を払いのけ、そこから逃げるように席を立った。
そして、レードルと楽しそうに話していたトモの胸倉を乱暴に引き寄せる。
「ったく、どうしてくれんだよ、ちくしょう! お前のせいで何もかも水の泡だ。論文課題、あとは翻訳作業だけだったんだぞ⁉ この馬鹿と一緒にってなったら、最初からやり直しじゃねえか⁉ あと二週間しかねぇってのによ‼」
「………っ‼」
それに目を見開いたのはナギだ。
「ふへへ、おれの犬っぷりを甘く見てもらっちゃ困るぜ。」
トモがにやりと唇で弧を描く。
「大体さー、ユキならおれがナギの味方につく可能性は想定してたわけでしょー? なんで理事長が勝った時の条件で自分を守らなかったわけ? 自業自得じゃん?」
それは確かにそのとおり。
だが、ユキはそれに即で首を横に振った。
「この人が、ただオレが楽するだけの駆け引きになんて乗ってくれるわけねぇだろう。オレの仕返しに乗って試験規定を改定する代わりに、それ相応のリスクをオレも負うことが取り決めだったんだよ。」
「それで成績ノルマ最大値オーバーとか…」
「笑ってんじゃねぇよ!」
ユキは悔しげに唇を噛み、やりきれない感情をぶつけるように自分の髪の毛を掴んだ。
「オレは自分にとって都合よく提案したつもりだったんだよ。この馬鹿に巻き込まれてひどい目に遭うこともなくなるだろうし、オレと組もうとする奴もいなくなるから、心置きなく一人で好き勝手課題や試験を進められる。この人が勝った時の条件さえなければ、十中八九オレは平穏無事だったはずなのに…っ。」
「ちなみに、当初の彼の提案はもう少しぬるかったんだよ? この成績ノルマ引き上げ制度を適応するのは、ナギ君とユキに関わった者だけ。なおかつ、他の生徒を牽制できればいいだけだから、この制度はこの試験限りでいいなんて。」
それを聞いたトモは頬をひきつらせる。
「いや…それはそれで、個人的な恨みが滲み出すぎてますけどね。ナギふざけんなよってのと、オレに構うんじゃねぇって本音が聞こえてきそう…。」
「口で言ったって分かんねぇんだ。実力行使に出て何が悪い。」
にべもなく言うユキに、もはや他の生徒は何も言えなくなっているようだ。
明らかに手を出す相手を間違った。
ここまでのものを見せられたら、それを実感せざるを得ないのだから。
「………」
震えているニックたちの顔が、まあ面白いほどに蒼白になっている。
「とまあ、そういうユキの提案を私が大幅に拡大したわけだ。彼の提案した制度は、国の先陣を切る我が校としては非常に有意義なものだ。それに本来評価とは、このくらい厳粛かつ平等であるべきものだろう?」
レードルが周囲の生徒たちを見渡してそう問いかける。
当然ながら、抗議できる者がいるはずもなかった。
「でもそのせいで自滅するとか……だせぇ…ざまぁ…」
「そろそろぶん殴っていいかな?」
未だに笑っているトモに向かってユキが拳を掲げる。
そんなユキとトモの様子を見ていたレードルは柔らかく微笑んで目を閉じ、すぐに表情を変えた。
「ふふふ。まだまだ詰めが甘いねぇ。いやはや、いいものを見せてもらったよ。さて、私は通告を出すために理事長室に戻るとしよう。」
レードルはユキの肩をぽん、と叩く。
「今後も色々と頼むよ。成績ノルマが引き上げられたからといって、もし退学にでもなったら……許さないからね?」
鋭くユキを貫くレードルの瞳。
「……ご心配なく。単に今の成績を維持するだけでしょう。」
ユキは堂々とレードルを睨み返す。
レードルはわざとらしく目を見開いて見せた。
「おや、いいのかい? 維持するだけだなんて…本当はこの夏の成績からナギ君と同率一位に並んでいたと、そう言っているようなもんだが?」
この二人の会話からは爆弾発言しか飛び出さないのか。
これまで表には出されていなかった、まさかのユキの功績。
「わぁお…マジで?」
これにはトモも笑いを引っ込める。ナギも信じられないというようにユキを見ていた。
「こんの…」
ユキが思い切り顔をしかめ、とっさに言おうとした言葉をどうにかして飲みこむ。
そして少し呼吸を置いたユキは、努めて冷静な顔でまた口を開いた。
「どうせ成績ノルマが引き上げられたら、自動的にそうなるでしょう。今さら隠し立てする必要もない。っていうか、なんでわざわざ! 今! この場で! それを分かりやすーく暴露しますかね⁉ オレの隠し玉全部出させる気ですか⁉」
「力は隠すのではなく使えと言っただろう。」
「あー、そうでしたね! 本当にもう! あなたはオレをどうしたいんですか⁉ オレは平和に細々と生きていきたいんだって言いませんでした⁉」
「無理無理。諦めなさいと言っただろう。」
「無理にしてるのはどこのどなたで⁉」
「ほほほー。」
がなるユキにひらひらと手を振り、レードルは颯爽と教室を去っていく。
その後しばらく、ユキとトモ以外の生徒たちはその場で呼吸をすることが精一杯だった。




