13時間目 事を揉み消すしかない
遠くで何かが聞こえる。
ピ、ピ、ピ、と規則正しい電子音だ。
うっすらと目を開けると、ぼやけた視界は真っ白に染まっていた。
「………?」
ユキは顔をしかめる。
体が死ぬほど重い。
焦点がなかなか合わなくて、周りの様子も分からない。
「うう…」
気持ち悪くて呻くユキ。
すると。
「ユキ⁉」
すぐ傍で誰かが自分の名前を呼んだ。
「……ああ…トモ、か……?」
どうにか目を凝らし、自分を覗き込む相手がトモであることが分かった。
「よかった…目を覚まさなかったらどうしようかと……!」
ベッドのシーツを握るトモの声に涙が滲む。
「………?」
一体何が起こったのだろう。
状況がまるで読めないユキは、全身に力を入れてなんとか身を起こそうとした。
「馬鹿! 無理しないの!」
慌てたトモがすぐにユキの体を支える。
「目が回る…。なんだ、ここ…病院……?」
ようやくまともに見えるようになった目で周囲を見回す。
真っ白な個室。自分の体にまとわりつくのは点滴とケーブルだ。
「そうだよ。ユキ、三日も昏睡状態だったんだぞ。」
「……は?」
思わず首を巡らせる。
ベッド脇のチェストに乗っている電子時計を見つけてそれを見ると、確かにトモの言うとおり、時計が示す日付は月曜日だった。
「……そっ、か…………オレ、確か倒れて…」
鈍痛を放つ頭が記憶を遡る。
「そうだよ。ほんとにもう、心配したんだから!」
トモはユキの左手を掴み、ユキの目前にあるものを突きつけた。
「この怪我とこれ、何か心当たりは?」
トモが掴む左手には包帯が巻かれていた。
そして、突きつけられたのは鈍く光る小さな刃だ。
「あ…」
ユキは茫然と呟く。
「救急車が来るのを待ってる時にユキが変な怪我してるのに気づいて、ユキの私物ひっくり返したら出てきた。調べてもらったら、これに遅効性の痺れ薬がたっぷりと塗ってあったんだと。」
「痺れ薬……どうりで…………」
なるほど。突然手が痺れたりしたのは、薬が本格的に効いてくる前兆だったのか。
「どうりでって、軽く流せることじゃないよ‼」
カッと顔を赤くしたトモがユキに詰め寄る。
「痺れ薬っていっても劇薬だって話! 下手すれば、そのまま心臓まで止まってたかもしれないんだよ⁉ あの時はたまたまおれがいたけど、普段なら絶対に一人だった時間でしょ。立派な殺人未遂じゃんか‼」
「………」
ユキは何も言えずに黙るしかない。
ナギが自分に張りつくようになってから、ニックたちにとって自分はかなり煙たかっただろうことは分かっていた。
分かってはいたが、まさか命まで狙われることになろうとは。
「くそ、あいつら…。いくらユキに味方が多いからって…っ‼」
トモが悔しげに唇を噛む。
「何か調べたのか?」
「当たり前。洗いざらい丸裸にさせてもらったわ。」
相当頭に来ているのだろう。ぐしゃりと髪を掻き上げたトモは、もう片方の手でチェストを殴る。
「ニックたちがユキに目をつけてたのは一年の頃からだって。庶民のくせに、自分より目立ってるのが気に食わなかったんだろうね。初めは粗探しをして悪い噂でも流してやろうって軽いもんだったらしいけど、粗探しに手間取ってる間にユキがどんどん学校内に顔広げてって、足引っ張る隙もなかったって話。あいつらは、ナギを独占してる時が唯一目立ってふんぞり返れる時だったんだろうな。」
「……で、それすらもオレがかっさらっていったから、本格的にオレが邪魔になったと。」
「そんなとこ。……ごめん。多分あいつらがこんなことをしたの、おれが悪目立ちし過ぎたせいもあるわ。」
どこか顔を青くしてトモが語る。
「あんまりにもムカついたからさ、ユキのいないとこでニックたちと喧嘩したんだわ。そしたら、嫌々ニックたちに従ってた奴らがおれについちゃって。あの時はざまあみろって思ったけど、まさかこんなことになるなんて…。」
だんだん早口になっていくトモ。
自分が無事に目覚めたことで気が抜けて、今さらのように動揺してきたのだろう。
「トモ、落ち着け。」
動きにくい腕を伸ばし、ユキはトモの手に自分の手を重ねる。
「大丈夫だ。お前は悪くない。オレは大丈夫だから、自分を責めるな。」
「………」
トモは黙りこくってしまう。
まあ、こんな状況で自分を責めるなというのも無理な話か。
険しく眉を寄せるユキ。
それにしてもまずいことになった。これは大事になりすぎだ。
生徒対生徒の衝突で済めばまだ可愛いげもあるし、いかようにも情報を伏せられよう。
だがニックもトモも、それなりに名の知れた会社が後ろにあるわけだ。この二人に絡んで多くの人間が衝突していて、果てにはこんな殺人未遂に至ってしまったとなると、状況の収集をつけようがない。
この件を一番穏便に解決する方法は―――
「なぁ、トモ。」
考え込んでいたユキは不意に口を開く。
「オレが担ぎ込まれたこと、母さんに連絡はいってるのか?」
「は? いってるわけないじゃん。」
ユキの質問に、トモの表情がまたやりきれない怒りに染まる。
「誰にも連絡させてもらえなかったんだ。おれは現場に居合わせてたから特別に病室に入れてもらえてるけど、それ以外の奴らには一切何も言うなって圧力がかかって…。」
人一人の命の危機だというのに。
トモはそう憤然とするが。
「そうか。―――なら、よかった。」
当事者であるユキが口にしたのは、そんなまさかの一言だった。
「はっ⁉ お前、何言ってんの⁉」
あまりにも突飛抜けたユキの言葉。それに瞬間的に呆気に取られたトモは、次にこれまで以上の激情を孕んだ目でユキを睨んだ。
「さすがに聞き捨てならないよ! ユキ、自分が死にかけてたっていうのに、何ふざけたこと抜かしてんの‼ 大事なんだよ⁉」
「分かってるよ! だからこそ情報が漏れてなくてよかったっつってんだよ‼」
ユキも負けじとトモに怒鳴る。
「お前こそ分かってんのか⁉ 天下の国立高校で殺人未遂なんざ、世紀一大の醜聞もいいとこだぞ⁉ しかもその起爆剤があのナギともなれば、どんな風にメディアのおもちゃにされると思う? そうなった時に一番被害を被るのは誰だ? ナギだろう⁉ オレのためだったし仕方ないとはいえ、ニックとお前が正面衝突まで起こしてるんだ。ここまで騒ぎが大きくなったらもう、全部丸ごと事を揉み消すしか解決策はねぇだろうが‼」
自分とて怒りはある。
感情のままに動いていいならこんな学校辞めてやるし、ニックたちを訴えでもするだろう。
だがそうして騒ぎを大きくしたところで、そのとばっちりは自分に返ってくる。もうすでに圧力がかけられているのだ。今度こそ口封じのために彼岸を拝むことになるかもしれない。
自分が確実に生き残るには、ここはぐっと悔しさを飲み込むしかない。
今の自分はまだ、吹いて消される程度の存在でしかないのだから。
「で、でも……っ」
ナギの名前を出されたことで、トモが明らかに狼狽する。
その時。
「いやはや、さすがは我が校が誇る優秀な生徒だ。その聡明さには本当に感心するよ。」
軽い拍手が病室に響く。
「校長先生…」
病室に入ってきた相手を見て、ユキが目を丸くして呟く。そんなユキとは違い、ブレッドを見たトモはまるで彼を恨むかのような表情を湛えた。
トモに圧力をかけたのはブレッドなのだろう。
二人が無言で交わす激しい視線のやり取りで察する。
「ユキ君。無事に目が覚めて何よりだ。私としても、君のように賢い生徒を失いたくはないからね。」
「何を…っ」
「トモ、静かに。」
今にもブレッドに殴りかかりそうなトモを制止し、ユキは冷静にブレッドと向き合う。
「ありがとうございます。……でも、今は今後のことを決めるのが最優先。そうですね?」
「そのとおり。一から十まで語るまでもないね。」
物分かりがいいユキの対応に、ブレッドはそれはもう機嫌がいい。
「君は周りの生徒の学力向上に務め、事務員としても働き詰めだったために過労で倒れたんだ。いいね?」
「ええ。それが一番違和感のない理由でしょう。分かりました。それまでに何があったかは、一切他言無用ということで。オレの味方についていた人たちにも根回しをしておきます。」
「素晴らしい。よろしく頼んだよ。」
「ユキ、なんで……」
「いい。これはオレが望んでそうするんだ。だからお前もこらえろ。」
言い募ろうとするトモを、にべもなく切って捨てるユキ。それを眺めるブレッドは、さらに上機嫌になって口を開いた。
「安心したまえ。その聡明な判断には、それ相応の報酬を約束しようとも。最終的には何もなかったことになるのだ。それはもちろん、君の入院も欠席もね。」
その言葉の意味は、入院費と欠席による成績のマイナス分は帳消しにするということ。
これを受け入れることは、曲がったことをしたくない自分の信念に反してしまうが…。
「…………分かりました。」
事を揉み消すということは、きっとこういうこと。
不快感を押し殺し、ユキはそう頷いた。
「ふふ。あと何か気になることはあるかね?」
ブレッドは満足そうに笑う。
そんな彼に、ユキはずっと頭の片隅に引っかかっていることを訊ねた。
「ナギはこの件について、何か知っていますか? この件が目に見えてひどくなったのは、ナギが研究所に出向いてから。変に情報が漏れていないなら、彼は何も知らないかとは思いますが。」
「……ふむ。ユキ君の想定は間違ってはいまい。研究所にはこちら側の情報は入らないからね。」
「彼はまだ研究所に?」
「ああ。そういえば、ちょうど明日には戻ってくる予定だったか。」
ブレッドの言葉を受け、ユキはすぐさま時計に目を向ける。
時刻は十六時。まだ十分に間に合うはずだ。
「ナギがこの件を知っても厄介です。オレが退院するまで、研究所に手を回して彼を学校に帰さないようにすることは可能ですか?」
「もちろんだとも。」
「では、お願いします。あとは―――」
ユキはおもむろにブレッドに手を差し出す。
「これの処分を。これさえなくなれば、オレが薬を盛られた証拠は消えますよね?」
「あっ……いつの間にっ!」
ユキの手に乗るカッターの刃を見たトモが動揺するが、その時にはすでに唯一の証拠がブレッドの手に渡った後。
「君には脱帽するよ。分かった。確実に処分しておこう。安心しなさい。君は身をとして我が校を救ったのだ。今後君が命を脅かされることはないと約束しよう。私の名の元にね。」
最後まで反抗的な態度を取らなかったユキに、ブレッドはにこにこと笑って病室を出ていった。
「……狸親父め。」
十分に足音が遠退いた後、ユキはそうぼやきながらベッドに身をうずめた。
起き抜けにしゃべりすぎた。体力がもたない。
「ユキ…」
「ありがとな、オレのために怒ってくれて。でも、いいんだ。」
ユキは目を閉じる。
トモが不服なのは分かる。
だが、これが自分の選択だ。
「合理的に考えて、これが一番いい。あの校長は従順な態度を取っておけば、案外転がしやすい人だから。」
言うと、トモが思い切り顔を歪めた。
「それで…何もなかったことにして……一体何が解決するんだよ⁉」
トモが両の拳を握りしめる。
「ユキばっか飲み込んで、ニックたちは何もお咎めなしだっての⁉ あいつらがやったことは、絶対に許されることじゃないのに!」
「だろうな。だから校長の意図を汲んで、先に今後の動き方を提示してやった。気をよくしたあの人から、安全は保障するって言わせただろ。」
「言わ、せた…?」
「ああ。」
一つ頷くユキ。
「自分の名の元にって言ってくれたから、ニックに何かしらの圧力はかけてくれるさ。だからあえて証拠も渡してやった。あいつも少しは賢いようだし、校長の命令ならさすがに黙るだろう。ここで下手に校長と対立して敵を増やすよりは、おだてて勝手に踊ってもらった方が何倍も穏便なんだよ。」
ブレッドは、学校にとって都合の悪いことには全力で対処するだろう。それこそ、大学からの援助を断ち切らないために自分に圧力をかけてきたように。
今回の一件、なんとか自分が助かったからよかったものの、仮に自分が死んでいたら手もつけられない問題に育っていたに違いない。だが死亡事件に繋がらなかったからといって、情報を揉み消すために自分やニックを権力で学校から遠ざければ、周囲に何かきな臭い事情を悟られかねない。
学校の名誉を守るためには、これまでの平穏を何一つ変えずに保つことが必須。そしてそれは、自分もニックも何事もなく学校に通い続けることに意味がある。それなのに今後もこんな殺人まがいのことをされては、ブレッドにとっても都合が悪いはずだ。
「トモ。お前、もしも今回の件でオレが退学とかになったらどうする?」
試しに訊いてみる。
自分の想定が誤っていないなら、おそらく…。
「そんなの、親父に言って今回のこと包み隠さず全部言いふらしてやるに決まってんじゃん。一度情報が爆発しちまえば、落ち着くまでは誰も手をつけられないんだから。」
間髪入れずに返ってきたトモの答えは案の定の内容。
「やっぱりな。だからこそ、あの校長はオレを守ってくれるさ。お前のコミュニケーション能力と情報網は、いくら校長レベルの権力者といえども無視はできない。」
ユキは自信を持って断言した。
「ユキ…まさか起きてからの短い間に、そこまで考えてたの?」
「まあな。自分の首がかかってるんだから、悠長に寝ぼけてもいられねぇよ。」
全ては計算の上。
優先すべきは目先の感情ではなく未来の安定だ。
「だから頼む。ここはお前も一緒に耐え忍んでくれ。」
さすがにもう起き上がる体力がないので、ユキは横になったままトモを真っ直ぐに見上げて頭だけを下げた。
「………」
トモはすぐに答えを寄越さなかった。
沈黙は長く、長く続く。
「―――分かった。」
相当な葛藤があったことだろう。
強く息を吐き出すようにそう告げたトモの顔は、納得したとは到底言い難いものだった。
「ありがとな。」
「納得はしてない。」
「知ってる。」
ユキは苦笑するしかない。
「あのね、おれはまだ怒ってんだからね。」
トモは声を震わせた。
「ここまで来て……まだナギには何も言うなって言うの?」
「………」
その名前を出された瞬間、ユキの表情から笑みがすっと引いていく。
「……そうだな。必然的にそうなる。」
先ほどまでのブレッドとのやり取りを顧みれば、誰だってその結論には至ろう。
「なんで⁉ おれはずっとそれが納得いかないんだ!」
あくまでも静かに言葉を紡ぐユキとは対照的にトモは激昂する。
「ナギはユキの言うことならちゃんと聞くじゃん‼ ナギにとって、ユキはそれだけ特別なんだ。それくらい、幼なじみのおれから見れば明らかに分かるんだよ。何度もナギに相談しようって言ったのに、こんなことになるまで意地張って一人で踏ん張って……そんなにナギに力を借りるのが嫌⁉ そんなにナギのことが嫌いなの⁉ ナギのせいで自分が死んだらいい気味だって、まさかそんな馬鹿なこと考えてんじゃないよね⁉」
「ちげぇよ! さすがにそこまで腐ってない‼」
「じゃあ―――」
「あいつのためにならないって、そう思ったからだよ!」
怒鳴り返した瞬間に、ずっと水分を取っていなかった喉が痛みを訴える。
「幼なじみなら、分かんだろ…。あいつがいる環境が、どれだけ残酷か。」
咳き込んで痛む喉を押さえながら、ユキは苦しげに言葉を続けた。
「ああ、認めてやるよ。オレはきっと、あいつにとって特別なんだろう。あいつはオレを通して、少しずつ他人をちゃんと見るってことを覚えてきてる。だから今は余計にオレに懐いてるんだ。そんな時に……これはつらすぎるだろうが。」
人それぞれに心があるのだから、集まれば対立するのは避けられない。場合によっては、自分が大切に思っている人間に悪意が向けられることもあろう。
それは仕方のないこと。競争社会に身を置くなら、こういう諍いを避けては通れない。
だが…
「自分から初めて手を伸ばした相手が、自分の才能のせいで殺されかけたってなったら、お前ならどう思うんだ。初めてがそれだぞ? 次はきっと大丈夫って、めげずに手を伸ばせるか?」
「それ、は……」
ユキが言わんとすることに気づいて、ハッとしたトモが答えに窮するように呻く。
「今はオレがいるからいいけどな、あいつの人生は今だけじゃなくて、これからも続くんだ。こんな大事な時にトラウマ植えつけて……あいつが誰も信じられなくなったらどうすんだ。オレはさすがに……あいつの今後の人生全部の面倒見るなんて、そんな責任取れねぇぞ。」
ユキはぎゅっと喉を押さえる手に力を込める。
今までのナギは、周りを特に見ずに誰にも肩入れをしなかったから平穏だった。
しかしそれは、彼が他人に興味を持ったことがなかったからこそ成り立っていた平穏。
一度誰かに手を伸ばしてしまったら、もうその平穏を取り返すことはできない。踏み出してしまったら、決してゼロに戻ることはできないのだ。
誰かと関われば、当然痛い目を見ることもある。本来はそういったマイナスの経験を乗り越えるのがあるべき姿だが、あくまでもそれは、それまでに得たプラスの経験があってこそ乗り越えられるもの。
ゼロからプラスに進む間もなくマイナスに落ちてしまったら、人はきっと壊れてしまう。
生憎と自分は、今回のマイナスを帳消しにしてやるほどのプラスをナギに与えてやれない。
せめて先に進むナギの妨げにならないよう、マイナスに蓋をすることくらいしかできないのだ。
それが今後のナギのためで、そして自分のためだ。
「…………でも。」
強く言い切るユキに、さっきまでとは打って変わって眉を下げたトモが、自信なさそうに口を開く。
「でも、こんな風に隠したって……それこそナギのためにならないよ。だからってユキの言うとおり、ナギの全部をユキに押しつけることはできない、けどさ…。」
消え入るようなトモの声。
だがそれは、今までで一番胸に響いた。
隠したってナギのためにならない。
そんなこと、分かってはいるのだ。
ただ、より傷が浅くない方を選ぼうとするなら、そうするより他にないってだけで。
「………」
病室の天井を睨み、ユキはぐっと奥歯を噛み締めた。
★
(三日の欠席はキツいな…)
久しぶりに教科書と向かい、ユキは細く息を吐き出した。
目覚めてから精密検査を受け、特に後遺症もないと診断をくだされて退院を許されるまでに二日。ようやく寮に戻ったのは昨晩のことだった。
すぐさま飛んで迎えに来たルズたちを部屋に招き、トモも含めて素直に事情を説明した。彼らはこちらの立場を知っていた手前、下手に嘘をつくことはできないと判断しての事情説明だった。
話を聞いたルズたちはトモと同じくひどく憤っていたが、一番の被害者である自分が頭を下げたことで、渋々だが口を閉ざすことを了承してくれた。
他の生徒たちの口止めはトモに任せ、その日の内に事務室と校長室に顔を出し、やるべき対応は全て済ませた。
『君の誠意はしかと見届けさせてもらった。私もそれに応えよう。』
自分が訪ねてくることは想定済みだったのだろう。丁寧に人払いをしつつ他の重役を集めてあったブレッドは、こちらの報告を聞くとにこやかにそう告げた。
どうやら今回の一件に関しては、教師の中でも派閥ができてしまっていたようだ。淡々とブレッドと話す自分を見る一部の教師の顔が、複雑そうに歪んでいるのが分かった。
きっと自分が一言〝助けて〟と言えば、彼らは喜んで手を指し伸ばしてくれると思う。生徒だけではなく教師までがこちらについて対立したとなれば、さすがのブレッドもこんなに大きな顔はできまい。
それは客観的に見て簡単に推測できたし、それだけのものを作り上げているという確かな自信にもなった。
だがそれを使うのは時期尚早。
今はまだ、沈黙の時だ。
将来のことを考える理性が冷静にそんな判断を下した。
ともあれ、今回は結果的に多くの人々に堪えることを強要してしまった。しばらくは個々のフォローをすることに忙しくなりそうだ。
「あ、ユキ!」
昨日の内にルズたちに貸してもらったノートと教科書を見ていると、ふと自分を呼ぶ声が。
顔を上げると、登校してきた数人がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「大丈夫? 過労で倒れたって聞いたけど…」
何も知らない彼らは当然のようにそう言う。
手はずどおりだ。トモたちはきちんと口を閉ざしていてくれているらしい。
別に彼らのことを信じていなかったわけではないのだが、実際にそうだと知って無意識の内に安心してしまう自分がいた。
「そうなんだよ。体調管理には気を遣ってたつもりなんだけど、やっちまったなって感じ。」
ユキはあっさりと言って肩をすくめた。
「やっちまったって…五日も入院してたんだろ。それ、結構ヤバいやつじゃん。」
「いや、オレはさっさと退院したかったんだけど、医者がなかなか許可してくれなくてさ。授業もあるってのに…。」
「それだけ重症だったってことじゃんか…」
ユキの話を聞いた彼らは少し顔を青くする。
「授業は大丈夫そう?」
「ああ。とりあえずざっとノート見せてもらった感じ、予習でカバーしてた範囲しか進んでないっぽいから、なんとかなるだろ。」
「お前の生活のどこに予習する時間が…」
「時間は作ろうと思えばいくらでも作れるんだぜ?」
「だから倒れるんだろ!」
「うっ…それを言われると耳が痛いな。」
軽いやり取りをしている内に、こちらがいつもの調子を取り戻していることが伝わったのだろう。初めは心配そうだった彼らの表情にも、徐々に明るい色が見えてきた。
「……なぁ…」
不意に一人が仲間の脇腹をつついた。
すると彼らは何やら目配せをして互いに頷き合う。
何かあったのだろうか。
彼らが突然真剣な顔になったので、ユキは片手に持っていたノートを机に置いて彼らに注視することにする。
「あの、さ…ユキ。」
一人が意を決したように口を開く。
「ん?」
先を促すユキ。
「―――ごめん!」
彼がそう言って頭を下げると、周りの生徒たちも揃って頭を下げてきた。
「え…何…? 話が見えないんだけど…。」
なんだこの展開は。
そこにいた全員に謝られたユキはぱちくりと瞼を叩くしかない。
「いやさ…ユキが倒れたって聞いて、みんなで話したんだよ。ユキが倒れたの、僕たちのせいもあるんじゃないかって。」
「!」
目を見開くユキには構わず、顔を下げたまま彼らは語る。
「普通に考えればさ、毎日あんなに頼られまくってたら、そりゃ倒れるだろって話なんだよね。でも僕たちも今度のテストでは失敗できないって焦ってて、文句言いながらでもユキがちゃんと勉強見てくれるもんだから、それに甘えまくっててさ。ユキが倒れて、初めてそれに気づいたんだ。本当にごめん。」
「お前ら…」
「でも! やっぱり次のテストは怖いから、どうか見捨てないでもらえないかな⁉ ユキの教え方、ほんっとうに上手くて分かりやすいんだよ。自重はするからぁっ!」
次の瞬間、彼らは半泣きで拝んでくる。
「―――ぶはっ」
何か言うより先に、思わず吹き出してしまった。
まさかに重なったまさかの展開。
それがあまりにも面白おかしくて、ユキは腹を抱えて笑う。
「ちょ…待った……なんだよ、その手の平返し…せっかく少しは見直してやろうかなとか思ったのに…。あー、おもしれ…オレを笑い殺す気かよ…」
もったいない。
最後の言葉がなければ、いい話で終わったところだったのに。
目の端に浮かんだ涙を指で掬うユキ。
そんなユキに茫然と見入っていた彼らは…
「ユキ…お前、笑えるの?」
と、世にも奇妙な感想を述べた。
「はあ? そりゃ笑うよ。別に機械ってわけじゃねぇんだから。」
「いや、だって! もう二年の半ばだけど、初めて笑ってるの見たよ⁉」
「そうだっけ? まあ、普段特に笑うようなこともないからなぁ。」
面白くも楽しくもないのに笑うのは、ナギのような馬鹿くらいなんじゃないだろうか。
過去の出来事を思い返し、笑えるようなことがあっただろうかと思案げに唸るユキ。
すると。
「なんか…拍子抜けだわ。」
一人がそんなことを言った。
「おれも。勉強ができるだけのいけ好かない奴って思ってたわ。」
彼らのこちらに対する印象は、嫌でも分かっている。
故に、ユキはふうと肩を落とすだけだった。
「ひでぇ言われようだな。そう見えてたのは、お前らがオレのことを庶民だって見下してたからじゃねぇの?」
ちょっとした嫌味をひとつ。
言われた彼らは思い切り息を飲んだ。きっと図星なのだろう。
「まあ、それは今さらだ。その程度のことで怒ってなんかねぇよ。」
言葉のとおり特に何も引きずっていない様子でユキは手をひらひらと振る。
「でも、勉強ならトモに見てもらえば? あいつも一応学年三位だし、プログラミングならオレより強いぜ?」
金持ちは金持ちどうしでつるんだ方がいいのでは?
そんなメッセージを込めて言ってみれば、途端に彼らが頬を引きつらせるのが分かった。
「いやユキ…僕たちがトモに頭上がらないの知ってて言ってるでしょ。」
「まあな。でもそっかぁ。ふーん…。」
ユキはにやりと意地悪な笑みを湛える。
「トモに頭上がらないって言うけど、じゃあオレには頭上がるんだ?」
「そ、それは…」
「別にいいんだけどさ。」
「あわわわ、怒ってるのか⁉ 言い方が悪かったよ! ユキに教わった方が身に入るから、ユキに教えてもらいたいんだって!」
慌てた一人が床に膝をついてユキにしがみつく。
「ん。」
そんな彼に、ユキは手を差し出した。
「え?」
「先週指定した課題は?」
ユキはにっこりと笑みを深める。
「まさか、できてもいないのに泣きつきに来てるわけじゃないだろうな? オレ、言わなかったっけ? 基礎は叩き込んだから、今後は課題こなしてこないと勉強は見てやらないって。」
「あ…え……でも、ユキも今日は病み上がりで色々と大変なんじゃ…」
「ほほう、オレの心配するとは、案外余裕なんだな。」
なるほど。彼の状況はもう見えた。
ユキは笑みを引っ込め、凍えるような視線で彼を射抜く。
「先に言っとくけど、ちょっと仲良くなったからって甘くはしねぇよ? 育つ気がないやつに割く時間はないからな?」
「ひえぇぇっ! ユキの鬼! 性格変わりすぎじゃねぇか⁉」
「オレは最初からこうだ。嘘だと思うならトモにでも聞いてみろ。だから言ってやったんだぞ。勉強ならトモに見てもらえって。あいつの方がまだ教え方は優しいからな。」
ユキは泣きついてくる彼を含め、その場にいる全員と目を合わせる。
「知ってのとおり、オレはくそ忙しい。何度も同じことを丁寧にやってやる時間はない。分からないからすぐ訊くんじゃなくて、自分の力で理解しようとする努力をしろ。そのために必要なものは用意してやったはずだ。お前らが覚えなきゃいけないのは、目先のテストを乗り切るための知識じゃない。確実に自分の身につく物事の学び方だ。それをよくよく考えて勉強をしてみろ。」
厳しくユキが言うと、彼らはまるで大きな壁にでも当たったような顔をする。
まあ実際、これは学生がぶち当たる壁の一つだと思う。自分だって中学生の頃は、自分に合った勉強方法を見つけるまでに相当苦労した。
だが、これを乗り越えずして知識が身につくことなどありえない。
「お前ら誤解してそうだから言っとくぞ。いつ、誰が、完璧に課題をこなしてこいっつった?」
問いかけると、周囲がきょとんとして目をしばたたかせる。
やはりこちらの意図は理解されていなかったようだ。
やれやれと、ユキはまた肩を落とす。
「あのな、オレは全知全能ってわけじゃねぇんだよ。お前らがどこでどう詰まってんのかなんて、お前らの問題の解き方を見ないことには分からないだろう。完璧じゃなくてもいい。間違っててもいい。とりあえず今の自分の全力で課題をやってこいって話。」
まったく。どうしてこんな簡単なことが分からないのか。自分で自分のハードルを上げてどうする。
「とりあえず四の五の言ってないで、やるだけやってみろ。そしたらちゃんと相手はしてやる。オレは最初から完璧なんて求めてないんだ。努力してだめだった分には何も責めねえし、見捨てもしねえよ。」
最後に柔らかい微笑みを浮かべたユキに、その場の誰もが言葉を失って立ち尽くす。
この状況をトモが見ていたら、きっと深く溜め息をつくことになったに違いない。
彼が以前に言った〝天然のアメとムチ〟。
これがまさにそれなのだから。




