12時間目 波乱の幕開け
翌日、面倒事を避けるなんて端から無理だったと悟った。
『ユキと一緒じゃないなら、一人でいい。』
ナギが告げたこの一言。
それは、一部始終を聞いていた生徒たちの反感を煽るには十分過ぎた。
あれからというもの、小さな嫌がらせが始まるようになったのだ。
王道なところでいえば雑用の押しつけ。まあ、この辺りはこれまでの生活と似たような感じなので、そこまで苦ではなかった。すぐに嫌がらせを察して所持品は部屋に引き上げたので、物が消失したこともない。
案外苦痛だったのは、無視とは逆でやたらと色んな輩に絡まれるようになったことだ。初めはバイト明けの時間を夜遅くまで拘束され、その侵食度は早朝や放課後にまで伸びていき、特にナギが大学に駆り出される期間に入ってからは、自分一人の時間などほぼゼロに等しくなった。
仲のいい友人はいつつも、基本的には一匹狼だった自分だ。自分のやりたいように勉強も料理もできず、一瞬の気も抜けない状況が果てなく続くのは、かなりのストレスだった。
おそらく嫌がらせの主導権を握っているのはニック辺りだろう。敵ながら天晴れ。よくこちらのことを見ている。
ナギに対しても思ったが、その観察力はぜひとももっと有益な場面で使ってくれ。
とりあえず、少なく見積もってもグループエントリー締切まではこの嫌がらせが続くと見て間違いないだろう。
向こうの目的にはこちらの成績を下げることも含まれているだろうし、こうなったら意地でも成績を下げてなどやらない。仕返しは、体術試験でたっぷりとしてやる。
そうやって自分を奮い立たせたものの、騒がしい悪意を纏った日々は、想像以上に早く自分の精神を侵していった。
「ユキ、今度はここ教えてくんねぇ?」
「……それ、この前教えたとこと、ほとんど同じじゃねぇか。」
「え、マジで⁉ 全然分かんなかった!」
何をいけしゃあしゃあと。わざとらしさが滲み出ているではないか。少しくらい演技の勉強でもしてこい。
ユキは苛立ちを抑え、なんとか静かに言葉を紡ぐ。
「そこの公式については、前に死ぬほど分かりやすく資料作ってやっただろう。あんなの、ほとんど答えだぞ。勝手に周りにばらまけとも言ったはすだ。」
「そうなんだよー、あれめっちゃ助かった! だからここもユキから直接教わりたくてさぁ。」
「おい、いつまでユキのこと占領してんだよ。こっちだって訊きたいことあるんだから、さっさとしてくれよな。」
「悪ぃ、悪ぃ。ユキ! 頼むわ!」
寄ってたかってこいつらは。こういう時だけは呼吸がぴったりなことで。
「………」
ユキは黙って腹に力を入れ、呼吸を整えることに集中する。
自分もまだまだ甘い。味をしめられる前に、ニックたちの魂胆に気づくべきだった。
普段話しかけてこないような奴らに声をかけられて、確かに妙だなとは思ったのだ。とはいえ、相談の内容は授業で分からない部分を教えてほしいというものだったし、話を聞いてみれば絶望的に授業の内容を理解していないときた。
これは期末試験どころの話ではない。
普通に理解度の低さに驚いてしまい、律儀かつ丁寧に対応してしまったのが全ての間違い。
実際に自分から教えを受けた生徒の好評価はニックたちの手によって誇張され、あり得ない速度で学年中に広がっていった。
つまり、今自分に群がってきている奴らは、必ずしもニックたちに協力して嫌がらせをしているというわけでもないのである。
(さすが育ちがいいだけあるな。自分の責任にならない人の操り方は知ってるってか。)
人の隙間から様子を窺えば、ニックたちがこちらを見てほくそ笑んでいるのが分かった。
さて、今日はどう乗り切るか。
回らない頭で考えていると。
「はいはーい、失礼!」
ふと響いた声。
次は誰だ。
そんなことを思いながら無視を決め込んでいると。
「ユキ!」
かなり強く腕を引かれた。
「ああ……トモか。」
ようやく相手を認識し、ユキは倦怠感を滲ませて呟く。
「先生から呼び出し。ちょっとおいで。」
「ええ…今日は特に誰からも……」
「いいから! 緊急!」
早く立てと言わんばかりにトモが腕を引っ張ってくる。
まあ先生からの呼び出しなら断る理由もないし、そもそも断る気力自体がもうない。
ユキはトモに連れられるまま、教室を後にした。
トモがユキを連れて訪れたのは保健室だ。
「先生、さっきの話どおり、しばらく奥の部屋借ります。」
「はーい。ナミさんには伝えとくわー。」
保健医のロールがトモに手を振る。トモはそれににこやかな笑顔を浮かべて礼を言い、ユキを奥の部屋へと連れ込んだ。
「ったく、ユキはほんとに理性強すぎ!」
ユキをベッドに座らせ、仁王立ちになったトモが憤慨する。
「悪い、助かったわ…」
静かになった周囲に、無条件で力が抜ける。
「大丈夫なのか? あんな堂々とオレのこと助けて。」
「別にどうってことない。こっちだって権力持ちだ。あいつも下手に手を出せないよ。それにそんな真っ青な顔してるユキのこと、放っておけないって。ってか、こんな時に自分より他人の心配してんじゃないの。」
トモはユキの頬を両手で掴む。
「マジで最近顔色悪すぎ。ルズたちもめちゃくちゃ心配してたよ。」
「ああ…ごめん。さすがに隠すのもきつくてさ。」
「なんで隠そうとするかな⁉ 負けん気張るのも大概にしなさい。」
「……ごめん。」
これは相当心配をかけていたらしい。
トモはしばしユキを睨みつけ、やがて呆れたように息を吐いた。
「とりあえず、しばらく誰も入れないでってお願いしてあるから少し休みな。おれもここで見張ってる。事務のバイトもこっちで手を回してあるから。ルズたちがお前の分手伝うってよ。」
「何から何まで悪いな…」
「お馬鹿。むしろこんな時は頼りなさい。なんのための友達なの。」
「返す言葉もない…」
力なく笑うユキ。
なんで隠そうとしたかと言われれば、それはもちろん簡単に屈するのが嫌だったのと、トモたちを巻き込みたくはなかったから。
だが馬鹿正直にそう言えば、トモの怒りにさらなる油を注ぐことは必至。
それにきっと、言わなくたってそれは伝わっているだろう。だからこそここまで怒られているのだろうから。
「分かったら寝る。寝不足なのバレバレなんだよ。」
「ん…。その前にルズたちに礼でも言っとくわ。」
ユキはポケットから携帯電話を取り出す。
そして、その画面を見つめて疲れたように目を閉じた。
「うっわ……何、その着信量。」
ユキの表情から異変を察したトモが画面を覗き、電話とメールの着信数に顔を青くする。
「おかげで、大事な連絡が埋もれそうになって大変だよ。」
「まさか、これ夜中もずっと?」
「ああ。寝れてないのは、これの処理が追いつかないからなんだよな。まったく、ちょっと調べりゃ電話番号やメアドくらい特定されちまうんだから、プライバシーなんてないようなもんだよな。」
「いやいや、これはもう犯罪じゃん⁉」
トモがユキの肩を揺さぶる。
「ねぇ、これってナギがニックたちとグループ組むって言えば収まるんでしょ? 研究所騒ぎの時みたいに、事情話してナギに対処してもらおうよ。ユキがこんな目に遭ってるって知ったら、さすがのナギも嫌とは言わないって。」
「それはいい。」
先ほどまでの態度を一変させ、ユキはトモの手を振り払った。
「それはあいつに強要することじゃないだろ。」
「でも、さすがにこれは―――」
「いいって言ってんだよ。」
途端にトモを冷たい眼光で貫くユキ。
「あいつには…言わなくていいから。」
凄みを帯びたユキの剣幕に気圧されたトモが口をつぐむ。
その隙を逃さず、ユキは布団の中に潜り込んだ。
「やっぱり、ルズたちに礼を言うのは起きてからにするわ。色々とありがとな。」
これ以上トモに何かを言い募られる前に。
そう思ったユキは目を閉じる。
静かな室内。視界が闇に閉ざされれば、あっという間に意識がその闇に吸い込まれていく。
「………」
瞬く間に眠ってしまったユキを見下ろし、トモはやるせない表情で唇を噛んだ。
「十分、ドツボにはまってんじゃんか…。」
ぎゅっと拳を作るトモ。
そんな彼の目についたのは、枕元でひっきりなしに震えているユキの携帯電話。
トモはきつく眉根を寄せると、無言のままそれに手を伸ばした。
★
あの後、目を開けると三時間以上が過ぎていた。
その間にトモがこちらの携帯電話に色々と手を尽くしていたらしく、彼に渡された携帯電話からは迷惑メールの類は一切消えており、久しぶりに全然震えない端末を持つことになった。
さすがは親が新進気鋭のIT業者の社長だけはある。彼自身も彼に従う人々も、ハッキング等はお手の物らしい。
だからといって、勝手に携帯電話のパスワードを解読されたのは考え物だが…。
ニックにとって、下手に排斥できない上にナギの幼なじみであるトモがこちら側についたのは痛手なのだろう。おかげでルズたちも動きやすくなったらしく、その日は保健室から自室に戻るまでの道中は常に彼らが一緒にいて、こちらに寄って来ようとする連中を一人残らず追い払ってくれた。
おかげでその日はゆっくりと眠ることができた。
一度限界寸前まで追い込んだ手応えがあったせいか、翌日顔色がよくなった自分を見たニックたちの悔しそうな顔といったら、少しは見物だったかもしれない。
それからは自分に群がる連中をトモたちも一緒に対応してくれるようになった。集まってきた生徒たちのほとんどは、落ち込む成績に焦っている。実際のところ、成績上昇に繋がるなら教えを乞う人間など誰でもいいのだ。トモたちに生徒が分散した分、多少なら一人になれる時間も確保できるようになった。
結果的にここ十日ばかりの騒動は、自分を中心として勉学に対する意識が上昇していると、思ってもいなかった高評価を教師面々から得ることとなった。そして、ニックたちに言い含まれて嫌がらせを手伝っていた奴ら以外の生徒たちは単純に自分やトモに懐く始末。
図らずもニックたちは、こちらの評価上昇と人脈形成に一役買ってしまったのである。
狙い通りだ。
トモたちと結託して、あえて周囲の我が儘に付き合ってやって甲斐があったというもの。
よく寝て考えが回るようになったらすぐにニックたちの策略の穴が見えたので、トモやルズたちにそういう提案を吹っかけたのだ。調子に乗ったトモたちが些か手厚すぎるサービスをしていたことが珠に傷だが、まあそのくらいは大目に見ておこう。
そしてまた数日が過ぎ。
(はあ…今週も長かったな…)
欠伸を噛み殺しながら、金曜日の朝を迎える。
ひとまず今日を乗り越えれば土日が来る。今週はバイトを入れていないし、素直に実家にでも避難しておくのがよさそうだ。
ユキは静かな廊下を一人で歩く。
こういう時は早起き体質にも感謝だ。ほとんどの生徒たちは夜更かしをする分朝に弱いので、この時間はほぼ確実に一人でいられる。
教室のドアをくぐり、いつもそうするように机の上に鞄を置いて椅子に手をかけた。
「いって!」
椅子の背を掴んだ手の平に激痛が走って、反射的に腕を引っ込める。
手の平を確認すると、剥き出しのカッターの刃が深々と刺さっていた。椅子を確認すると、椅子の背もたれとそれを支えるパイプの間にセロハンテープが張ってある。おそらくはカッターの刃を固定するためのものだろう。
「おいおい、シャレになんねぇぞ…」
さすがに背筋に寒気が走った。
ニックたちの嫌がらせはトモたちとぶっ潰してやった手前、今度は彼らがどんな手に出るのか。
それはトモたちとも話題にしたことではあった。
自己中心的なくせに臆病な彼らのことだ。下手に大騒ぎになって自分が矢面に立つような手は打ってこないだろう。
よく彼らのことを知っているらしいトモはそう語っていたが…。
確実に自分が一人になる時間を狙ったこの犯行。少し身の回りには気をつけた方がいいかもしれない。
(あいつら…どうせオレが誰にも言わねぇって分かってやがるな。)
いくら頼れと言われても、頼れる場面とそうじゃない場面がある。こんな風に直接的に危害を加えられれば、友人だからこそ遠ざけておきたくなってしまうじゃないか。
ユキは逡巡する。
結果、鞄からポケットティッシュと絆創膏を取り出して、ひとまずは怪我の手当てをする。
そして件のカッターの刃については、軽く血を拭き取った上で紙に包み、ペンケースの奥底に突っ込んでその存在を隠した。
これが大きな過ちだと。
そう気づくのは、その夜のことだった―――。
★
「お疲れ、ユキ。」
事務のバイト終わり。
寮の入り口で待っていたらしいトモが手を振ってくる。
「そっちもな。わざわざ待ってなくてもいいって。」
最近はなんだかんだと少しだけ落ち着いてきたではないか。
郵便受けから郵便物を取り出しながらユキが怪訝そうな反応をすると、トモは途端に目くじらを立てた。
「お馬鹿。ついさっきも、ユキ目当てに待ち構えてた奴らを丁重に返したとこだったんだよ? 油断したらあっという間にたかられるじゃないの。」
「ああ、そうだったのか? もう教えるのにも慣れてきたから、瞬殺してやったのに。」
「もう! ユキがそんなんだから、あいつらが調子に乗るんじゃん。だから言ったでしょ? ユキは人道的にだめってこと以外には案外甘いって!」
「なんでお前が怒るんだよ…。」
こっちはバイトで疲れているのだ。
下手に断ってずるずると粘られるよりも、さっさと対応して帰ってもらった方がいいではないか。
ユキはトモ側の耳に指を入れて、トモの説教を嫌がるように顔を背ける。
「最近は課題をクリアしねぇと先は教えないって突っ返してるから、まだマシだろー? それで泣く奴はトモんとこに行ってるじゃんかよ。」
「ユキさ、その天然のアメとムチが一部にはたまらなくウケるって知らない?」
「はあ?」
何を言っているのだろう、こいつは。
そんなユキの心の声を視線から感じたのか、トモは片手を額にやる。
「やれやれ…。一度変なのに絡まれないと分かんないかな…。ああでもユキって一度自覚したら遠慮なく自分の武器にするから、知らない方がいいのか…?」
「何ぶつぶつ言ってんの?」
「いや、なんでもない。」
トモがぶんぶんと頭を振るので、ユキは不思議そうに小首を傾げるしかない。
「それはそうと。ユキ、今週バイト休みだったよね。」
ガラッと口調を変えたトモがそんなことを訊いてきた。
なんだか無理矢理話題を変えられたような気がしなくもないのだが、突っ込むだけ無駄か。
そう判断したユキはトモに話を合わせることにする。
「そうだけど?」
「ちょうどいいや。」
ユキの答えを聞いたトモは表情を輝かせ、ユキの肩に自分の腕を回す。
「車手配すっからさ、おれの別荘にでも行こうよ。ルズたちも一緒に。」
「別荘?」
「そ。ユキのことだから、今週は実家にでも帰っておこうとか思ってたでしょ? 最近他人のことばっかで自分の勉強は手が回りきってないだろうし、静かなとこでゆっくりとさ。」
「ほー…で? その本心は?」
「久しぶりにユキの飯が食いたいな~って。」
「んなことだろうと思ったわ。」
どいつもこいつも食い気ばかり。
呆れたユキは溜め息を吐きながら廊下を進む。
「別にいーじゃん! ルズたちも楽しみにしてるし! ちゃんと勉強もするし!」
「そういう奴に限って遊び出すっていうな。」
「ユキー!」
「ああもう、別に誰も行かないとは言ってないだろ!」
まるでどこかの馬鹿のようにくっついてくるトモを引きはがし、ユキは振り返って彼と向かい合う。
「ありがとな。気ぃ遣ってもらって。」
冗談でいつもの掛け合いをやったものの、トモが自分を気遣ってこんな提案をしてくれたことは分かりきっている。
「マジでいい友達持ったと思うよ、オレ。ナギも本当に馬鹿だよな。こんないい奴が隣にいてくれたのに、今の今まで放置なんだもんな。」
トモは自分と同じで努力型のタイプなのだが、その分彼はいたくプライドが高い。積み上げてきた努力と創り上げてきた実力に自信を持っている彼は、誰もが親しみやすいキャラをしていながらも、決して誰にでも優しいわけじゃない。自身が認めた相手以外には容赦がないというのは、一部に恐れられながら大勢の人々に知られていることだ。
その反面、彼は自分が認めた相手のためにはどんな労力も惜しまない。別の誰かから反感を買うリスクを負うことを承知で、自分のことも他人のことも使ってみせる。
そんな彼に味方についてもらっているのはとても心強いと思う。
「トモが俺のことを甘いって言うなら、トモはちょっと思い切りがよすぎるよな。嬉しいけど、ほどほどでいいんだぜ? ちゃんと自分のことも守れよ。」
今回の件でも思ったが、トモは少々突っ走り気味な面がある。
それなりの金と権力がある分自分よりも表立って動けるのかもしれないが、それで余計な火の粉を浴びる必要などないのだ。
自分の身は自分で守ってこそ。
でもそれだけのことができてしまうほど、彼にとって認められる相手というのは大事なのだ。
数え切れないくらいの人々と知り合ってきた彼は、それこそ自分よりもひどい人間たちを見てきただろうから。
彼と話して、それは分かっているつもり。
だから。
「ほんとにありがとな。」
ユキは柔らかい笑みを浮かべる。
いつも自らを叱咤して気を張った日々を過ごしている自分は、普段は笑うことと全然縁がないけども。
こんな時くらいはちゃんと気持ちを伝えておきたい。
「ユキ…」
トモが目を大きく見開く。
「お前、やっぱずるいって!」
何故かそんな抗議じみた言葉を返されてしまった。
「なんだよ、それ。」
苦笑しながら、ユキは自室のドアノブに手をかける。
「っ!」
ユキは目を見開く。
次の瞬間、反対側の手に持たれていた郵便物が床にバラバラと落ちていった。
「おお、どうした?」
驚いたトモが郵便物を拾う。
「いや、なんかちょっと手が痺れて…。」
ユキは両手を握ったり開いたりする。
手が動かなくなったのはほんの一瞬。今は特に異常もないようだ。
「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫。拾ってくれてありがとな。」
深くは考えず、ユキはトモから郵便物を受け取る。
「やっぱ、体調悪いんじゃないの?」
「んー…そんな感じはしないけどな。」
ユキがそんなことを呟きながら玄関に入ると、当然のように後ろからトモも入ってきた。
「……何?」
まさか普通に上がり込まれるとは思っていなかったので、ユキは半目でトモを見やる。
そんなユキに、トモは片手を差し出した。
「ケータイ。」
にっこりと笑うトモ。
「一応訊くけど、何をするつもりだ?」
嫌な予感がプンプンする。
「そろそろまた迷惑着信が来てるでしょ? ブロックしつつ、逆にウイルス送り込んでやんよ。」
トモの目は本気だ。
言われて見れば、トモの小脇にはノートパソコンが抱えられている。どうやら自分を寮の入り口で待っていた目的はこれが大きかったらしい。
「犯罪はやめとけ。ブロックだけでいい。」
ユキはそうとだけ言って、素直に携帯電話を渡す。
確かに最近、ちょくちょく携帯電話が震え始めるようになってきた頃。ブロックしてもらえるのは純粋にありがたい。
「ちぇー」
トモはつまらなそうに唇を尖らす。
好きにさせれば暴走することもあるが、逆にちゃんと前もって制止しておけばある程度のブレーキはかけられる。トモの突っ走り癖を笑える程度で許せるのは、こんな風に彼がちゃんと話を聞いてくれるからだ。
「じゃ、おれはさっくり対処しとくから、シャワーでも浴びてきなよ。」
「おう、そうするわー。」
さすがはナギを立派なストーカーに仕上げるだけあって、こちらの生活リズムは熟知しているようだ。
今さらなので突っ込みはせず、ユキは荷物を整理してから脱衣所へ向かう。
このまま、今日は平和に終わるはずだった。
事件が起こったのは、風呂上がりのこと。
「……ん?」
ふと異変を感じ、ユキは首にかけていたタオルから手を離す。
なんだろう、また手に違和感がある。
左の手の平には今朝の傷口が。水に濡れたことで皮膚がふやけた傷口には、また新たな血が滲んでいる。
確かに手は痛いのだが、それだけじゃない。
あるのは痺れと倦怠感。それが手だけではなく、二の腕辺りにまでずっしりとのしかかっているような気分。
やはり実は体調でも崩しているのだろうか。
首を捻っていると。
「ユキー、終わったー。悪いけどもう一回パスワード設定してくれるー。」
脱衣所の向こうからトモの声が。
「ああ、今行く。」
生返事をしたユキは脱衣所のドアを開けて、段差から足を下ろす。
しっかりと床を踏み締めたはずの足は、突如として崩れた膝を支えられずにそのまま平衡感覚を失ってしまった。
「ユキ⁉」
大きな物音にびっくりしたトモがすっ飛んでくる。
「ユキ、どうしたの⁉ ユキ⁉」
「……、…」
ユキは喉元に手をやる。
なんだこれは。
手も足も上手く動かない。
それだけじゃなくて、突然喉や頭も冷たい痺れに侵されていくようで。
「―――――ユキッ‼」
トモの声が、遠い闇に消えていく…。




