10時間目 移ろうのが人の心なら、オレは…
あーあ。
見事にやってしまった。
黒歴史のアップデート完了だ。
(どうしてオレはこう…)
ユキはまた布団の中で悶々と悩む。
一度ならず二度までも。自分は馬鹿なんじゃないだろうか。
(いや、でも最後まではしなかったし! ……だからなんだ! アウトだけどセーフ……いやセーフだけどアウトか⁉ もうよく分かんねぇっ‼)
なんだか自分でもどうしてこんなに焦っているのかが分からなくなってきて、ユキは両手で髪の毛を掻き乱す。
一回だけなら、まだとっさの出来心だと言えた。
なら二回目はなんだ?
考えてもよく分からない。
なんだか衝動的に、またあの泣き顔を見たくなって仕方なくなって。
一回目の時に得てしまった快感を思い出してしまった後だったから、余計に理性は衝動に流されてしまって。
我に返った時にはもう、色々と手遅れになった後。
よくあのテンションを保ったまま、ナギを部屋に送り届けるまでできたと思う。下手すれば、ナギをシャワールームに置いて逃げ帰っていたかもしれなかった。内心は、それくらいに動揺していたのだ。
でも……
だって……
(あいつが、あんな顔するから……)
夏休み中に悩んだ時とは違う感情が心をかすめていく。
嫌でも分かるのだ。
自分と接する時だけは、ナギの表情が明らかに違うんだって。
怒られて落ち込むのも、不服そうに唇を尖らせるのも、甘えたように瞳を潤ませるのも、全部自分と一緒にいる時だけ。
笑顔だって、自分の前とその他の前とではあんなにも違う。
自分の前にいる時だけは、ナギは決して空っぽな人間じゃなかった。ちゃんと自分の意思で行動する、普通の同級生でしかなかったのだ。
そして、ナギが今まであんな風に流されて動いていた事情だって、今なら少しは仕方ないと思える。
でもそんなことになったら、自分がナギを嫌う理由なんてなくなってしまうじゃないか。
こんなところで自分の柔軟さが自分を追い詰めていく。
別にナギのことは生理的に無理というわけではない。明確な理由もなく彼を嫌うのは違うと思うし、そもそもそれは人としてだめだろう。
(理性のせいで逃げ場をなくす、ね…。ほんとにな…。)
トモの指摘が苦く胸に広がっていく。
考えに考えるのが自分の性分。あまり直感で動くようなことはしない。
だからこそ自分は、相手から受け取る言葉の一つ一つを、どうしても軽くは聞き流すことができない。
『ユキがちゃんと俺を見てぶつかってくれる人じゃなかったら……知らずに済んだのにな。』
『俺は当然のように上に立ってて、下にいる普通の人たちとは違うって、そう言われてきたし、俺もそうなんだって思って疑わなかった。』
『上じゃなくて同じ場所にいてもいいんだよって、みんなと同じ目線に下ろしてもらえたような気がしたんだ。本当に、本当に嬉しかったんだよ。』
ナギの言葉が意識の中に波紋を広げては消えていく。
(ひどい境遇だ…)
それは素直な感想。
全てが当然のように手に入る代わりに、自分も全てにおいて当然のように完璧を求められる。
ナギがいるのはそんな世界。
ナギにとってはそれが普通で、だから彼はあんな風にけろっとしているけれど。
自分にとって、そんな世界は息苦しい地獄に他ならない。
いいじゃないか、完璧じゃなくたって。
当然のように上に立っていなければいけないなんて、疲れた時に少し座ることも許されないのか。
彼だって一人の人間だ。決して機械なんかじゃないんだ。
手を伸ばしてやったって、頑張らなくたっていいんだって、そう言ってやったってよかったじゃないか。
(トモがあいつを放っておけないって言った理由……今ならなんとなく分かるな。)
ユキは瞼を伏せる。
移ろうのが人の心。
変化があれば想いもまた変わっていく。
ならば。
(オレもそろそろ…受け入れないといけないのかもしれないな……)
そんなことを考えながら、微睡みの波に流されて、ユキは静かに瞼を下ろした。
★
翌日、朝からクラスはざわめいていた。
登校すると、全員の机に一枚の封筒が置かれていたのである。
二年生ともなれば言われずとも何か分かる。
二学期の期末試験内容の通達だ。
この学校では中間試験などといったものはなく、この期末試験で成績の七割が決まる。あらゆる不正を防ぐため、試験内容は理事長を始めとする上層部で決定。一般の教師ですら、通達日にならないとその内容が分からないという徹底ぶりだ。
こういう時は理事長が変装の達人でよかったと思う。おかげで自分が理事長とまで繋がりがあるとはバレていないからだ。こんなことまでバレたら、さすがに金持ち連中に抹殺されかねない。
ユキは自席につき、その封筒を躊躇いなく開く。
封筒の中には一枚のプリントが入っていた。
今年の期末試験は三つ。
一つ目は全教科複合方式の筆記試験。
二つ目は学校が用意した精鋭五人を相手にした、総当たり方式の体術試験。
三つ目は自由課題論文を最低五千文字以上、二か国語で提出。
それら三つの試験結果を総合的に評価。その評価の計算式は明らかにされていない。
さすがは将来国を背負って立つ人材を育成する高校。二年生ともなれば難易度がすさまじく高い。
周囲でも、自分と同じように試験内容を確認した生徒たちがその厳しさに息を飲んでいる。
そんな周囲のことは気にせず、ユキは一枚目のプリントをさっと読み進めていく。
〈封筒の中にもう一通通達あり。内容については、試験当日まで守秘義務を遵守のこと。〉
プリントの最後には、かろうじて読める薄さでそんな手書きのメッセージがあった。
封筒の中を確認すると、確かに封筒の底にサイズの小さい四つ折りの紙が入っている。
なんだろうか。
疑問に思いながら、ユキはひとまずプリントを封筒の中に戻して席を離れた。
ざわめく喧騒を背に屋上へと上がり、誰もいないことを確認してから再度封筒の中身をあらためる。
「………」
守秘義務を命じられた通達の内容。
それを確認したユキはすっと目を細める。
期末試験の一つになっている体術試験。それにおいて、学校側が用意する精鋭部隊を担当するように。
一見では気づかないように封筒の底にしまわれていたのは、いわゆる任命書というやつだった。
精鋭部隊を担当するに当たって、自分については体術試験の評価方法が他とは異なること。その評価方法は一切教えられないこと。
当日の動き方については、試験開始三十分前に担当者から呼び出しがあるとのこと。
そして内容を確認したら、試験内容のプリントに書かれているメッセージを消し、この通達については即刻処分すること。
最後まで通達を読んだユキは思わず息をつく。
なるほど。精鋭部隊は同じ生徒の中から選ばれるのか。
と、いうことはだ。
頭によぎるとある懸念。
それを確かめるために、ユキは携帯電話を耳に当てた。
「やあ。君ならすぐに連絡を寄越すと思ったよ。」
電話に出た彼はおおらかに笑った。
「さて、君の疑問にはイエスとだけ答えておこう。上手くやってくれ。」
こちらが何かを言う前に電話は切れてしまう。
だが。
「……やっぱりか。」
ユキの表情にはすでに全てを悟った色が見えていた。
今電話をかけた相手はウォルト―――つまり理事長本人だ。
その彼がイエスと答えたということは、この通達は確実にナギの元へもいっている。
興味関心の差が激しいナギのことだ。どうせろくにプリントを読んでいないに違いない。下手すれば周りの話を聞いて納得して、自分の封筒など開けないままゴミ箱に捨てるかもしれない。
それならまだいいのだが、問題はナギ以外の誰かがその封筒の中身を見てしまうこと。
理事長が告げた〝上手くやってくれ〟は、ナギだけに通達を読ませつつ、確実にその通達を破棄させろということ。
あれだけの言葉で色々察せるようになったのは、果たしていいことなのかなんなのか…
自分が着実に理事長の駒として育て上げられている気がして、こんな時はちょっと複雑になってしまう。
とにもかくにも、今すぐやることは一つ。
ユキは封筒をポケットにしまい、教室に向けて踵を返した。
「なあなあ、課題論文一緒にやろうぜ!」
廊下では早くもそんな交渉をする生徒たちが。
そう。毎年どこかの学期で必ず出される課題論文は、数ある試験の中で唯一グループを組むことが認められている。当然グループを組んだ方が楽なので、生徒たちのほとんどは成績上位者に群がったり、仲のいい友人どうしで集まる。課題論文を一人で仕上げた猛者なんて、去年は自分やナギを含め十人もいなかったんじゃないだろうか。
課題論文の提出は約二ヶ月後。十二月後半に控えている期末試験最終日だ。グループエントリーの締切はその二週間前。論文を二か国語で書かなければならないことを考えると、今から仲間を見つけて動き出すのが利口だろう。そのためにこの時期に通達が出されているという側面もある。
特に二年生の二学期ともなれば、これまでの成績が芳しくなかった生徒としては何がなんでも挽回しておきたい時期だ。交渉する生徒たちの目にはいつも以上の熱がこもっている。
そんな生徒たちの雑踏を抜け、ユキは一目散に自分の教室を目指してドアを開く。
「おい、ナギ―――」
「どうせ組むならユキとがいいなー。」
出迎えてきたのは暢気なナギの一言。
しん、と静まる教室。
やがてナギを囲んでいた生徒たちがユキの存在に気づき、静まった教室の中に微かなどよめきが広がっていく。
(遅かったか……)
開いたドアの隙間で棒立ちになり、ユキは頬をひきつらせる。
このデリケートな時期。ほとんどの人間は、可能ならば虎の威を借りたくてたまらないはすだ。
そんな時に誰か一人を優先すればどうなるか。
ナギに通知を読ませつつ、それを説明してなんとか口封じをする予定だったのに。
(波乱の予感、だな…)
数人から敵意と嫉妬が混ざった目で睨まれ、前途多難なこれからを覚悟したユキだった。




