9時間目 ユキとは対等でありたいから
「ねえ、ユキ。今週の土日って暇?」
「はあ?」
ほとんど条件反射でその一言が出てきた。
またこいつは急に何を言い出すのだろう。
顔をしかめるユキに、ナギは答えを期待するように目をきらめかせている。
何を企んでいるのやら。耳と尻尾が見える気がする。
ユキは溜め息をつく。
「んなわけねぇだろうが。土曜はバイト。日曜は勉強する。」
「えええー。ユキ、働きすぎだよー。」
ナギはものすごく不服そうだ。
「うるさい。働きすぎだって思うならこんな風に押しかけないで、オレの睡眠時間を確保してほしいけどな。ほらよ。」
ユキはナギの前に出来上がったばかりのパスタを置く。
この天才め。とうとう休みの日にまで介入するつもりか。
まあどうせ興味が移ろいやすい彼のこと。食べ物を前にすればこれ以上は突っ込んでこなくなるだろう。
そう高をくくっていたユキだったが。
「んんー、やっぱユキのご飯おいし~。……じゃなくて。」
今日に限ってナギは食べ物に流れされてはくれなかった。
「じゃあ、ユキ、いつだったら暇なの?」
「暇な時なんてない。」
「むううぅ」
しっかりとパスタを食べ進めながら、ナギはまるで子供のように頬を膨らませる。
「……なんだよ。しつこいな。オレが暇だったら何があるんだよ。」
自分も食事を進めながら、聞き流す気満々で一応聞くだけは聞いてみる。
「遊ぼうと思って。」
やはりそういうことか。
ユキは躊躇いなく嫌な顔を浮かべた。
「平日四六時中くっついてるくせに、まだ飽きねぇのか? 休みの日くらいは一人でいたいんだけど。」
ここまでくると、さすがに鬱陶しいのを通り過ぎて感心してしまう。
ナギの自分に対する興味に上限はないのだろうか。なんだかんだ、こうして話すようになって一ヶ月ほど。特に何か大きな変化があるわけでもなく、毎日のように殴って叱りの繰り返し。正直、自分はそろそろこの繰り返しに飽きてきている。
「飽きないよ。だって、俺まだユキのこと全然知らないもん。」
「オレは嫌ってほどお前のことを知ったけどな。」
「もうユキってばー!」
ナギのことを見ないまま黙々とパスタを口に運ぶユキに、痺れを切らしたナギが子供のようにユキの袖をぐいぐいと引っ張った。
「だああ、しつこい! 夕飯くらいゆっくり食わせろ! お前も冷めない内に……て、早⁉」
隣を見ると、ナギの前に置いてあった皿はすでに空っぽだった。
「うん。美味しかったからすぐになくなっちゃった。ごちそうさま。」
「……冷蔵庫にゼリー冷やしてあるぞ。」
「えっ、ほんと? わ~い!」
ナギがパッと表情を輝かせて冷蔵庫へと飛んでいく。
相変わらず単純。そのまま何を話していたか忘れてしまえ。
軽くなった腕に満足し、ユキはまた食事を始める。
「……ああ! だからそうじゃないって! ユキの意地悪。食べ物でごまかさないでよー。」
「………チッ。」
ユキは思わず舌を打つ。
そろそろこの手も効かなくなってきたか。
「ユキ~。」
「し・つ・こ・い!」
ああもう、夕食くらいゆっくりしたいと言ったばかりなのに。
ユキは皿に残っていたパスタを流し込み、ナギの皿も一緒に持ち上げて席を立つ。
これはさっさと後片付けをして部屋に引きこもった方がいい。
「分かった。お休みの日とは言わないから、今日この後少しだけ付き合って。」
シンクに立って洗い物を始めるユキにしがみつくナギ。
「やだよ。」
ユキの答えは変わらない。
「ユキー」
「嫌だ。」
「ユキってば! こっち向いて!」
「はあ…だから―――」
あんまりにもうるさいから、泡のついたスポンジでも口に突っ込んでやろうか。
半ば本気でそんなことを思いながら、ユキは腕を引いてくるナギにきつい一瞥をやろうとした。
「………だめ?」
目をやった先には、うっすらと涙を溜めた上目遣いでこちらを見上げてくるナギが。
「………っ」
無意識で胸が高鳴る。
次の瞬間。
(ドキッてなんだ、オレ―――――ッ‼)
とても自分の反応が信じられず、ユキはシンクの蛇口に思い切り額をぶつける。
パッと思い浮かぶのは、もはや立派な黒歴史と化したあの夜の出来事。
勘弁してくれ。せっかく記憶の彼方に追いやることができていたのに、こんなあっさりと復活しないでいい。
しかも、やらかした相手を目の前にしたこの状況で。
「ユキ、どうしたの?」
「……頼む。今、話しかけないでくれ。」
まずい。非常にまずい。
このままでは、なんだか変なスイッチが入ってしまいそうだ。
どうにか気持ちを落ち着かせる時間がほしい。
それなのに、ナギときたら…
「ええ、なんで⁉ 今は俺、何もしてないよね⁉」
余計に距離を詰めてくる始末。
「だから、しつこいって何度も何度も…」
「だってユキがごまかそうとするから!」
「分かった! 付き合ってやる! 付き合ってやるから、今その顔でこれ以上オレに詰め寄るな‼ 十分だけ時間をくれ‼」
その捨てられた子犬のような目はいかん。
こんなんだったら、今までのような空っぽな笑顔の方が数倍ましだ。
ユキは洗い物を一時中断してナギの隣から脱兎のごとく逃げ出し、宣言どおり十分間自室に引きこもるのだった。
★
ちょっと体を動かしたい。
ナギの注文はそういうものだった。
今週はつい昨日まで研究室に缶詰めだったので、気分転換をしたいらしい。
普段絶望的に空気を読まない天才にも気疲れなんて概念があるのか。
失礼かもしれないが、普通に驚いた。
そんなナギに連れて行かれたのはまさかの体育館。鍵がかかっているだろうと思ったら、彼は当然のようにカードキーを取り出して鍵を開けてしまった。
さすがは大学からの援助を受けるための契約を交わしているだけはある。彼にはありとあらゆる特権が用意されているようだ。
ユキは重く痛む頭を引きずってナギについていく。
緊急事態に負けてナギの誘いを受けてしまったが、早くもそれを後悔している自分がいる。
こういうことの積み重ねが日頃の睡眠不足へと繋がっていくわけだ。最近はいつも維持している生活パターンが崩れに崩れているので、集中力が続かなかったり判断力が鈍ったりすることが増えた。
こういうことにも慣れていくしかない。大学生や社会人にでもなればこんなことは日常茶飯事になる。柔軟に受け止めて、どんな時でも一定のパフォーマンスを保つことができるようにならなければ。これはいい訓練だ。
そうやって可能な限り前向きに日々を過ごすようにはしている。
だが気持ちはともかく、体はまだそこについていけていない。
(さっさと終わらせて寝よ…)
そんな風に甘く考えていたら……ひどい目を見た。
ちょっと、だなんて言うから、軽く体がほぐれればいい程度の運動だと思ったのに。
「ああもう、うっぜぇ! ちょこまかちょこまかと…っ」
次々に襲いかかってくるナギの蹴りを全て避け、ユキは硬い床に転がって体勢を整える。転がった勢いを借りて立ち上がるも、その時にはすでにまたナギの攻撃が目の前に迫ってくる頃。
「その動きならもう見切ってんだよ!」
目論見どおりに誘導成功だ。
ユキはナギの拳を半身だけを動かして避け、その細い腕を捕まえる。
「わわっ」
ナギが動揺した声を上げる。そんなナギに構わず、ユキは問答無用で彼の小柄な体を床に投げつけた。
「いったー!」
「うる…せ……こうでもしねぇと、お前…止まらねぇだろ…」
ナギの腕を離し、ユキは彼の隣にがくりと膝をついた。
「ちょっと、休憩…」
「うん……俺も、疲れちゃった…」
「乱取り一時間ぶっ通しとか…馬鹿だろ……」
肩で大きく息をする二人。
何がちょっと、だ。体育の授業よりよっぽどしんどい。十月も半ばに差しかかりどんどん涼しくなってきているのに、今は暑くて仕方ない。ジャージの上着なんて着てくるんじゃなかった。
「つーか、お前さ……毎度毎度気になってたけどよ、こういう時、なんでオレにだけ本気でくるんだよ。」
頬を伝ってきた汗を拭いながらナギに訊ねる。
こんな風に話すようになる前から体育でナギと組まされることはたまにあったのだが、彼に手加減されたと感じたのは最初の一回だけ。それ以降、ナギは自分限定で本気になって突っかかってくる。
「だって、手を抜く必要がないもん。」
床に寝転がったままナギは答えた。
「実際、ユキの方が俺より足も早いしスタミナもあるじゃん。乱取りだってユキくらいしか俺の攻撃ちゃんと受けられないから、やっててすっごく気持ちいいよ。」
「体力でまでお前に負けてたまるかよ。こちとら、常に動きまくって働いてるんだからよ。」
「ふふ、そうだね。ユキらしいや。だからね、ユキには手を抜いちゃだめだなって思うんだ。」
ふとナギの声音が変わる。
それに気づいてそちらを見ると、ナギは珍しく真面目な顔で天井を見つめていた。
「こんなところでまで手加減したら、その瞬間に俺とユキは対等じゃなくなる。そんなの、俺に本気で向かってくれているユキにも失礼だもん。それに俺も、ユキとは対等でありたいから。」
その言葉は、自分が知っていた今までのナギからは飛び出すはずのないもの。
あまりにも予想外過ぎて、一瞬呼吸すら忘れてしまった。
「お前……そんなこと考えてたのか…?」
「気づいたのは、ユキによく怒られるようになってからだよ。でも多分…初めて会った時から、なんとなくそう思ってたんじゃないかなって、今だったら思う。」
ナギはそっと瞳を伏せる。
「俺は天才だって、みんな俺を見上げてくる。でもユキは…ユキだけは俺を見上げなかった。俺の能力を見てるなら見上げるか目を逸らすはず。じゃあ、この人は俺の何を見てるんだろうって、興味を持った。トモからユキのことをいっぱい聞いて、知れば知るほど、わくわくしたんだ。実際に体育の成績ではユキの方が上だって知った時なんて、ほんとに嬉しくてさ。話してみたくて、仲良くなってみたくて、一緒のクラスになれた時は飛んで喜んだよ。」
「負けて嬉しいって、やっぱずれてんな…。」
苦し紛れに苦言を呈するユキ。
このままではまずい。
今だかつてない動揺がそんなことを告げてくる。
何か憎まれ口を叩いていないと、自分の中で何かが壊れてしまいそうだ。
危機感が脳内で警鐘を鳴らす。
「だって、俺は負けたことがないんだもん。トップに立ってたってなんにも感じない。それは俺の普通。俺は当然のように上に立ってて、下にいる普通の人たちとは違うって、そう言われてきたし、俺もそうなんだって思って疑わなかった。」
そこで瞼を上げるナギ。
「でも、ユキがそうじゃないって言ってくれた。」
真っ直ぐに見つめられ、その瞳に囚われて動けなくなる。
「俺の体と心は同じ世界にしかないって、そう言ってくれた。あの時ね、上じゃなくて同じ場所にいてもいいんだよって、みんなと同じ目線に下ろしてもらえたような気がしたんだ。本当に、本当に嬉しかったんだよ。」
ナギが笑う。
「ユキ、ありがとう。」
あの時の〝ありがとう〟は、そういう意味だったのか。
自分は何気なく、ただ思うことを言っただけだったけど。
そんな一言が、こんなにも彼を変えていて。
だめだ。
抗えない。
がらがらと、自分の中で何かが崩れていく。
理性を押し流していくのはなんだろう?
空っぽだったナギに何かを与えてやった満足感?
自分の言葉だけがナギに届くんだという優越感?
それとも、もっと彼に色んな顔をさせてみたいという欲望?
「―――……」
体が震える。
ああ……嫌な予感はしていたんだ。
キッチンルームで久々にナギの泣きそうな顔を見た時から。
何かが……何かが変わってしまうような、そんな気がして。
あの時に思い出してしまったのは、過ちを犯したことに対する後悔だけではなかったから。
「……ユキ?」
黙りこくったユキの異変を察したのか、ナギが体を起こしてその顔を覗き込もうとする。
そんなナギの手首をユキが掴む。
「―――来いよ。」
その口からこぼれたのはいやに静かな声。
「え…? わっ⁉」
突然手首を引かれたナギが素っ頓狂な声をあげる。
そんなナギの顎先を捕らえ、ユキは真ん丸に見開かれた茶色い双眸を間近から見つめた。
「今度はお前が付き合えよ。―――こっからはオレのターンだ。」
妖しげな微笑みを浮かべたユキの指が、そっとナギの顎のラインをなぞった。
★
「ひゃっ…冷た!」
上から降ってくる水の冷たさに、ナギの口から高い悲鳴が漏れる。
「大丈夫だよ。どうせすぐ温かくなる。」
体育館に備えられたシャワールームにナギを押しやったユキは静かに告げる。
「ってか、服が…」
唐突なユキの変貌についていけないナギは、戸惑いながら視線を右往左往させている。
「着替えは持ってきてあるから平気だろ。」
シャワーの水でどんどん濡れていく服。
だがそんな事、今はどうでもいい些末な問題でしかない。
今はそんな事よりも―――
「ユキ…ちょ、ちょっとまって……」
「聞こえねーな。」
「ユキッ…んっ……」
珍しく狼狽えるナギの制止を聞かず、ユキはナギの唇を自分のそれで塞いだ。
「んんっ、んっ…」
舌を優しく絡めながら、指で耳や首筋をじれったいほどゆっくりとなでる。すると、ナギの体が小刻みに震えた。
「あ…ユキ……だ、誰か来たら……っ」
顔を赤らめたナギが必死にユキの胸を押し返そうとする。
「へぇ、お前も恥ずかしいとか思えるのな。まあ、知らねーけど。」
「ユキ…っ」
「嫌なら逃げろよ。今日はこの間みたいに、無理矢理押さえつけてはいないだろ?」
「ああっ」
ユキが軽く耳朶を甘噛みすると、ナギが一際高い声をあげる。それはシャワールームの中に大きく響き、途端にハッとしたナギが慌てて口元を押さえた。
ユキは一度噛んだ耳を労るように優しく舐めて、首筋に唇を這わせる。それで喘ぎ声を我慢するナギの反応に微笑みつつ、鎖骨の近くで強くその肌を吸う。
「んんっ…」
きつく両目を閉じて刺激に耐えるナギ。
「どうした? 抵抗しないのか?」
ナギの肌に赤い花びらを落としたユキの手が、ナギの服の中へと潜り込んでいく。
「ひゃっ…」
ナギは大きく肩を震わせるだけだ。
「ほら、抵抗してみろって。今まで、負けたことなんてないんだろ? このままだと、また前みたいにオレに負けるぞ?」
煽るように言いながら、胸の尖りを軽くはじいてやる。
「あっ…ううっ……」
ナギの体が跳ねる。
ユキは決して力で押さえ込めず、あくまでも優しくナギの体を昂らせていく。
「は…あ、ああ……ユ、キ…」
ユキの服から力を失ったナギの手が落ちる。
「なんだ。これくらいで限界?」
膝が今にも砕けそうなナギを軽く支えてやり、ユキは意地悪な笑みでその耳元に囁く。
「ううっ…ユキ、の…いじ、わるっ」
「嫌なら逃げろって言ってるだろ? ……まあ、もうそんな力も残ってないか? まだ触ってもないのにこんなんだもんな?」
「んんんっ」
ズボンの上から熱く反応しているそれをなぞると、ナギが苦悶の表情を浮かべて必死に声を殺した。
「ユキ…も、無理……」
ナギが上がりきった呼吸の合間にそう訴えてくる。
シャワーの水がどんどんナギの頬を伝って落ちていく。
しかし彼の頬を濡らすのは決してそれだけではなく……。
「オレさ、お前のことは色んな意味で嫌いだったんだよな。だけど一つだけ、ちょっといいなって思うことがあるよ。」
じれったい愛撫を続けながら、ユキはふとナギの目尻に唇をつけた。
ぺろりとそこを舐めると、しょっぱい味が舌に広がっていく。
「その泣き顔は割といいかも。なんかそそる。」
「やっ……ユ、キ…ユキッ…」
腰をなでると、ナギがいやいやと首を振る。
違う。
欲しいのはそんな刺激じゃないと。
ぽろぽろと涙を流すナギの顔と大きく震える体が訴えている。
――――ちょっと可愛いな、なんて。
そんなことを思ってしまって、ユキはくすりと笑って肩をすくめる。
「仕方ねぇな。」
「あああっ!」
散々じらした後だ。
ぬるりと濡れているそこを直に触ってやると、面白いくらいにナギの体が跳ねた。
「ふっ……んっ…ああっ、あうっ……うっ……」
快感に流されそうになりながら、それでも一生懸命声を抑えようとしているナギ。
「ほら。こっち向け。」
口を押さえるナギの手をどかして、ユキは手の代わりに自分の唇でナギの口を塞いでやる。
「んっ…んんっ……」
舌を差し入れて深い口づけを交わすと、快感で身悶えるナギがどこかほっとしたように力を抜くのが分かった。
このまま口を塞いでいてくれと。
そう訴えるように、ナギが両腕を首に回してくる。
(仕方ない奴……)
ユキはより一層激しく舌を絡め、空いている片手でナギの頭を優しく抱き寄せた。




