ごきげんよう 2
葉子の朝は早い。
それは異世界に来てからの習慣でもあったし、隣で眠る男よりも早く起きてやろうという毎日の日課のようなものでもあった。
だが、
「おはようございます。今日も早いですね」
今日も赤い髪の悪魔は煙草を吹かせて葉子の寝起きを迎えるのだった。
そうして不機嫌にラウヘルを追い出し、身支度を整えて空腹を抱えて台所へと顔を出すと青い顔をしたゲミュゼが葉子の前に立ち塞がる。
「おはようございます奥様。まだ支度中ですのでしばらくお待ちください」
葉子の流れるように立ち入りを禁止されるので、今度は朝支度に忙しいメイドのフェンを捕まえる。
「あとは拭き掃除だけですので、奥さまはごゆっくりなさってください」
雑巾すら渡してもらえず、葉子はフェンに窓の前から追い出された。
そもそも、メイドは主人たちが起きる前に掃除を終わらせなければならないようだが、この家にはメイドはフェンだけだ。メイド長のロッテンマイヤーと共に無駄にだだっ広い屋敷の窓を拭いてまわる作業は日が昇っても終わるものではない。
「奥さま」
硬質な声の持ち主は、振り向かなくても分かったが葉子は渋々振り返る。
「おはようございます。本日もお早い御起床で何よりです」
完璧なオールドミスらしい首まで詰まったドレスをまとったロッテンマイヤーは早朝だろうが深夜だろうが変わらない鉄面皮だ。
「申し訳ございませんが、まだ朝食の支度が整っておりませんので食堂でお待ちください」
否を受け付けないロッテンマイヤーに「はい」以外の返答を出来ず、葉子は結局食堂へと放り込まれる。ついでのように渡された温かい飲み物が彼女と幾らか打ちとけた成果のように残された。
「今日も追い出されましたね」
「……大きなお世話ですよ」
再び顔を合わせたラウヘルの薄笑いを睨みながら、葉子の一日は始まるのだった。
朝食のあとラウヘルは仕事に出かけていく。
一国の宰相となるとどんな仕事であるのかただの派遣社員だった葉子には想像もつかなくて質問をしてみたが、
「つまらない仕事ですよ。右のものを左へ、左のものを右へ持っていくだけの仕事です」
よく分からない返答だったが、所詮葉子には分からない仕事なのだろうということだけは分かった。あと、性格が悪くないと務まらない仕事だということはよく分かった。
「適当に仕事を切り上げて、また休暇でもとってきますよ」
部下の人が可哀想だと思うのは葉子の考え過ぎだろうか。
その後も葉子はフェンとロッテンマイヤーに仕事を取り上げられ続け、ゲミュゼと畑を耕したあと、図書館に引きこもる。
そうしていると最近新しく雇った従僕が気を訊かせて甘い飲み物を持ってきてくれる。
「奥さまは本が本当にお好きですね。最近読んだ本は何ですか?」
どちらかと言えば付き合いの悪い使用人たちの中で群を抜いて愛想のいい彼はにこやかにそんなことを聞いてくる。
「毒草百景。この辺りの森は毒草が多いから」
「……また一人で森に入ったんですか」
葉子が黙秘権を行使するとすんなり引き下がってくれるところも他の使用人たちと違うところだ。
こんな話をしているとロッテンマイヤーが葉子を探して呼びに来る。昼食だ。
本日はゲミュゼの自信作だというから何かと思えば、このあいだ台所を使わせてもらうときに取引をした、異世界の料理のレシピを実践したらしい。
「グラタン…!」
このチーズのとろけ方といい、匂いといいそれは葉子の曖昧な記憶のレシピを試したとは思えないほどの出来具合だった。
ロッテンマイヤーのマナーに厳しい視線から逃れるようにしてレンゲを手にとって口に含むと、魚ときのこがクリーミーなソースと共にあつあつと舌で躍った。
はふはふと噛みしめると懐かしさと熱さで涙が出そうになる。
この世界には、焼くと煮るを合体させた料理は少ないのだ。チーズのようなものはあっても、料理に使う習慣はない。扱いは酒のつまみに単体で食べる保存食である。
「おいひい、しあわせ…」
「食べ物を口に入れたまま喋らない」
本日もロッテンマイヤーの指摘は冴えている。
幸せの昼食を終えると、葉子はゲミュゼにお礼を言いに行った。
「ありがとう、ゲミュゼさん! 美味しかったです!」
「奥さまのレシピをアレンジしただけですよ」
暗に足りないところがあったと言われているような気がしたが、美味しいものが食べられるなら本望だ。
葉子は今度は天ぷらのレシピをゲミュゼに吹き込むことにした。
レシピを教えたところでフェンを捕まえ、今度こそ葉子はホウキを奪い取る。
「奥さま!」
「今から玄関掃くんでしょ? 掃いてくる!」
走り出したらフェンは諦めたようで、葉子はようようと玄関先の無駄に広いホールの掃き掃除を始めた。
それにしても、と大理石のような石が敷き詰められた冷たいホールを掃きながら、葉子は天蓋のように頭上に広がる採光用の窓を見上げる。乳白色の天上は陽光以上に明るい。
人の気配の少ない屋敷とは思えないほど磨き上げられたホールには、葉子が掃いている床ぐらいしか掃除するところはない。ここは毎日人が出入りするところ (主に主人であるラウヘルが通勤時に通る) なので毎日フェンが掃除しているぐらいだ。
(ホント、信じられないよね…)
複雑な事情が重なったとはいえ、アルバイトで食費を稼いでいたような葉子が今や貴族のお屋敷で三食昼寝付きだ。人生には予想もつかないことが起こるものだ。
「――何をなさっておいでですか。奥さま」
こうやってロッテンマイヤーに怒られるのも、慣れたものである。
静かに怒りを湛えた彼女はひやりとするほど恐ろしいのだが。
あらかた掃除は終わっていたものの、ロッテンマイヤーに再び追い出された葉子は渋々外に出た。
天気もいいから外に出て良いと条件を飲ませたのである。
この屋敷は広いが、庭には点々と木が植えられているだけの愛想もそっけもない庭である。庭の向こうには門へと続く道があり、その周りは広大な森に囲まれている。この目に見える敷地全てがこの家のものだというから、葉子が少しぐらい歩いただけではとてもではないが踏破することは難しいだろう。
しかし庭の周囲の森ぐらいは日の高いうちに入ることが出来る。
葉子は周りに誰もいないことを一応確認すると、森へと踏み入った。
この森は薄暗いが、躊躇するほど暗いわけではない。
それにラウヘルの兄が執念深く調べた資料のお陰で大方の植物の分布と道を覚えたので、葉子には怖い森ではなくなっていた。
庭に植えられている木を標本していたのもその兄である。
食べられるのではないかと推測されたその木がコーヒーの木だと気付けたのは彼のお陰だった。
「あ、これさっき本で読んだ草だ」
暇を見つけては森に踏み入り、本と標本を照らし合わせてみるのはなかなか面白い。
夢中になって草むらをかき分けているとやがて日が傾いてくる。
そうなって、ようやく葉子は顔を上げて森を出る。
そして、
「――お帰りなさいませ。奥さま」
怒り心頭のロッテンマイヤーに見つかるのである。
夕食の前にこってりとロッテンマイヤーに説教をされた葉子はふらふらになって風呂に放り込まれる。まるで見張るようにロッテンマイヤーが風呂場の手前で待ち構え、適当に小奇麗な服を葉子に着せた頃、仕事を適当に終わらせたラウヘルが帰宅する。
「また怒られましたね?」
ただいま、おかえりの挨拶のあと、ラウヘルは苦笑と共に一目で今日の出来事を見破ったようだった。
葉子が黙秘権を行使するも、彼は笑うだけだ。
「一人で森へと入るのは私も感心しません。今度一緒に行ってあげますからしばらくは兄の標本で我慢してください」
「……分かりました」
「どうせまた森に入るでしょうから、騎竜を連れていってください。まだマシです」
どうしてそう見破られるのだろうかと葉子は内心首を捻って食堂へと向かう。
夕食を終えるとラウヘルは彼お気に入りのシガールームに籠るので顔を合わせなくて済むが、寝室は彼と同じだ。
実質的な夫婦の営みはまったくないものの、ベッドも同じ。
広いベッドの端と端で眠る様子は兄弟のようだった。
今日も煙草の匂いを染みつかせたラウヘルが部屋に入ってくると、葉子はすかさず窓を開ける。しかし彼の方も慣れたもので、テーブルの上に酒瓶を置く。
「少し飲みませんか」
ロッテンマイヤーは寝酒を嫌うので葉子は普段酒瓶を隠しているというのに、何処へ隠してもラウヘルはいつのまにか探し出して持ち出すのである。
「私の酒なんですけど」
「では飲まないのですか?」
「………飲みます」
こうして二人で杯を傾ける時は、ラウヘルはくだらない話をする。北に住む家畜は水の代わりに雪を食べるだとか、この国で眼鏡をかけているのはラウヘルぐらいだとか。
無駄に広い知識を披露してくれるので、いつのまにか彼の隣で話を聞いてしまうのだ。
性格は悪いが、この話上手は口から生まれてきたのではないかと思うほど巧みだった。
「そろそろ寝ないと、ロッテンマイヤーに怒られますね」
こう切り上げて、ラウヘルと床につくと彼に背を向けて葉子は目をつむる。
いつのまにかこの寝床が心地いいと感じているのだから、人間の慣れとはよくできている。
そうでもなければ葉子はこうして彼の隣で眠ることさえできなかっただろう。
(いつだって、誰かに裏切られてきたのに)
異世界に流れ着いてからというもの、信じては裏切られることを繰り返してきたというのに、どういうわけだかラウヘルは裏切らないと思う自分がいるのだ。
これが彼の思惑ならば罠にはまったも同然だが、ラウヘルに葉子を騙して得るものなど何もない。
実際、ラウヘルにとって葉子は厄介者以外の何者でもないはずだ。
埒もあかないことを考えていれば、そろりそろりと睡魔が葉子を支配していく。
悪い夢を見ないことを祈って意識を飛ばせば、葉子はぐっすりと眠れるのだ。
夢と現実の境目が分からなくなってきた頃、葉子の額を撫でる手が優しいことも忘れてしまえるほど。




