第6話 赤き森の暴君
第6話 赤き森の暴君
入学試験の翌朝。
ジン・クロードは、首都ザザンにある冒険者ギルド本部を訪れていた。
黒騎士学園の入学式までは、およそ一か月ある。昨日手に入れた《神眼》と悪魔の騎士を使いこなすためには、訓練が必要だった。
何より、悪魔の騎士を成長させるには魔石が要る。
昨夜、屋敷に保管していた魔石をすべて与えたが、悪魔の騎士の黒いオーラが僅かに増えた程度だった。
「おはようございます、ジン君!」
依頼掲示板を眺めていると、背後から聞き慣れた声がした。
「おはようございます、ナーベさん」
振り返ったジンは、栗色の髪を後ろでまとめたギルド職員へ挨拶を返す。
「昨日の入学試験はどうでしたか?」
「無事に合格しました」
「本当ですか! おめでとうございます!」
ナーベは自分のことのように顔を輝かせた。
「それなら来月からは、騎士学園の生徒ですね」
「はい」
正確には黒騎士学園だが、ジンはあえて訂正しなかった。
儀式塔で起きた異常については、学園側から不用意に話さないよう命じられている。《神眼》についても同様だった。
「入学式まで時間があるので、今のうちに依頼を受けようと思っています」
「頼もしいですけど、あまり無理はしないでくださいね?」
「分かっています。まずはこれをお願いします」
ジンが差し出したのは、魔の森におけるグレイウルフの討伐と、レッドグリズリーの痕跡調査を兼ねた依頼書だった。
グレイウルフ十体の討伐はDランク。
一方、魔の森で目撃されたレッドグリズリーは単体でBランクに分類される危険な魔物だった。
「今回は調査だけですよ」
依頼書を受け取ったナーベが、真剣な表情で念を押す。
「足跡や爪痕を見つけたら記録して、すぐに帰ってきてください。レッドグリズリーを発見しても、絶対に戦わないこと。いいですね?」
「分かっています」
「……本当に?」
「もちろんです」
ナーベの疑わしそうな視線から目を逸らし、ジンは受注票を受け取った。
それから一時間ほど後。
ジンは一人で魔の森へ足を踏み入れていた。
空を覆い隠すほど生い茂った木々。草と蔓が絡み合う地面。視界は悪く、数メートル先の様子さえ見通せない。
「まずは神眼を試すか」
右眼へ意識を集中させる。
漆黒だった瞳が黄金色に変わり、森の景色へ淡い光の輪郭が重なった。
木々の向こうに三つの生命反応が見える。
姿までは分からない。距離が遠くなるほど輪郭は薄くなり、無理に見ようとすれば眼の奥が痛んだ。
「今の限界は三十メートルくらいだな」
ジンは反応を追い、茂みを抜けた。
その先にいたのは三体のグレイウルフだった。
「出てこい」
ジンの身体から黒いオーラが溢れ、人の形へ集まっていく。
現れた悪魔の騎士は、その場でジンへ向き直り、片膝をついた。
「命令を――我が主」
「グレイウルフを倒せ」
「御意」
悪魔の騎士が漆黒の大剣を抜く。
三体のグレイウルフも侵入者へ気づき、一斉に襲いかかった。
黒い大剣が先頭の一体を斬り裂く。だが、一撃で両断するほどの威力はなく、致命傷を与えるには二度目の攻撃が必要だった。
二体目が腕へ噛みつき、三体目が背後へ回り込む。
「右だ!」
ジンの指示を受け、悪魔の騎士が身体を反転させた。
飛びかかった一体を薙ぎ払い、続けて残る二体を仕留める。
「今のままなら、Cランク上位程度か」
強いことは間違いない。
しかし、無敵には程遠い。
戦い方も直線的で、命令がなければ目の前の敵へ大剣を振るうだけだった。
その後もグレイウルフを探し、二時間ほどで依頼分の十体を討伐した。
レッドグリズリーの痕跡も見つかった。
湿った地面に残る巨大な足跡。
人間の背丈より高い場所に刻まれた爪痕。
途中からへし折られた大木。
「これだけ確認できれば十分だな」
調査を終えたジンが、首都へ引き返そうとしたときだった。
神眼の視界に、これまでとは比較にならないほど巨大な生命反応が映った。
しかも、街道へ向かって移動している。
「まずい……!」
街道には行商人や旅人がいる。魔の森の近くで薬草を集める低ランク冒険者も少なくない。
ここで見逃せば、犠牲者が出るかもしれない。
ジンは生命反応を追い、森の奥へ走った。
「グルルルルル……!」
開けた場所に、巨大な熊型の魔物が立っていた。
全長は四メートルを超えている。血のように赤い体毛の下では分厚い筋肉が盛り上がり、大木さえ引き裂けそうな爪から赤い魔力が立ち昇っていた。
Bランク魔物、レッドグリズリー。
「見つけても戦うな、か……」
ナーベの言葉を思い出す。
正しい判断は、逃げて報告することだ。
だが、軍も高ランク冒険者も前線へ送られている。討伐隊が編成されるまでに、何人の犠牲者が出るか分からない。
「帰ったら怒られるな」
ジンは右手を前へ突き出した。
「戻れ!」
悪魔の騎士が黒い霧へ崩れ、ジンの全身へ殺到する。
「――換装!」
黒い霧が右腕から肩、胸、腰、両脚へ広がった。
次の瞬間、ジンは漆黒の全身鎧に包まれていた。
「グオオオオオッ!」
レッドグリズリーが地面を蹴る。
巨体からは想像できない速さで間合いを詰め、巨大な爪を振り下ろした。
ジンが反応するより先に、鎧が腰を落とす。
黒い大剣を斜めに構え、爪の軌道を外側へ逸らした。
ガギィンッ!
「ぐっ……!」
受け流しただけで両腕が痺れた。
右肩の装甲へ亀裂が走り、黒い破片が霧となって散る。
「力では完全に向こうが上か!」
ジンは大剣を横薙ぎに振るった。
刃が赤い毛皮を斬り裂く。
だが、傷は浅い。分厚い筋肉まで届いていなかった。
「グオオッ!」
怒り狂ったレッドグリズリーが、前脚を振り上げる。
神眼を発動すると、肩から前脚へ赤い魔力が流れていくのが見えた。
「右から来る!」
攻撃が放たれるより先に、ジンは左へ跳んだ。
巨大な爪が地面を抉る。
魔力の流れを見れば、攻撃の予測はできる。
未来が見えるわけではない。
集中が遅れれば、回避は間に合わない。
ジンは攻撃を避けながら、レッドグリズリーの全身を観察した。
赤い魔力は胸の奥から全身へ巡っている。だが、正面からでは分厚い筋肉と骨に阻まれ、急所まで刃が届かない。
「なら、背後からだ」
ジンはレッドグリズリーの顔へ左手を向けた。
漆黒の腕へ、ハンドガン型の魔銃が出現する。
銃身に刻まれた《爆炎》のルーン文字が、真紅の光を放った。
「喰らえ!」
轟音とともに爆炎がレッドグリズリーの顔を包み込む。
「グオオオオオッ!」
赤い巨体が炎の中で暴れた。
だが、炎が消えた後も倒れる気配はない。赤い毛皮が僅かに焦げているだけで、火傷らしい傷すら見当たらなかった。
「やっぱり炎は効かないか」
レッドグリズリーは炎属性への高い耐性を持っている。
しかし、倒す必要はない。
爆炎の閃光と轟音によって、ほんの一瞬だけ視界と聴覚を奪えればいい。
「換装解除――自律召喚!」
ジンを覆っていた鎧が、黒い霧へ崩れた。
急激に身体が重くなり、ジンの足が地面へ沈む。
それと入れ替わるように黒い霧が膨れ上がり、悪魔の騎士がレッドグリズリーの正面へ立ちはだかった。
「奴を押さえ込め! 壊されても手を放すな!」
「御意」
悪魔の騎士は大剣を捨て、レッドグリズリーの巨体へ正面から組みついた。
「グオオオオッ!」
巨大な爪が黒騎士の肩へ叩きつけられる。
装甲が砕け、左腕が黒い霧となって散った。
次の一撃が胸当てを陥没させる。
それでも、痛みを持たない悪魔の騎士は、残された右腕を放さなかった。
ジンはその間に刀を抜き、レッドグリズリーの背後へ回り込む。
神眼を限界まで集中させた。
「見えろ……!」
右眼に焼けつくような痛みが走る。
視界が黄金色に染まり、赤い巨体を巡る魔力の流れが鮮明になった。
右肩甲骨の奥。
赤い魔石から送り出された魔力が、その下にある心臓を通じて全身へ広がっている。
ジンは地面を蹴り、赤い背中へ飛び乗った。
レッドグリズリーが激しく身体を揺らす。
「くっ!」
左手で毛皮を掴み、振り落とされるのを堪える。
刀へ残された魔力をすべて流し込んだ。
「そこだ!」
渾身の突きを、肩甲骨の隙間へ放つ。
ザクッ!
刃は毛皮と筋肉を貫いたが、途中で止まった。
「まだだ!」
レッドグリズリーが後ろ脚で立ち上がり、ジンを背中から振り落とそうとする。
その正面で、崩壊寸前の黒騎士が残された右腕へ力を込めた。
黒騎士が赤い巨体を強引に後方へ反らす。
肩甲骨の隙間が僅かに開いた。
「これで――終わりだ!」
ジンは柄を両手で握り、全体重を乗せた。
刀がさらに深く沈む。
切っ先は赤い魔石を僅かに避け、その下にある心臓を貫いた。
「グオオオオオオオ――!」
レッドグリズリーの絶叫が、魔の森を震わせた。
やがて巨体から力が抜け、地響きを立てて倒れる。
その正面では、悪魔の騎士の兜に最後の亀裂が走っていた。
漆黒の身体が音もなく崩れ、黒い霧となってジンのもとへ戻ってくる。
「……危なかった」
ジンはレッドグリズリーの背中から転がり落ち、その場へ仰向けになった。
魔力はほとんど残っていない。
神眼を酷使した右眼も痛む。
一歩でも判断を間違えていれば、死んでいたのは自分だった。
呼吸が落ち着くのを待ち、ジンは死骸から拳ほどの赤い魔石を取り出した。
傷一つない、Bランクの魔石。
「出てこい」
残された魔力を使い、黒騎士を再召喚する。
半壊した黒騎士が、ジンの前へ片膝をついた。
「これを喰らえ」
黒騎士が両手で魔石を包み込む。
赤い魔石は黒い霧へ溶け、鎧の内部へ吸い込まれていった。
赤紫色の光が全身を巡り、砕けていた装甲がゆっくりと再生していく。黒いオーラも、以前より僅かに濃くなった。
兜の奥で揺らめく紫色の光が強く輝く。
「もっと……」
「今、何か言ったか?」
黒騎士は沈黙した。
やがて、いつもと変わらない無機質な声で答える。
「次の命令を――我が主」
聞き間違いだったのだろうか。
ジンは小さな違和感を覚えながら、レッドグリズリーの死骸を収納指輪へ収めた。
依頼の達成条件は、痕跡調査までだった。
それなのに、Bランク魔物の死骸を持ち帰ることになってしまった。
「……ナーベさんに、どう説明しよう」
勝利の喜びよりも、帰還後に待っている説教への不安を抱えながら、ジンは重い足取りで首都ザザンへの帰路についた。




