第5話 聖魔の儀
第5話 聖魔の儀
すべての実技試験を終えたジン・クロードに残されているのは、《聖魔の儀》だけとなった。
魂の性質を天使あるいは悪魔として顕現させる、エスパーダ王国の秘儀。
受験者が持つ本来の資質へ影響を与えないように、《聖魔の儀》はほかの試験をすべて終えた後に行われるのが通例だった。
「ジン・クロード。前へ」
教官に呼ばれたジンは、巨大な儀式塔へ足を踏み入れた。
薄暗い螺旋階段を上った先で案内されたのは、装飾のない鉄扉の前だった。冷たい扉の表面には、白と黒のルーン文字が幾重にも刻まれている。
「この先では、何を見ても審判者の指示に従いなさい」
「試験官はいないんですか?」
「中へ入れば分かる」
教官が鉄扉へ手を添えると、ルーン文字が淡く輝いた。
「入りなさい」
「……分かりました」
ジンは取っ手を握り、重い鉄扉を押し開けた。
地の底から響くような音とともに扉が開く。
その先へ足を踏み入れた瞬間、ジンは目を見開いた。
「……マジか」
儀式の間は巨大なドーム状の空間になっていた。
壁から天井に至るまで、幾何学模様と無数のルーン文字が刻み込まれている。白銀と漆黒の光が脈打つように明滅し、部屋の中央には巨大な円形魔法陣が描かれていた。
だが、ジンが驚いたのは部屋そのものではない。
魔法陣を挟むようにして、一体の悪魔と一体の天使が立っていた。
「そこへ立て、人間」
左側から、腹の底まで震わせる低い声が響く。
五メートルを超える漆黒の巨体。隆起した筋肉を覆う黒い皮膚。背中からは蝙蝠のような翼が生え、頭部に伸びる二本の角の間では赤黒い炎が揺らめいていた。
そこに立っているだけで息苦しくなるほどの威圧感がある。
「恐れる必要はありません」
右側に立つ天使が、柔らかな声で告げた。
悪魔と変わらぬ巨体を持ちながら、その姿は美しい女性に近い。波打つ金髪と雪のように白い肌。背中には大きな純白の翼が広がり、全身から淡い光が溢れている。
「私たちは《聖魔の儀》を管理する審判者。この儀式塔へ残された魂の残響です」
「貴様の魂を見定め、相応しい形を与えるために存在している」
二体から向けられる視線は、肉体ではなく、その奥にある魂を直接覗き込んでいるようだった。
「……分かりました」
ジンは呼吸を整え、部屋の中央へ進んだ。
魔法陣へ足を踏み入れると、白と黒のルーン文字が同時に輝く。背後の鉄扉がひとりでに閉まり、外界の音が完全に遮断された。
「問おう」
悪魔が赤い瞳を細める。
「貴様は何を望む?」
ジンは僅かに俯き、自分の右手を見つめた。
キラーワームを倒した。
ザックス将軍にも最後まで食らいついた。
選抜トーナメントでは準決勝まで勝ち進んだ。
それでも、シルフには完敗した。
彼女は強かった。だが、ジンが本当に倒さなければならない相手は、第三王女よりも遥かに強大な存在である。
「力が欲しい」
拳を強く握り締める。
「誰にも負けない力が。独りでも、皇帝オルクスを殺せるほどの力が欲しい」
悪魔の口元が愉悦に歪んだ。
「貴様の魂からは復讐、憎悪、怒りが感じられる。十四の歳から、随分と濃く育て上げたものだ」
「ですが、それだけではありません」
天使が慈しむような眼差しを向ける。
「その魂には慈愛と勇気があります。危険を承知で人々を救い、守るべき者のために剣を取る心です」
「光と闇。相反する性質が、どちらも強く刻まれているか」
悪魔が興味深そうにジンを見下ろした。
聖騎士だった母。
黒騎士だった父。
二人から受け継いだものが、ジンの魂にも残っている。
「貴様はどちらを望む?」
悪魔が巨大な掌へ漆黒の炎を生み出した。
「敵を破壊し、憎悪を糧として成長する悪魔の力か」
天使の掌には、眩い白光が宿る。
「それとも、他者を守り、誇りある道を歩むための天使の力ですか?」
二つの光が、左右からジンを照らした。
どちらか一方を選ぶ。
本来なら、それが当然なのだろう。
だが、ジンには片方を捨てることなどできなかった。
「……両方だ」
「何?」
「俺は両方の力が欲しい」
ジンは悪魔と天使を順番に見据えた。
「父の力も、母の力も捨てたくない。二人が俺に遺したものなら、どちらも受け継ぐ」
一瞬の沈黙。
それを破ったのは、悪魔の哄笑だった。
「グハハハハハ! 傲慢な人間だ! 己の器も知らず、光と闇の両方を望むか!」
「選択には代償が伴います」
天使の表情から、柔らかな微笑が消えた。
「代償とは?」
「貴様の魂だ」
悪魔が即答する。
「天使も悪魔も、貴様の魂を核として生まれる。強大な存在を望むほど、魂に掛かる負担も大きくなる」
「二つを同時に顕現させれば、あなたの魂が耐え切れず、消滅する可能性があります。生き残っても、魂を引き裂かれる苦痛によって精神が壊れるかもしれません」
「それでも望むか?」
ジンの脳裏に、両親の死を知らされた日の光景が蘇った。
二度と帰らない父と母。
静まり返った広い家。
一人きりで食べる、味のしない夕食。
何もできなかった十四歳の自分。
「構いません」
迷いはなかった。
「力が足りないせいで、また何かを失うくらいなら……どんな代償でも払います」
悪魔が牙を剥き出しにした。
「面白い! ならば、貴様の覚悟が本物か試してやろう!」
「試練を乗り越えたとき、あなたには誰も歩んだことのない道が開かれるでしょう」
悪魔と天使が、それぞれ片手を掲げた。
漆黒と純白。
二つの魔力が球体となり、凄まじい勢いでジンの胸へ飛び込んだ。
「ぐっ――!?」
ドクンッ!
心臓が破裂するかと思うほど大きく脈打った。
次の瞬間、視界が暗転する。
「ああああああああッ!!」
自分という存在そのものを引き裂かれるような激痛が走った。
血液が沸騰し、骨の髄へ溶けた鉄を流し込まれているような熱が全身を駆け巡る。
意識を手放せば楽になれる。
本能がそう訴えていた。
「まだだ……!」
ジンは歯を食いしばり、両足で魔法陣を踏み締めた。
漆黒の力が魂へ食い込んでくる。
魂を奪われているのではない。
生まれようとする悪魔の魂が、ジンの魂と混ざり合い、互いの境界を失っていく。
主従でありながら、二つで一つ。
どちらか一方が滅びれば、もう一方も無事では済まない。
そんな歪で強固な契約が結ばれようとしていた。
「グハハハハ! 倒れぬか!」
「通常の儀式であれば、とうに意識を失っているはずです」
一瞬だったのか。
永遠だったのか。
時間の感覚さえ失われた頃、漸く痛みが薄れていった。
「……ほう。耐え切ったか」
悪魔の声と同時に、ジンの全身から漆黒のオーラが噴き上がった。
憎悪。
怒り。
悲しみ。
そして、何者にも屈しない執念。
それらを糧として、黒いオーラが人の形を作っていく。
現れたのは、漆黒の全身鎧を纏った悪魔の騎士だった。
兜の奥では紫色の光が揺らめき、両手には身の丈を超える黒い大剣が握られている。
悪魔の騎士はジンの前へ片膝をつき、深く頭を垂れた。
「命令を――我が主」
その声とともに、膨大な知識がジンの頭へ流れ込んできた。
召喚。
自律行動。
換装。
そして、魔石を喰らうことで成長し、より強大な存在へ進化する性質。
ジンが右手を伸ばすと、悪魔の騎士の身体が黒い霧へ変わった。
漆黒の奔流が右腕へ絡みつき、肩から胸、腰、両脚へ広がっていく。
次の瞬間、ジンの全身は漆黒の鎧に包まれていた。
「軽い……」
重さはまったく感じない。
ジンが動こうと考えるより先に、鎧が最適な姿勢を選び、傷ついた肉体を外側から補助している。
肉体そのものが強くなったわけではない。
それでも、今なら岩壁さえ拳で砕けると確信できた。
だが、その力を確かめる間もなく、右眼へ灼けるような痛みが走った。
「ぐあああああっ!」
ジンは兜を消し、右眼を押さえた。
指の隙間から、金色の光が漏れ出す。
漆黒の胸当てへ映った自分の右眼は、眩い黄金色に染まっていた。
「この眼は……?」
途端に、世界の見え方が変わる。
壁に刻まれたルーン文字を巡る魔力。
床下を走る複雑な術式。
鉄扉の向こうに立つ教官を形作る生命力。
それらが一度に視界へ流れ込み、激しい頭痛を引き起こした。
「あ……ぐっ……!」
ジンは右眼を閉じ、その場へ片膝をついた。
「天使は受肉できなかったようですね」
天使が静かに告げる。
「あなたの魂の大半は、悪魔の騎士と混ざり合いました。残された光の性質は、あなたの右眼を器として宿ったのです」
「この力は?」
「《神眼》。万物の真実を見通す天使の眼です。今は魔力と生命の流れを捉える程度ですが、成長すれば偽りを見破り、遠方を望み、やがては未来の一端さえ捉えるでしょう」
悪魔が愉快そうに笑った。
「だが、忘れるな。貴様の力の本質は悪魔だ。力を求め、憎悪を喰らい続ければ、いずれ貴様自身も人間ではなくなる」
「その先には、血塗られた未来が待っています」
ジンはゆっくりと立ち上がった。
漆黒の鎧に包まれた全身と、黄金色に輝く右眼。
光と闇。
父と母。
二つの力が、自分の中に確かに存在している。
「血塗られた未来なら……最初から覚悟している」
オークたちの血で大地を染めてでも、復讐を果たす。
そのための力を、ついに手に入れた。
「これが……俺の力」
自然と口元が吊り上がる。
「ハハッ……最高じゃないか」
自分の口から漏れた笑い声に、ジンは一瞬だけ違和感を覚えた。
こんな笑い方を、自分はしたことがあっただろうか。
だが、胸の奥から湧き上がる万能感が、その疑問を押し流していった。
ジンが右手を振ると、漆黒の鎧は黒い霧となって消えた。
その直後。
儀式塔全体が、黒と白の光に包まれた。
鉄扉の外では、測定用の魔導具へ亀裂が走り、甲高い音を立てて砕け散る。
「な、何が起きた!?」
教官が床へ散らばった破片を見下ろした。
魔導具が砕ける直前に表示した判定は、黒騎士。
悪魔の完全顕現を示す結果だった。
だが、その記録には、同時に天使の反応も刻まれていた。
さらに、本来なら別々に存在するはずの契約者と悪魔、その二つの魂が重なり合っていることを示す未知の波形。
「主適性は悪魔……だが、この天使反応は何だ?」
やがて、重い鉄扉がゆっくりと開いた。
その向こうから現れたジンの右眼は、今も黄金色に輝いている。
制度上の判定は、黒騎士。
配属先は、黒騎士学園。
だが、ジンはただの黒騎士ではなかった。
悪魔の騎士をその身に纏い、天使の神眼を併せ持つ、前例のない騎士が誕生したのだ。




