第35話 切り札の名
第35話 切り札の名
『喰らえ』
獣のような声が、ジンの頭蓋の内側へ響いた。
身体から噴き上がった黒い魔力が、足元の石畳へ亀裂を走らせる。
「邪魔をするな!」
正面から振り下ろされた大鎌を、ジンは刀で受け止めた。
甲高い衝突音とともに火花が散る。
刀を滑らせて刃を逸らし、レッドキャップの懐へ踏み込む。握り締めた拳が醜悪な顔面へ突き刺さり、小柄な身体を民家の壁まで吹き飛ばした。
だが、倒れない。
「ギャハハッ!」
鼻を潰されながらも、レッドキャップは壁を蹴って跳ね返ってきた。
左右から残る二体が迫る。
血のように赤い帽子。
異様に膨らんだズボン。
死神を思わせる巨大な大鎌。
三体が互いの死角を埋め、息の合った攻撃を繰り出す。
黄金色に輝く神眼が、刃の軌道を捉えた。
ジンは身を沈め、一体目の横薙ぎをかわす。二体目の大鎌を刀で受け流し、その勢いを利用して胸を斬り裂いた。
深い傷から血が噴き出す。
それでもレッドキャップは笑っていた。
痛みすら楽しむような狂気に満ちた笑顔。
三体目が、背後から大鎌を振り下ろす。
ジンは横へ跳んだ。
巨大な刃が石畳を砕き、破片が周囲へ飛び散る。
一刻も早く、ニーニャとアグニスを助けなければならない。だが、三体の精鋭は簡単には道を譲らない。
「換装」
ジンの足元から、黒い霧が広がった。
離れた場所で戦っていた四体の黒騎士が、同時に動きを止める。
その身体が霧へ崩れ、黒い奔流となってジンへ殺到した。
腕、脚、胸、背中。
漆黒の装甲が全身を包み込む。
兜の口元は、獣の顎を思わせる凶暴な形へ変わっていた。重なった装甲が鋭く逆立ち、鎧の隙間から黒い魔力が煙のように漏れ出している。
四体すべてを使った完全換装。
兜の奥で、赤い眼光が燃え上がった。
「ギ……?」
初めて、レッドキャップたちの笑みが消えた。
三体が同時に大鎌を振るう。
ジンは避けなかった。
左手で一体目の柄を受け止める。黒鉄製の柄が、握力だけでひしゃげた。
右手に形成した漆黒の大剣を振り抜く。
大鎌ごとレッドキャップの身体が両断される。
背後から迫った二体目へ肘を叩き込み、怯んだところへ大剣を突き刺す。そのまま持ち上げ、三体目へ投げつけた。
二体が絡み合って石畳へ転がる。
「遅い」
振り下ろされた大剣が、二体をまとめて地面へ叩きつけた。
石畳が大きく陥没する。
三体のレッドキャップは、今度こそ動かなくなった。
「ニーニャ! アグニス!」
ジンは森へ続く道を見た。
二人はすでに村の外れまで運ばれている。
複数のゴブリンが縄を引き、麻痺した身体を地面へ引きずっていた。
「ジン……!」
ニーニャが苦しげに顔を上げる。
伏せられた犬耳。
助けを求める緑色の瞳。
ジンは石畳を蹴り砕いた。
だが、その行く手へ、数十体のゴブリンが雪崩れ込んでくる。
「どけ!」
大剣を振るうたびに、複数のゴブリンが宙を舞った。
毒矢が装甲へ突き刺さる。
棍棒が兜を叩く。
槍が脇腹を削る。
それでも、完全換装したジンは止まらない。
『そうだ』
頭の中で、声が笑った。
『殺せ』
大剣がゴブリンの列を薙ぎ払う。
『もっと喰らえ』
悲鳴と血の臭いが、胸の奥に眠る闘争本能を刺激する。
「ジン! こっちだニャ!」
ニーニャの声を聞き、ジンの足が森へ向きかけた。
そのとき、視界の端でゴブリンが動いた。
『先に、そいつを喰らえ』
「……邪魔だ」
救出へ向かうはずだった足が、敵へ向けられる。
倒しても、倒しても、新たな敵が目の前へ現れる。
自分が何のために戦っているのか。
どこへ向かおうとしていたのか。
その目的さえ、殺意の中へ霞んでいった。
「ジン! そちらではないわ!」
屋根の上からクロエの声が飛ぶ。
ジンが我に返ったとき、森の入口へ赤黒い煙幕が広がっていた。
ゴブリンシャーマンの術だった。
「ジン――!」
煙の向こうから、ニーニャの声が響く。
だが、その声は急速に遠ざかっていった。
「待て!」
ジンは煙幕へ踏み込もうとする。
その横腹へ、ホブゴブリンの魔剣が叩きつけられた。
漆黒の装甲に亀裂が走り、ジンの身体が石畳へ沈む。
「ぐっ……!」
周囲を取り囲んだゴブリンが、一斉に武器を振り上げた。
ジンは立ち上がり、大剣を振るう。
一体。
二体。
十体。
どれほど倒しても、森から新たな敵が現れる。
鎧は砕け、傷口から流れた血が装甲の内側を濡らした。魔力も底を突きかけている。
それでも、鎧に宿った獣は後退を許さなかった。
『まだだ』
「まだ……終わっていない」
『殺せ!』
「殺す……!」
敵陣へ踏み出そうとした右脚から、力が抜けた。
ジンは大剣を地面へ突き立て、片膝をつく。
その姿を見たゴブリンたちが、下卑た笑い声を上げた。
「仕方あらへんなあ」
場違いなほど穏やかな声が聞こえた。
ジンが顔を上げる。
イアンが細い目を開き、迫り来るゴブリンの大群を見渡していた。
その瞳は、深い紫色に染まっている。
「格好ええところを全部、ジンはんに持っていかれるわけにもいかんからな」
イアンの背後に、巨大な悪魔の影が浮かび上がった。
「さあ――悪夢の時間や」
紫黒色の霧が爆発的に広がり、村を埋め尽くすゴブリンを呑み込んだ。
「ギ……?」
ゴブリンたちの動きが止まる。
隣にいた仲間が、血に濡れた人間へ変わる。
背後の仲間が、処刑斧を構えたゴブリンキングへ見える。
死への恐怖。
仲間への疑念。
支配者に殺される記憶。
心の奥へ隠していた恐怖が、現実の光景となって襲いかかった。
「敵ダ!」
「裏切ッタナ!」
一体のゴブリンが、隣にいた仲間へ短剣を突き刺した。
攻撃されたゴブリンも棍棒を振り上げる。
混乱は瞬く間に広がった。
アーチャーが味方へ毒矢を放ち、ライダーが逃げ惑う仲間を踏み潰す。ホブゴブリンは敵味方の区別を失い、巨大な魔剣を振り回した。
数百体の軍勢が、同士討ちを始める。
「ええ恐怖や……!」
背後に浮かぶ悪魔が、ゴブリンたちから溢れ出した恐怖を貪る。
影は次第に濃くなり、その身体も大きくなっていく。
だが、数百体分の悪夢を操る負担は、イアン自身にも返っていた。
鼻から血が流れる。
膝が震える。
それでも術を解除しない。
「最後まで、たっぷり怖がってもらうで……!」
クロエも屋根から援護射撃を続けた。
悪夢へ抵抗するシャーマン。
指揮を立て直そうとするコマンダー。
混乱から逃れようとするゴブリン。
黒紫色の魔弾が、その頭部を正確に撃ち抜く。
倒れたゴブリンから、淡く輝く魂が浮かび上がった。
魂は黒紫色の粒子へ変わり、クロエの魔銃へ吸い込まれていく。
銃身に刻まれた紋様が、以前よりも強い光を放った。
「魔銃が、魂を喰らっている……?」
クロエは僅かに眉を寄せた。
やがて最後まで抵抗していた一団が倒れ、生き残ったゴブリンは森の奥へ逃げ込んだ。
村に、静寂が戻る。
イアンは術を解除すると、その場へ膝をついた。
「今のをもう一度やれ言われても、無理やで……」
ジンも換装を解除する。
荒い息を吐きながら、森の入口を見た。
「二人は……?」
屋根から降りたクロエが、煙幕の消えた森を調べる。
地面には、引きずられた痕跡が残されていた。
「洞窟へ連れ込まれたようね」
木々の奥には、地下へ続く巨大な洞窟が口を開けている。
「ギルドへ戻って応援を呼ぶべきや」
イアンが鼻血を拭いながら言った。
「地上におっただけで、この数や。中には本隊がおるかもしれへん」
「戻っている時間はない」
ゴブリンが人間の女性をどのように扱うのか。
冒険者として活動してきた三人は知っている。
時間が経つほど、二人を無事に救い出せる可能性は低くなる。
ジンは足元のゴブリンへ手を向けた。
黒い霧が死体の山へ広がる。
胸に残されていた無数の魔石が引き抜かれ、黒い霧の中へ集まっていった。
「待ちなさい」
クロエがジンの肩を掴む。
「その身体で、さらに喰らうつもり?」
「力が必要だ」
ジンの口元を黒い装甲が覆い、獣の顎のように開いた。
「二人を助けるためなら、迷っている暇はない」
霧の中に浮かぶ魔石が、次々と鎧の口へ吸い込まれていく。
膨大な魔力がジンの身体へ流れ込み、皮膚の下を焼いた。
ゴブリンたちが抱えていた悪意。
殺意。
飢え。
残虐な記憶。
それらが一斉に流れ込む。
だが、ジンの精神へ届く寸前で、何かが闇の奥からすべてを呑み込んだ。
やがてジンは、倒れたゴブリンコマンダーの杖に気づいた。
赤黒い柄の中心へ、拳ほどもある魔石が嵌め込まれている。
「上級魔石……」
クロエが黄金色の瞳を細めた。
「ゴブリンが持てるような代物ではないわ。誰かに与えられたものね」
罠かもしれない。
それでもジンは迷わず魔石を引き抜いた。
「ジン」
「俺は行く」
上級魔石を、鎧の口へ放り込んだ。
次の瞬間、ジンの意識が暗闇へ落ちる。
『ギャハハハハハッ!』
耳障りな笑い声が響き渡った。
闇の奥から、道化師を思わせる異形の鎧が現れる。
左右非対称の仮面。
大きく裂けた笑み。
赤紫色に輝く双眸。
『情けねぇ姿だな、我が主人様よ!』
道化師は腹を抱えて笑った。
『そんななりで、本当にオルクスの野郎どもに勝てんのか? ゴブリン如きに苦戦しやがって!』
「お前は何者だ」
『俺様は、お前の鎧だ』
道化師が両腕を広げる。
その背後へ、ジンがこれまで喰らった魔物の影が浮かんだ。
『お前が喰った連中の殺意も、飢えも、闘争本能も、残虐性も! ぜーんぶ俺様が引き受けてやったのさ!』
「だから俺は、魔物にならずに済んだのか」
『そういうことだ! 感謝しろよ、主人様。俺様がいなけりゃ、お前はとっくに腹を空かせた化け物だぜ?』
「その代わり、お前が化け物になった」
一瞬の沈黙。
直後、道化師はさらに愉快そうに笑った。
『ギャハハハッ! 気に入った! やっぱり俺様の主人様は話が早ぇ!』
道化師が右手を差し出す。
『俺様が戦い方ってやつを教えてやろうか?』
「名前はあるのか?」
『ああ?』
「お前の名前だ」
笑い声が止まった。
『そんな上等なもんはねぇよ。俺様は、お前の中へ溜まったゴミみてぇなもんだからな』
「なら、俺が与える」
ジンは差し出された手を見つめた。
「お前の名は――ジョーカーだ」
戦況を覆す最後の切り札。
同時に、何をもたらすか分からない危険な存在。
「それがお前の名前だ」
道化師の眼光が大きく揺れた。
『ジョーカー……』
暗闇が震える。
『いい名前じゃねぇか、主人様!』
現実へ戻ったジンの足元から、五本の黒い霧が噴き上がった。
一体。
二体。
三体。
四体。
そして、五体目の黒騎士が立ち上がる。
新たな人格が生まれたわけではない。
五体すべてが、名を得た鎧の悪魔の分身体だった。
五つの兜が、一斉に同じ角度へ傾く。
赤紫色の眼光が灯った。
『ギャハハハハハッ!』
同じ哄笑が五体から重なって響く。
イアンの頬が引きつった。
「えらい物騒なんが目覚めてもうたな……」
「少なくとも、今は味方だ」
『つれねぇなあ。俺様は最初から、主人様の味方だぜ?』
五体の黒騎士が、一斉に大剣を抜いた。
『主人様以外がどうなろうと、知ったこっちゃねぇだけだ!』
ジンは地下王国へ続く洞窟を見据える。
「ニーニャとアグニスを取り戻す。二人には傷一つつけるな」
『へいへい。主人様のお気に入りには、指一本触れねぇよ』
五体が洞窟へ向き直る。
『それ以外は、好きに壊していいんだろ?』
ジョーカーの笑い声が、洞窟の奥まで響き渡った。
『ゴブリンどもに教えてやろうじゃねぇか。誰を敵に回したのかをなぁ!』




