第33話 獣たちの朝
第33話 獣たちの朝
柔らかな何かが、ジンの顔を何度も撫でていた。
くすぐったい。
それ以上に、息苦しい。
「…………」
まだ眠気の残る意識のまま、ジンは顔の上に乗っているものを掴んだ。
温かく、柔らかい。指が沈むほど豊かな毛に覆われ、その先端は僅かに湿っていた。
「……尻尾?」
目を開けても、視界いっぱいに赤褐色の毛が広がっている。
ジンは巨大な尻尾を押し退け、上半身を起こそうとした。
しかし、両腕が動かない。
「…………?」
右を向く。
黒い長髪を枕へ広げたクロエが、ジンの腕を抱えながら静かな寝息を立てていた。
左を向く。
長い赤髪を頬へ貼りつけたアグニスが、もう片方の腕を枕にして眠っている。普段の険しい表情からは想像できないほど、無防備な寝顔だった。
そして、足元。
布団の半分以上を占領するニーニャが、身体を丸めて眠っていた。ジンの顔を覆っていたのは、彼女の巨大な尻尾である。
「……どうしてこうなった?」
昨夜の記憶を辿る。
初めての依頼を達成した祝いとして、クロード家でたこ焼きパーティーを開いた。
夜が更けたため、イアンとアグニスも客室へ泊まることになった。
そこまでは覚えている。
だが、三人と同じベッドで眠った記憶はない。
ジンが腕を引き抜こうとすると、アグニスの眉が僅かに動いた。
「ん……」
ゆっくりと瞼が開く。
眠そうなエメラルドグリーンの瞳が、すぐ目の前にあるジンの顔を捉えた。
「おはよう」
「…………」
アグニスは返事をしなかった。
自分の頬の下にある腕を見る。
隣で眠るクロエを見る。
足元にいるニーニャを見る。
最後に、自分が横になっている場所を確認した。
みるみるうちに、白い頬が耳まで赤く染まっていく。
「な、な、な……!」
「俺も状況を確認しているところだ」
「この獣!」
アグニスの拳が、ジンの腹部へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
不意打ちを受けたジンは、身体をくの字に曲げて悶絶する。
「誰が獣だニャ……?」
その言葉だけに反応し、ニーニャが布団から顔を出した。
寝癖のついた犬耳が、ぴくぴくと動いている。
「お前ではない……」
「だったら紛らわしい呼び方をするなニャ……」
ニーニャは欠伸をすると、再び枕へ顔を埋めようとした。
「寝るな! どうしてあなたたちが私の部屋にいるのよ!」
「ここは俺の部屋だ」
「知っているわよ!」
「なら、どうしてお前がいる?」
「それは……」
アグニスの勢いが止まった。
昨夜、案内された客室には戻ったはずだった。
だが、見慣れない屋敷の上、夜中に水を飲みに出た後で部屋を間違えた気がする。暗い室内でベッドを見つけ、そのまま眠ってしまった。
どう考えても、勝手に侵入したのは自分だった。
「か、鍵を掛けておかないあなたが悪いのよ!」
「自分の屋敷で寝るのに、なぜ鍵が必要なんだ」
「年頃の女性が泊まっているのだから、それくらい警戒しなさい!」
「警戒するのは部屋へ入る側ではないのか?」
「うるさい!」
理不尽な反論とともに、二発目の拳が振り上げられる。
だが、今度はジンも手首を掴んで止めた。
「これ以上は殴らせないぞ」
「離しなさい!」
「朝から騒がしいわね」
クロエが目を覚まし、ゆっくりと身体を起こした。
乱れた黒髪を手櫛で整えながら、周囲を見回す。その表情に動揺はない。
「お前は、なぜここにいる?」
「夜中に廊下を歩くニーニャを見つけたのよ。寝ぼけたまま、あなたの部屋へ入っていったから連れ戻そうとしたのだけれど……」
クロエは自分が今まで抱えていたジンの右腕へ視線を落とす。
「尻尾に巻き込まれたところまでは覚えているわ」
「そのまま寝たのか」
「そうみたいね」
「どうして、あなたはそんなに落ち着いていられるのよ!」
「騒いでも事実は変わらないでしょう?」
「少しは恥じらいなさい!」
アグニスが叫んだ、そのとき。
「朝から賑やかやなあ」
開いた扉の向こうから、イアンの声が聞こえた。
全員が一斉に振り向く。
寝間着代わりの白いシャツを着たイアンが、扉の枠へ肩を預けている。細い目と笑顔は普段どおりだったが、その頬が僅かに引きつっていた。
「ワイも同じ客として泊まったはずなんやけど、この寝床の格差は何なんやろな」
「望むなら、ニーニャの尻尾を貸すぞ」
「そういう話と違うねん、ジンはん」
「私はまだ眠いニャ……」
ニーニャはジンたちの騒ぎなど気にせず、布団へ潜り込もうとしている。
アグニスが巨大な尻尾を掴み、ベッドから引きずり下ろした。
「元凶が二度寝しないで!」
「ニャアアッ! 尻尾を引っ張るなニャ!」
静かだったクロード家に、朝から騒々しい声が響き渡った。
それから一時間後。
身支度と朝食を済ませた五人は、居間の卓上へ一枚の地図を広げていた。
「昨日の依頼で、私たちの欠点は分かったわ」
クロエが王都周辺の地図を指先でなぞる。
「個人の判断で動きすぎている。グランドシャークを倒せたのも、連携というより、その場で互いの失敗を補った結果よ」
「勝ったんだから問題ないニャ」
「新人戦でも、海へ落ちてジンに助けてもらうつもり?」
「そ、それは言わない約束だニャ!」
「そんな約束をした覚えはないわ」
ニーニャの犬耳が、気まずそうに伏せられる。
「せやけど、クロエはんの言うとおりやな」
イアンが珍しく真面目な表情で頷いた。
「新人戦は五人一組の集団戦や。昨日みたいに、全員が勝手に能力を使っとったら、そのうち味方を巻き込むで」
「誰かさんの雷と炎が、特に危険そうだな」
「誰のことだニャ?」
「私を見ながら言わないでくれる?」
ニーニャとアグニスが、同時にジンを睨む。
「だったら、実戦で試せばいい」
ジンは二人の視線を気にせず立ち上がった。
「魔物の集団を相手にできる依頼を探す。報酬と魔石も手に入り、連携も確認できる」
「また冒険者の仕事をするのね」
「訓練用ゴーレムよりは役に立つ」
その意見に反対する者はいなかった。
五人は揃ってクロード家を出ると、王都の冒険者ギルドへ向かった。
朝からギルド本部は冒険者たちで混雑していた。
酒と汗の臭い。
依頼を巡って言い争う声。
負傷した仲間を治癒術師のもとへ運ぶ者たち。
騎士学園の生徒には慣れない光景だったが、冒険者として活動してきたジンとニーニャは迷わず受付へ進んでいく。
「昨日の今日で、また依頼を受けるの?」
受付にいたナーベが、呆れたように五人を見た。
「新人戦へ向けた訓練だ」
「今度は海以外がいいニャ!」
「私も同意するわ」
アグニスが青ざめた顔で付け加える。
「できれば地面が揺れず、潮の臭いがしない場所にして」
「船酔いしていたものね」
「していないわ!」
クロエの指摘を、アグニスは即座に否定した。
ナーベは苦笑しながら、依頼書の束をめくる。
「集団戦の訓練なら、ちょうどいい依頼があるわ」
一枚の羊皮紙を取り出し、卓上へ置いた。
依頼の場所は、王都から北西へ半日ほど進んだ農村。
近くの森にゴブリンの集団が住み着き、畑や家畜を荒らしているという。
「確認されているだけで四十体以上。ホブゴブリンと、弓を使う個体もいるそうよ。討伐推奨人数は五人以上。依頼等級はC」
「ちょうどええやん」
イアンが依頼書を覗き込み、楽しそうに笑う。
「数が多ければ、ワイの《悪夢》も試しやすい」
「私の炎なら、まとめて焼き払えるわ」
「それでは訓練にならない」
ジンがアグニスを制する。
「今回は五人の連携を優先する。誰か一人で終わらせるな」
「あなたにだけは言われたくないわね」
グランドシャークを相手に、一人で海へ飛び込んだジンの言葉である。
「反省している」
「本当に?」
「少しは」
「絶対に反省していないわ」
アグニスがため息を吐く。
「受けるのね?」
ナーベの確認に、五人は互いの顔を見た。
完全に信用し合っているわけではない。
指揮役すら決まっておらず、戦い方も噛み合っていない。
それでも、昨夜と今朝の騒ぎを経たことで、以前より僅かに距離は縮まっていた。
「受ける」
ジンが代表して答える。
ナーベは依頼書へ受領印を押した。
「ゴブリンだからと油断しないで。集団になれば、人間より狡猾な戦い方をすることもあるわ」
「分かっている」
ジンは依頼書を受け取り、四人へ振り返った。
「準備ができ次第、出発する」
「腕が鳴るニャ!」
ニーニャが拳を突き上げ、巨大な尻尾を大きく揺らす。
「今度は海へ落ちる心配もないニャ!」
「その代わり、罠へ落ちる可能性はあるわよ」
「不吉なことを言うなニャ!」
騒がしく言い合いながら、五人はギルドを後にした。
次に待つのは、五人で挑む初めての集団戦。
そしてジンには、まだ仲間へ話していない変化があった。
四体目の黒騎士。
魔石を求め続ける、飢えた思念。
それが仲間の前で何をもたらすのか。
ジン自身にも、まだ分からなかった。




