第31話 海中の死闘
第31話 海中の死闘
海面を突き破って現れた巨大な顎が、再び青黒い海中へ沈んでいく。
激しく傾いていた漁船が海面へ叩きつけられ、甲板に大量の海水が降り注いだ。転がった樽が船縁へぶつかり、帆柱へ結ばれた縄が不吉な音を立てて軋む。
「何なのよ、あれは……!」
アグニスは帆柱へしがみつき、青ざめた顔で海面を睨んでいた。
船底の下を、巨大な影が横切る。
グランドシャーク。
漁船さえ一口で噛み砕く、豊穣の海の怪物。その全長は、五人が乗っている船よりも大きかった。
「来るぞ!」
ジンが刀を抜く。
しかし、グランドシャークは襲いかかってこない。
船を中心に大きな円を描き、獲物の様子を窺うように海中を旋回している。
「こんな揺れる船に、いつまでも乗っていられないわ!」
アグニスが長剣を抜いた。
「さっさと焼き魚にしてあげる!」
刀身を灼熱の炎が覆う。
アグニスが長剣を振り抜くと、炎の奔流がグランドシャークの影を追い、海面へ直撃した。
轟音とともに水柱が立ち上がる。
大量の海水が一瞬で蒸発し、白い水蒸気が船を包み込んだ。
「どう!?」
アグニスが勝ち誇る。
だが、風に流されて視界が戻っても、海面にはグランドシャークの死骸どころか、血の一滴さえ浮かんでいなかった。
「水面を焼いただけだ」
「分かっているわよ!」
炎の届かない深さへ潜られては、どれほど威力が高くても意味がない。
「ほな、次はワイの番や」
イアンの背後から濃い紫色の霧が広がった。
「海の化け物が、どんな悪夢を見るんか興味あるわ」
霧が海面を這い、グランドシャークの巨影を包み込む。
人間であれば、心の奥に封じた記憶と恐怖を暴かれ、現実と区別できない悪夢へ引きずり込まれる。
しかし、グランドシャークの動きは止まらなかった。
紫色の霧など存在しないかのように、船の周囲を泳ぎ続ける。
「効いてへんのか?」
「悪夢を作るための記憶が、ほとんどない」
神眼を発動したジンには、怪物の内側を流れる単純な感情が見えていた。
「こいつを動かしているのは、食欲と闘争本能だけだ」
「怖がるだけの頭もないっちゅうことか。難儀な化け物やなあ」
イアンの顔には相変わらず笑みが張りついていたが、その頬は僅かに引きつっている。
「呑気に魚扱いしている場合ではないわ」
クロエは二丁の自動拳銃型魔銃を消し、代わりに長い銃身を備えた狙撃型魔銃を作り出した。
揺れる縄梯子へ足を掛け、帆柱の上へ登っていく。
高所から黄金色の瞳で海面を見下ろす。
しかし、グランドシャークの姿は波と反射光に遮られ、輪郭さえ安定しない。
僅かに見えた背鰭へ銃口を向け、引き金を絞る。
黒紫色の魔弾が海面へ突き刺さった。
だが、水中へ入った瞬間に軌道が逸れ、グランドシャークの背中から大きく外れる。
「水中では狙いが定まらないわね」
クロエが小さく舌打ちする。
「海中から誘き出さないと無理よ」
「なら、私が追い出してやるニャ!」
ニーニャが船縁へ片足を掛け、両腕を大きく振るった。
緑色の風が幾つもの刃となり、海面を切り裂く。
しかし、裂けたのは表面の波だけだった。
風刃は海中深くまで届かず、グランドシャークの巨影は悠然と船底を通り過ぎていく。
「止まるニャ! 正々堂々、出てくるニャ!」
「相手に言葉が通じると思うか?」
「ジンは黙ってるニャ!」
その直後。
グランドシャークが真下から船体へ激突した。
船首が跳ね上がる。
「ニャッ――!?」
船縁へ足を掛けていたニーニャの身体が、勢いよく海へ投げ出された。
赤褐色の髪と巨大な尻尾が宙を舞い、そのまま水飛沫の中へ消える。
「ニーニャ!」
考えるより先に、ジンは船縁を蹴っていた。
海へ飛び込み、沈みかけていたニーニャの腕を掴む。
「た、助けるニャ! 足がつかないニャ!」
「泳げないのか!?」
「犬が全員泳げると思うなニャ!」
ニーニャは必死にジンへしがみついた。
海水を吸った巨大な尻尾が重くなり、彼女の身体を下へ引っ張っている。
海中の奥で、グランドシャークが向きを変えた。
巨大な口を開き、二人へ一直線に迫ってくる。
「出てこい――黒騎士!」
ジンの足元から黒い霧が噴き上がった。
一体。
二体。
三体。
漆黒の全身鎧を纏った悪魔の騎士たちが、海中へ姿を現す。
そのうち一体が、ジンからニーニャを受け取った。
「ニーニャを船へ運べ」
「御意」
黒騎士が片腕でニーニャを抱える。
だが、揺れる船へ戻るための足場がない。
「黒騎士さん、こっちや!」
甲板からイアンの声が飛んできた。
イアンは太い縄の一端を帆柱へ巻きつけると、反対側を海へ投げ込んだ。
黒騎士が縄を掴む。
その瞬間、再び船体が傾いた。イアンは帆柱へ背中を押しつけ、両腕で縄を支える。
「早う上がってくれへんと、ワイまで海の餌や!」
「ジン! アンタも早く来るニャ!」
「先に行け」
「でも――」
最後まで言わせず、黒騎士が縄を登り始めた。
残された二体の黒騎士が、黒い霧へ崩れる。
「換装」
漆黒の装甲が、ジンの身体を覆っていく。
三体すべてを使った完全な悪魔の鎧ではない。
それでも、グランドシャークの注意を引きつけるには十分だった。
暗い洞窟のような口が迫る。
自分が逃げれば、怪物はニーニャを運ぶ黒騎士を追う。
ならば、ここで止めるしかない。
ジンは上顎と下顎の間へ両腕を突き入れた。
無数の牙に挟まれながら、閉じようとする顎を力任せに押し止める。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃が全身を貫く。
グランドシャークの咬合力に耐え切れず、漆黒の手甲へ亀裂が入った。
黒い破片が海中へ散っていく。
それでも、ジンは腕を緩めない。
その間に黒騎士は縄を登り、ニーニャを船へ押し上げた。
グランドシャークは獲物を噛み砕けないと悟ると、ジンを口へ挟んだまま深海へ潜り始める。
光が遠ざかった。
水圧が増し、胸に残された空気が急速に失われていく。
視界の端が暗くなる。
(まずい……)
このままでは、顎に潰されるより先に息が尽きる。
ジンは右腕の力を一瞬だけ抜いた。
巨大な牙が脇腹の装甲へ食い込む。
痛みに耐えながら右腰の魔銃を抜き、グランドシャークの口内へ銃口を押しつけた。
「喰らえ――《爆炎》!」
赤い魔法陣が銃口へ浮かぶ。
放たれた魔弾が、グランドシャークの口内で炸裂した。
周囲の海水が一瞬で沸騰する。
逃げ場を失った蒸気が膨張し、怪物の口内を灼きながら爆発した。
ジン自身も衝撃に叩かれ、肺に残っていた空気を吐き出す。
グランドシャークが苦痛に身を捩った。
怒り狂った怪物は進路を変え、ジンを咥えたまま海面へ向かって突進する。
暗かった視界が、急速に明るくなっていく。
次の瞬間。
グランドシャークの巨体が海面を突き破った。
凄まじい水柱とともに、漁船よりも巨大な身体が空へ舞い上がる。
「今よ!」
帆柱の上で待っていたクロエが引き金を絞った。
黒紫色の魔弾が、露出したグランドシャークの右眼を正確に撃ち抜く。
怪物が苦痛に身体を反らし、大きく口を開いた。
ジンは牙の間から抜け出す。
魔銃を収納指輪へ収め、両手へ黒い霧を集めた。
形成されたのは、黒騎士が使用する漆黒の大剣。
「終わりだ!」
空中で身体を反転させ、落下する勢いを乗せて大剣を振り下ろす。
切っ先がグランドシャークの頭部へ直撃した。
金属同士が衝突したような音が響く。
「なっ……!」
大剣が止まった。
刃は僅かに食い込んだだけで、硬い鮫肌の下にある頭蓋骨へ届いていない。
「情けないわね!」
下方からアグニスの声が聞こえた。
彼女は甲板へ炎を放ち、その反動で空へ跳び上がっていた。
「一人で格好をつけておいて、止めも刺せないなんて!」
「なら、手を貸せ!」
「最初から、そのつもりよ!」
アグニスがジンの隣へ追いつく。
両手を大剣の峰へ添え、ありったけの魔力を流し込んだ。
赤い炎が漆黒の刀身を包む。
刀身は瞬く間に白熱し、真紅に輝き始めた。
「貫きなさい!」
二人が同時に力を込める。
灼熱の刃が、グランドシャークの鮫肌を焼き切った。
大剣が頭蓋骨を砕き、その頭部を深々と貫通する。
グランドシャークの巨体が海面へ叩きつけられた。
轟音。
巨大な水柱が立ち上がり、砕けた波が漁船を激しく揺らす。
ジンとアグニスも、力を失った怪物とともに落下していく。
「二人とも捕まるニャ!」
船縁から身を乗り出したニーニャが、両腕を突き出した。
緑色の風が海面を駆け、落下する二人を下から受け止める。
勢いを殺されたジンとアグニスは、海へ落ちる寸前で黒騎士に回収された。
やがて、荒れていた波が静まっていく。
グランドシャークの巨体は、腹を上へ向けて海面へ浮かんでいた。
「勝ったニャ!」
ずぶ濡れのニーニャが拳を突き上げる。
船員たちから歓声が上がった。
縄を握っていたイアンは、その場へ座り込む。笑顔だけは崩れていなかったが、呼吸は大きく乱れている。
「初仕事から、とんでもない目に遭うたなあ……」
「最初は誰の攻撃も通じなかったけれどね」
帆柱から降りてきたクロエが、狙撃型魔銃を消した。
「それでも、最後には倒せた」
ジンが答えると、アグニスが濡れた赤髪を掻き上げた。
「あなた、馬鹿なの?」
「いきなり何だ」
「勝手に海へ飛び込んだことよ。自分まで死ぬ可能性があったでしょう」
「ニーニャは泳げない。ほかに選択肢はなかった」
「普通は少しくらい迷うものよ」
「仲間を助けるのに、迷う必要があるのか?」
ジンは当然のことのように答えた。
アグニスは何も言い返せなかった。
目の前にいる少年へ、仲間を見捨てた裏切り者の息子という像を重ねようとする。
だが、どうしても重ならない。
「……本当に、馬鹿ね」
アグニスは小さく呟き、気まずそうに顔を逸らした。
五人の連携は、まだ完成には程遠い。
互いの能力も、考え方も、完全には理解していない。
それでも、追い詰められた中で差し出された手をつなぎ、海の怪物を倒した。
五人で挑んだ最初の実戦。
それは即席の集団が初めて一つのチームになった、確かな一歩だった。




