第26話 悪魔
第26話 悪夢
決闘から二日後の朝。
一年A組の生徒たちは、屋外訓練場へ集められていた。
決闘の傷が治りきっていないアグニスも、列の端に立っている。首筋には黒騎士の手刀を受けた痕を隠す包帯が巻かれていた。
ジンと一度だけ目が合う。
アグニスは気まずそうに視線を逸らしたが、そこに以前のような剥き出しの憎悪はなかった。
代わりにあるのは、消し切れない疑念だった。
「今日は悪魔の能力を使った模擬戦だ」
生徒たちの前で、シルベスターが気怠そうに煙草を吸っている。
「入学試験で見せた奴も、隠していた奴も、使えるものは全部使え。ただし、相手を殺すな。壊した設備は自腹で直せ」
「最後の条件だけ妙に具体的だニャ」
「学園の予算が余ってねえんだよ」
シルベスターは紫煙を吐き、生徒名簿を片手で開いた。
「悪魔の力は、ただ出せばいいってもんじゃねえ。能力の強みと弱みを理解しろ。使い方を誤れば、強力な能力ほど簡単に自分の首を絞める」
最初の組み合わせが読み上げられる。
何組かの模擬戦が終わった後、シルベスターの口からジンの名前が呼ばれた。
「ジン・クロード。イアン」
「よりによってジンはんかいな」
赤髪の青年が困ったように肩を落とす。
狐を思わせる細い目は、いつもどおり閉じているように見えた。口元にも、人当たりのよい笑みが張りついている。
「ワイ、殴り合いは苦手なんや。もうちょい優しそうな相手にしてくれへん?」
「お前の悪魔なら、殴り合う必要はねえだろ」
「先生、ワイの能力まで調べとるんか。教師って怖いなあ」
軽口を叩きながら、イアンが訓練場の中央へ進み出る。
ジンも向かい側へ立った。
「先に言うとくけど、恨まんといてな。ワイの能力、あんまり気分のええもんやないから」
「構わない」
「ほな、始めようか」
シルベスターが片手を上げる。
「始めろ」
腕が振り下ろされた瞬間、イアンの背後から濃い紫色の霧が広がった。
ジンの右眼が黄金色へ変わる。
だが、神眼で霧の魔力構造を見抜くより早く、訓練場の景色が消滅した。
「……ここは」
空を覆う黒煙。
焼け落ちる天幕。
大地に突き刺さった無数の剣。
足元には黒い鎧を纏った騎士たちが、折り重なるように倒れている。
四年前。
ジンの両親が命を落とした、オルクス帝国との戦場だった。
実際に見たことなどない。
それでも、ここが両親の最期の場所だと理解してしまう。
炎の熱が皮膚を焼き、鉄と血の臭いが鼻を刺す。遠くからは騎士たちの悲鳴と、オークの咆哮が聞こえていた。
「ジン」
聞き覚えのある声に、身体が硬直する。
炎の向こうから、二人の男女が歩いてきた。
漆黒の鎧を纏った父。
血に染まった白銀の鎧を纏う母。
「父さん……母さん……」
二人の身体には、致命傷が刻まれている。
父の胸には大剣が突き刺さり、母の腹部からは血が流れ続けていた。
「なぜ助けに来なかった」
父が問いかける。
「あなたが弱かったから、私たちは死んだのよ」
母の声は、かつて聞いたものと同じ優しさを残していた。
それが、余計にジンの胸を抉る。
「違う……」
「復讐を誓いながら、何年かけるつもりだ」
「私たちを忘れて、仲間と楽しそうに暮らしているのね」
「違う!」
ジンが叫んだ瞬間、父の拳が頬へ叩き込まれた。
身体が地面へ転がる。
口の中に血の味が広がり、頬には確かな痛みが残った。
幻覚ではない。
そう思わせるほど、あらゆる感覚が精密に再現されている。
黄金色の右眼で見ても、父と母の身体には魔力が流れていた。足跡も残り、炎によって生じる影まで存在する。
「これが、悪夢の悪魔か」
相手の記憶と恐怖を読み取り、現実と区別できない悪夢を作り出す。
音も、臭いも、痛みも、すべて本物。
偽物だと頭で理解していても、身体と心がそれを受け入れない。
父が大剣を振り上げた。
「お前では、何も守れない」
刃が頭上から迫る。
ジンは反射的に刀へ手を伸ばしかけた。
そのとき。
視界の端へ、全く異なる光景が流れ込んだ。
陽光の差す訓練場。
目の前で動かず立っているジン。
その数歩先で、片手を掲げているイアン。
ジンの影に待機する、黒騎士の視界だった。
「そうか」
悪夢へ囚われているのは、ジンだけ。
別の自我を持つ黒騎士には、本当の景色が見えている。
「なら、俺の目を信じる必要はない」
ジンは自分の視覚を捨てた。
代わりに黒騎士の視界へ意識を集中させる。
父の大剣が頭部を斬り裂いた。
激痛が走り、熱い血が顔を伝う。
それでもジンは倒れない。
黒騎士の目には、何も起きていなかった。
「なっ……」
どこからともなく、イアンの声が聞こえる。
ジンは一歩進んだ。
母が正面から抱き締めてくる。
「行かないで」
懐かしい温もりと匂い。
その腕を振り払うことはできなかった。
だから、目を閉じたまま前へ進む。
焼けた大地も、倒れた騎士も、両親の姿も無視する。
頼るのは、黒騎士が見ている現実だけ。
「ちょ、ちょっと待ってや」
イアンの声から、初めて余裕が消えた。
ジンは迷わず距離を詰め、刀を抜く。
次の瞬間。
冷たい刀身が、イアンの首筋へ触れた。
戦場が砕け散る。
焼け焦げた臭いも、全身の痛みも一瞬で消え、元の訓練場が戻ってきた。
目の前には、引きつった笑みを浮かべるイアンがいる。
「俺の認識は欺けても、黒騎士の目までは欺けなかったようだな」
「参ったわ。まさか悪夢の中で、他人の目を借りて歩いてくるとは思わへんやろ」
イアンは両手を上げた。
「降参や」
「そこまで」
シルベスターが模擬戦の終了を告げる。
ジンが刀を引くと、イアンは首筋を擦りながら苦笑した。
「せやけど、次も同じとは思わんといてや。今のはジンはん一人しか悪夢に落としてへん。いずれ、その黒騎士ごと呑み込んだるわ」
「なら、その前に対策を考える」
「怖いこと言うなあ。ほんま、敵には回したくない人や」
イアンの笑顔は元へ戻っていた。
だが、閉じたような細い目の奥では、これまで以上に強い興味がジンへ向けられていた。
授業が終わり、生徒たちが校舎へ戻り始める。
「ジン・クロード」
呼び止めたのは、アグニスだった。
「先日の敗北は認めるわ」
「そうか」
「でも、あなたの両親が無実だと認めたわけではない」
包帯の下に残る痛みへ耐えるように、アグニスが拳を握る。
「私は私の方法で、四年前の戦いを調べる。もし本当にあなたの両親が父を見捨てたのなら、今度こそ私があなたを倒す」
「構わない」
「怖くないの?」
「俺も真実を知りたい」
ジンはアグニスの瞳を正面から見返した。
「父と母が何をしたのか。お前の父親が、どこで命を落としたのか。王国が発表した記録ではなく、戦場で何が起きたのかを知りたい」
「……そう」
アグニスはそれだけ答え、赤い髪を翻して歩き去った。
憎しみは消えていない。
それでも、憎しみに任せて炎を振るうだけだった昨日とは違う。
彼女もまた、自分の頭で真実を確かめようとしていた。
アグニスが立ち去ると、ジンはクロエとニーニャのもとへ戻った。
「少しは話ができるようになったみたいだニャ」
「ああ」
「それで、悪夢の中では何を見たのかニャ?」
「大したものではない」
「絶対に嘘だニャ」
「話したくないなら、今は聞かなくていいでしょう」
クロエに言われ、ニーニャは不満そうに犬耳を伏せた。
「……分かったニャ」
そのとき、シルベスターが生徒名簿を閉じた。
「休憩は終わりだ。次の模擬戦を始めるぞ」
生徒たちの視線が、一斉に訓練場の中央へ集まる。
「シルフ・エスパーダ」
名を呼ばれた第三王女が、腰にレイピアを提げて進み出た。
シルベスターは続けて、もう一人の名前を読み上げる。
「対戦相手は、クロエ」
「私ね」
クロエは驚く様子もなく立ち上がった。
「いきなり王女が相手なのかニャ?」
「相手が誰でも、やることは変わらないわ」
クロエが訓練場へ降りる。
中央で待つシルフと、正面から視線が重なった。
シルフの瞳が僅かに細められる。
「やはり、あなただったのね」
「何のことかしら?」
クロエは平然と微笑み、両手へ黒紫色の魔力を集めた。
対するシルフもレイピアを抜く。
澄んだ刀身から冷気が溢れ、足元の石床を白い霜が覆っていく。
第三王女シルフ・エスパーダ。
そして、身分を隠して学園へ入った公爵令嬢クロエ・ハートフィリア。
二人の視線が、訓練場の中央で静かにぶつかり合った。




