第23話 憎しみの瞳
第23話 憎しみの瞳
オークを相手にした実力測定を終え、一年A組の生徒たちは教室へ戻っていた。
初日から重傷者を出した訓練の後だけに、教室内は静まり返っている。
治癒術師の処置を受けた生徒の多くは戻ってきていたが、誰の顔にも疲労と緊張が残っていた。本物の殺気を向けられ、何もできずに立ち尽くした記憶が、重くのしかかっているのだろう。
窓際の席に座ったジンは、自分の右手を見つめていた。
悪魔の鎧を換装しながら、力でオークを押し返せなかった。
それ以上に問題なのは、両親の仇と同じ種族を前にして、冷静さを失ったことだ。
『憎しみに判断を預けるな』
シルベスターの言葉が、今も耳の奥に残っている。
「いやあ、ジンはん。自分、えらい強いなあ!」
突然、軽い調子の声が飛んできた。
顔を上げると、一人の男子生徒が机の横に立っていた。
鮮やかな赤い髪。狐を思わせる細い目。細身の身体に着た制服は規定どおりだが、襟元だけが僅かに緩められている。
「さっきのオークと正面から打ち合えたん、ジンはんだけやったで。あんな化け物みたいな腕力、普通は受けようとも思わへん」
「結果は不合格だった」
「先生の評価と、ワイの感想は別や。最後にはきっちり仕留めたんやから、大したもんやろ」
「誰だ?」
「これは失礼したなあ。ワイはイアン。見てのとおり、由緒正しき平民や」
イアンは大袈裟に胸へ手を当てた。
「親父が小さな商会をやっててな。貴族様ほど裕福やないけど、食うには困らへん程度の商人の息子や。これから同じA組で学ぶ仲間なんやし、仲良うしようや」
人懐こい笑みを浮かべているが、その細い目の奥には油断のない光がある。
「商人の息子にしては、随分と俺を知っているらしいな」
「商人にとって、情報は金より大事な財産やからな」
イアンは悪びれずに答えた。
「元黒騎士団長と聖騎士団副団長の一人息子。四年前に爵位を剥奪されてから、首都の屋敷で一人暮らし。最近になって冒険者ギルドで目立ち始めて、ジャイアントトードやレッドグリズリーを討伐。西部へ向かう魔導列車では、ストームワイバーンまで倒したそうやないか」
ニーニャの犬耳がぴんと立った。
「何でそこまで知ってるニャ?」
「せやから、情報収集が商売やと言うたやろ?」
「怪しいニャ……」
「そんな怖い顔せんといてや。敵になるつもりはあらへん」
イアンは両手を上げ、降参するような仕草を見せた。
「むしろ、ジンはんの噂に興味があるんや。世間じゃ、臆病者の息子や裏切り者の血筋やと好き勝手に言われとる。せやけど、今日の戦いを見たら、とても信じられへん」
軽薄だった声音が、僅かに低くなる。
「敵前逃亡するような臆病者が、黒騎士団の団長にまで上り詰められると思うか? しかも、その妻は聖騎士団の副団長や。二人揃って、同じ戦場で突然裏切った。そない都合のええ話、ワイなら疑うで」
ジンの眼差しが鋭くなった。
「何が言いたい?」
「公式の記録が、必ずしも真実とは限らへん。それだけや」
イアンは再び笑みを浮かべる。
「ワイは将来有望な人間と仲良うなりたい。ジンはんには、その価値があると思っとるんや」
「随分と正直ね」
隣の席から、クロエが口を挟んだ。
「隠しても仕方あらへんやろ。商人が利益を求めるんは当然のことや」
イアンはクロエへ顔を向けると、口元の笑みを深めた。
「それにしても、ジンはんは羨ましいなあ。えらいべっぴんさんを二人も連れとるやないか。ワイも、ぜひお友達になりたいわ」
「誰がべっぴんだニャ?」
「お嬢さんら二人のことや」
「仕方ないニャ。見る目だけは褒めてやるニャ!」
ニーニャが得意げに胸を張る。
「あなた、簡単に乗せられるのね」
「クロエも褒められたんだニャ!」
「誰にでも同じことを言っていそうだもの」
「いやいや。ワイかて相手は選ぶで」
クロエの冷たい視線を受けても、イアンは笑顔を崩さない。
軽薄そうに見えて、どこまでが本心なのか分からない男だった。
そのとき、下校時刻を告げる鐘が鳴った。
「ほな、今日はこの辺で。また明日な、ジンはん」
イアンは片手を上げ、自分の席へ置いていた鞄を取りに戻っていく。
「変な奴だニャ」
「商人らしい男ね。少なくとも、何も考えていない人間ではないわ」
「信用できるかは別だ」
ジンはそう答え、席を立った。
三人が教室を出ようとした、そのときだった。
廊下の中央に、一人の少女が立っていた。
燃え上がる炎のような長い赤髪。
宝石を思わせるエメラルドグリーンの瞳。
凛とした顔立ちを持つ美しい少女だったが、その瞳には隠しようのない怒りが宿っていた。
少女の胸元には、グレンハート侯爵家の紋章が刻まれている。
「ジン・クロード」
教室から出てきた生徒たちが足を止める。
ジンは少女の前で立ち止まった。
「何か用か?」
「私の名はアグニス・グレンハート。同じA組なのだから、知らないとは言わせないわ」
「今日初めて会ったばかりだ」
「なら、今覚えなさい」
アグニスは腰に提げた長剣へ手を掛けた。
周囲の温度が上がっていく。
赤い髪の先に火の粉が灯り、怒りへ呼応するように炎が揺らめいた。
「私と決闘しなさい」
教室の前がざわつく。
「入学初日から決闘かいな……」
少し離れた場所で、帰ろうとしていたイアンが足を止めた。
「理由を聞かせろ」
「クロード家のせいで、私のお父様は命を落とした」
アグニスの声が僅かに震える。
「四年前、お父様は黒騎士団の一員として戦場へ向かった。そして、あなたの父親が敵を前に逃げ出したせいで、帰らぬ人となった」
ニーニャが一歩前へ出る。
「それは――」
その腕を、クロエが掴んだ。
「止めるなニャ!」
「今の彼女に、私たちが何を言っても届かないわ」
「だからって、黙って聞いてろというのかニャ?」
「これはジンが答えるべきことよ」
クロエは静かに告げた。
アグニスの瞳に宿っているのは、貴族の傲慢さでも、面白半分の侮蔑でもない。
父親を奪われた娘の、純粋な憎しみだった。
「あなたの両親が部下を見捨てなければ、お父様は死ななかった!」
炎が強くなる。
「それなのに、裏切り者の息子が、黒騎士を目指すなんて! 何もなかったような顔で、同じ学園へ通うなんて! 私は認めない!」
ジンは何も言わず、その瞳を見つめ返した。
嘲笑や蔑みならば、いくらでも耐えられる。
四年前から、何度も向けられてきた。
だが、憎しみだけは違う。
自分を父親の仇として見る瞳に、慣れることなどできなかった。
そして、アグニスを責めることもできない。
ジンがオークへ向けているものと、同じ感情だからだ。
もし両親を殺したオークの息子が、何も知らぬ顔で目の前に現れたなら。
自分もまた、同じ瞳を向けるだろう。
「お前の父親の死について、俺から言えることはない」
「罪を認めるの?」
「違う。俺は、父と母が逃げたとは信じていない」
「ならば、その思い込みごと私が打ち砕く!」
アグニスが手袋を外し、ジンの足元へ投げつけた。
「グレンハート侯爵家の名において申し込む。私と決闘しなさい、ジン・クロード!」
廊下が静まり返る。
ジンは足元へ落ちた手袋を見下ろした後、腰の刀へ手を掛けた。
「受けよう」
「ジン!」
ニーニャが声を上げる。
「これは俺が向き合わなければならない」
ジンが静かに刀を抜く。
磨かれた刀身に、アグニスの炎が映り込んだ。
「ただし、俺は両親の罪を認めるために戦うわけではない」
「では、何のために戦うの?」
「お前の憎しみを否定はしない。だが、父と母が裏切り者だという言葉も受け入れない。そのために戦う」
その瞬間。
二人の間を横切るように、一枚の紙が舞い落ちた。
「廊下で勝手に始めるな。壊した壁の修理費を払うのは俺じゃねえんだぞ」
気怠げな声とともに、シルベスターが教室から出てくる。
「決闘申請書だ。互いに名前を書け。正式な立会人のもと、明日の放課後に訓練場で行う」
「止めないのか?」
「止めて納得する顔に見えるか?」
シルベスターは煙草を咥えたまま、ジンとアグニスを順に見る。
「ただし、殺しは禁止だ。決着がついたと俺が判断した時点で終わり。それでも続けるなら、時間を止めて両方叩きのめす」
「構いません」
アグニスは迷わず申請書へ名前を書いた。
ジンもその下へ署名する。
「明日、あなたの欺瞞を焼き尽くす」
アグニスはそう言い残し、赤い髪を翻して去っていった。
廊下には焦げたような熱だけが残される。
「面倒なことになったニャ……」
「避けては通れない相手だったのでしょうね」
クロエが呟く。
離れた場所では、イアンが決闘申請書を見つめていた。
その顔から、いつもの軽薄な笑みが消えている。
「四年前の生き残り同士が、今度は子供に憎しみを背負わせるんか……」
誰にも聞こえない声で呟き、細い目をさらに細める。
「やっぱり、あの戦いには何かあるな」
ジンは鞘へ刀を戻し、アグニスが去った方向を見つめた。
胸の奥が鈍く痛む。
自分へ向けられた憎しみは、鏡のようだった。
その瞳の中に、ジンはオークを見つめる自分自身を見た。
それでも、退くわけにはいかない。
明日の放課後。
憎しみを炎へ変える侯爵令嬢との決闘が始まる。




