第22話 本物の殺気
第22話 本物の殺気
入学式を終えた、その日の午後。
一年A組の生徒たちは、黒騎士学園の地下に設けられた円形訓練場へ集められていた。
天井は高く、周囲を囲む黒い石壁には、衝撃を吸収するための魔術式が刻まれている。観客席との境には分厚い鉄柵が設けられ、その向こうでは数人の治癒術師が待機していた。
「初日から実技授業なのかニャ……」
ニーニャが落ち着かなさそうに犬耳を動かす。
「黒騎士を目指す学園なのでしょう。座学だけで済むはずがないわ」
クロエは平然と答えながら、訓練場の中央へ目を向けた。
そこには、担任のシルベスターが気怠そうに立っていた。
長い銀髪を後ろへ撫でつけ、皺と汚れの目立つ灰色のローブを纏っている。片手をポケットへ入れ、もう片方の手には火のついた煙草を持っていた。
「全員揃ったな」
人数を確認することもなく、シルベスターが訓練場の奥へ視線を向ける。
「最初の授業は実力測定だ。入学試験で出した数字じゃない。本物の敵を前にして、お前たちが何を考え、どう動くかを見る」
その言葉と同時に、巨大な鉄扉が重々しい音を立てて開いた。
兵士たちに囲まれ、鎖で両腕を拘束された巨体が現れる。
緑がかった灰色の肌。
口元から突き出した二本の牙。
丸太のように太い腕と、岩を積み上げたような筋肉。
二メートルを大きく超えるオークだった。
「オーク……」
ジンの表情が僅かに強張る。
兵士が鎖を外し、一本の棍棒をオークの足元へ転がした。鉄塊を削っただけの粗末な武器だが、人間なら両手でも持ち上げるのが難しいほど大きい。
オークはそれを片手で拾い上げた。
「グルルル……」
腹の底まで震わせる低い唸り声。
幾つもの戦場を生き抜いてきた兵士の殺気が、訓練場を満たしていく。
それまで小声で話していた生徒たちが、一斉に沈黙した。ある者は腰の武器へ手を伸ばしたまま硬直し、ある者は顔を青ざめさせて後ずさる。
入学試験を優秀な成績で突破し、A組へ選ばれた生徒たち。
その誰もが、本物の殺意を向けられた途端、頼りない子供のように見えた。
「こいつはオルクス帝国の正規兵だ」
シルベスターが紫煙を吐き出す。
「国境付近の村を三つ襲撃し、住民と捕虜を殺害した罪で処刑が決まっている。ただし、この訓練でお前たち全員を倒せば、刑の執行を猶予すると約束してある」
オークが牙を剥き、不気味な笑みを浮かべた。
「何人、殺してもいい?」
「こちらから命を懸けさせる以上、お前にだけ手加減を求めるつもりはねえ」
シルベスターは淡々と答え、生徒たちへ向き直った。
「課題は、こいつを無力化することだ。武器も悪魔も使用自由。全員で襲っても構わねえ」
「本当に危険になったら、先生が止めるのですか?」
生徒の一人が恐る恐る尋ねる。
「自分でどうにかしろ」
冷たい返答に、生徒たちが息を呑んだ。
「治癒術師はいる。俺も見ている。だが、誰かに助けてもらうことを前提に戦うな。戦場じゃ、教師も治癒術師も都合よく隣にはいねえぞ」
シルベスターが訓練場の端へ下がる。
オークは棍棒を肩へ担ぎ、獲物を選ぶように生徒たちを見回した。
「始めろ」
それでも、誰も動かなかった。
オークの気迫を前に、最初の一歩を踏み出せない。
「何をしている!」
沈黙を破ったのは、アルベルトだった。
「相手は一匹だぞ! お前、先に行け!」
命じられた取り巻きの男子生徒が振り返る。
「ぼ、僕がですか?」
「動きを止めるだけでいい。早くしろ!」
侯爵家の嫡男へ逆らえず、男子生徒は震える手で剣を抜いた。
身体強化の魔術を発動し、意を決して床を蹴る。
「うおおおっ!」
上段から振り下ろされた剣を、オークは避けようともしなかった。
棍棒が横薙ぎに振るわれる。
鈍い衝撃音が響いた。
「がっ……!」
男子生徒の身体が剣ごと宙を舞い、石床を何度も転がる。
右腕は不自然に曲がり、脇腹からは骨の砕ける音が聞こえた。男子生徒は声を出すこともできず、そのまま意識を失う。
「重傷者だ!」
待機していた治癒術師たちが駆け込み、倒れた生徒を訓練場の外へ運び出した。
僅か一撃。
その事実が、残された生徒たちの恐怖をさらに強くする。
オークは生まれつき、人間の約五倍もの筋肉量を持っている。分厚い脂肪と筋肉が天然の鎧となり、生命力も体力も人間を遥かに上回る。
しかも、目の前にいるのは正規の軍事訓練を受けた兵士だ。
通常の騎士でさえ、単独で正面から戦えば力負けしかねない。
「役立たずが……!」
アルベルトは倒れた取り巻きへ悪態をつき、右手を掲げた。
赤黒い魔力が収束し、鋭い穂先を備えた一本の槍へ変わる。
「貫け――《魔槍》!」
生成した槍を石床へ突き立てる。
直後、オークの足元から何本もの槍が突き出した。
しかし、オークは攻撃が発生する寸前に跳躍していた。
「なっ!?」
巨体からは想像できない速さで槍を飛び越え、そのままアルベルトへ向かって直進する。
「止めろ!」
アルベルトは近くにいた取り巻きの肩を掴んだ。
「お前が防げ!」
「アルベルト様!?」
自分とオークの間へ、強引に押し出す。
取り巻きは盾を構える暇もなく、オークの左腕で殴り飛ばされた。弾かれた身体がアルベルトへ衝突し、二人揃って石床へ倒れる。
棍棒を持ったオークが、ゆっくりと近づいてきた。
「た、助けろ……!」
アルベルトの声が震える。
クロエは黄金色の瞳を細めたまま動かなかった。
「仲間を盾にする人間を助ける気はないわ」
「自分で考えて戦えと言われたばかりだニャ」
ニーニャも腕を組み、不愉快そうに鼻を鳴らす。
オークが棍棒を振り上げた、その瞬間。
銀色の閃光が真横から踏み込んだ。
「はあっ!」
シルフがレイピアを突き出す。
オークは棍棒の柄で穂先を受け止めた。だが、接触した場所から白い霜が広がっていく。
レイピアに宿った冷気が棍棒を伝い、オークの右腕から半身までを瞬く間に凍りつかせた。
「今のうちに離れなさい!」
アルベルトと取り巻きが、床を這うようにして距離を取る。
次の瞬間。
「グオオオオッ!」
オークの筋肉が大きく膨れ上がった。
咆哮とともに氷が内側から砕け、無数の破片となって飛び散る。
シルフは驚きながらも後方へ跳び、伸ばされた腕を紙一重でかわした。
そのままレイピアを連続で振るう。
肩。
胸。
脇腹。
正確な斬撃がオークの身体へ刻まれるが、傷は表皮を浅く裂くばかりだった。
「硬い……!」
細身のレイピアでは、分厚い筋肉と脂肪を貫けない。
シルフは速度で勝っていたが、オークは棍棒を巧みに振るい、少しずつ逃げ道を奪っていく。
やがて、シルフの背中が石壁へ近づいた。
逃げ場を失った彼女へ、オークの巨大な手が伸びる。
その脚へ、黒い斬撃が走った。
「グオッ!?」
オークの膝裏から暗紫色の血が噴き出す。
片膝をついた巨体とシルフの間へ、刀を握ったジンが立っていた。
「ジン……?」
普段の冷静な表情は消えている。
目の前にいるのは、両親を殺した者と同じオーク。
別の個体だと分かっていても、胸の奥で四年間燃え続けてきた憎悪が、理性を押し退けようとしていた。
「オーク……!」
ジンの足元から黒い霧が噴き上がる。
「出てこい――黒騎士!」
二体の悪魔の騎士が姿を現した。
「戻れ――換装!」
悪魔の騎士が黒い霧へ崩れ、ジンの全身へ殺到する。
右腕から肩、胸、腰、両脚。
禍々しい漆黒の装甲が身体を覆い、右手には巨大な黒い剣が形成された。
完全な悪魔の鎧を纏ったジンは、真正面からオークへ踏み込んだ。
「うおおおっ!」
大剣と棍棒が激突する。
轟音。
凄まじい衝撃が訓練場を揺らし、二人の足元から石床へ亀裂が走った。
悪魔の鎧によって強化されたジンでさえ、純粋な腕力ではオークに及ばない。
「ぐっ……!」
大剣ごと押し込まれ、ジンが片膝をつく。
オークは牙を剥き出しにして笑うと、棍棒を頭上へ振り上げた。
黒紫色の閃光が、その右腕を撃ち抜く。
「グアッ!?」
血を噴いた指から棍棒が落ちた。
訓練場の後方では、クロエが二丁の自動拳銃型魔銃を構えていた。
「一人で勝手に死なないで」
続いて、緑色の風がジンの横を駆け抜ける。
「隙ありだニャ!」
ニーニャがオークの背中へ飛びつき、太い首へ両腕を回した。
「少しくらい大人しくするニャ!」
青白い雷が全身から噴き上がる。
バチバチバチィッ!
「ニャハアアアッ!?」
オークと一緒に、放電したニーニャ自身も悲鳴を上げた。
それでも腕を離さない。
強烈な雷がオークの肉体を駆け巡り、肥大した筋肉を強制的に硬直させる。
「今だニャ!」
ジンが立ち上がり、大剣を横薙ぎに振り抜いた。
漆黒の刃が腹部を深く切り裂き、暗紫色の血が石床へ飛び散る。
それでもオークは倒れなかった。
「グオオオオッ!」
傷口をさらに広げながら、相打ち覚悟でジンへ突進する。
巨大な両腕が、漆黒の鎧を掴んだ。
そのまま圧し潰そうと力を込める。
だが、手応えがおかしい。
装甲の内側には、誰もいなかった。
「――遅い」
声は背後から聞こえた。
掴まれる直前、ジンは換装を解除していた。
漆黒の装甲が黒い霧へ崩れ、元の悪魔の騎士へ戻る。その黒霧で視界を奪った一瞬に、ジンはオークの脇をすり抜け、背後へ回り込んでいた。
オークがジンだと思って掴んだものは、換装を解除されて姿を取り戻した黒騎士だった。
黄金色に輝く右眼が、分厚い筋肉と脂肪の奥を見透かす。
肋骨に守られた心臓。
その位置だけでなく、一つ一つの鼓動まで鮮明に見えていた。
ジンは両手で刀を握る。
「終わりだ」
切っ先がオークの背中へ突き刺さる。
肋骨の隙間を通り抜け、心臓を正確に貫いた。
オークの巨体が硬直する。
何かを掴もうとするように腕を伸ばした後、全身から力を失い、石床へ倒れた。
訓練場が静まり返る。
「倒した……」
生徒の一人が呟いた。
だが、シルベスターの口から出た言葉は称賛ではなかった。
「不合格だ、クロード」
ジンが振り返る。
「なぜだ?」
「途中まで、お前は戦っていなかった」
シルベスターは倒れたオークへ一度だけ視線を向け、煙草の灰を落とした。
「敵の動きも見ず、仲間の位置も考えず、怒りに任せて真正面から突っ込んだ。クロエとニーニャの援護がなければ、お前は頭を潰されて死んでいた」
「…………」
「敵を憎むなとは言わねえ。俺にお前の復讐を否定する権利もない」
シルベスターの鋭い目が、ジンを真っすぐに捉える。
「だが、憎しみに判断を預けるな。自分の生殺与奪を、死んだ親や目の前の敵に握らせるんじゃねえ」
ジンは何も答えられなかった。
シルベスターは続いて、床へ座り込んでいるアルベルトを見る。
「レオナルド先生。私は仲間へ指示を出し――」
「お前も不合格だ」
「なぜです!」
「指揮と身代わりは違う。自分だけ安全な場所へ隠れ、仲間を盾にする奴を騎士とは呼ばねえ」
アルベルトの顔が、屈辱で赤く染まった。
「シルフ。敵に近づく判断と、倒れた生徒を救った点は悪くない。ただし、通じない攻撃を何度も繰り返すな」
「はい」
「クロエ。射撃は正確だったが、動くのが遅い」
「助ける価値があるか考えていたもの」
「戦場で考えすぎれば、その間に誰かが死ぬぞ」
「覚えておくわ」
シルベスターの視線が、最後にニーニャへ向けられる。
「敵の動きを止めた点は評価する」
「当然だニャ!」
「自分まで感電する技を得意げに使うな」
「好きで感電してるんじゃないニャ!」
張り詰めていた訓練場に、僅かな笑いが起こった。
シルベスターは面倒そうに銀髪を掻き、生徒たちを見渡す。
「今日の結果を自分の実力だと思うな。お前たちが見せたのは、経験のないガキが、本物の殺気を向けられたときの反応だけだ」
誰も反論しなかった。
恐怖で動けなかった者。
他人を盾にした者。
危険を承知で誰かを救った者。
そして、憎しみに我を忘れた者。
試されたのは、剣や悪魔の強さだけではなかった。
「覚えておけ」
シルベスターが新しい煙草へ火をつける。
「戦場で最初に殺されるのは、弱い奴じゃねえ」
煙とともに吐き出された言葉が、静まり返った訓練場へ重く響く。
「自分で考えることをやめた奴だ」




