第21話 自分の頭で考えろ
第21話 自分の頭で考えろ
翌朝。
長く静まり返っていたクロード家の屋敷に、慌ただしい足音が響いていた。
「尻尾が引っ掛かるニャ!」
二階の廊下から、ニーニャの声が聞こえる。
食堂で待っていたジンが顔を上げると、黒騎士学園の制服を着たニーニャが階段を駆け下りてきた。
白いシャツに暗赤色のリボン。黒い短丈のジャケットと膝上丈のプリーツスカート。足元には、実技授業にも使える黒革のブーツを履いている。
制服の腰には獣人用の開口部が設けられていたが、ニーニャの尻尾は一般的な獣人よりも遥かに大きい。無理に通したせいで、ふわりとした毛が途中で挟まっていた。
「ジン、見てないで手伝うニャ!」
「どこを直せばいい?」
「やっぱり触るなニャ!」
「どちらだ」
「乙女心を察するニャ!」
ジンが困っていると、後ろから降りてきたクロエが小さくため息をついた。
「動かないで」
「ニャッ!?」
クロエは尻尾の根元を押さえ、挟まった毛を手際よく引き抜いた。
「いきなり触るなニャ!」
「急いでいるのでしょう?」
「そうだけどニャ……!」
クロエも同じ制服を着ていた。
艶やかな黒髪を一つに束ね、黒いジャケットの前は開けている。暗赤色のリボンは使わず、細いネクタイを緩く結んでいた。
平民を装っているはずだが、立ち姿から滲み出る気品までは隠せていない。
「二人とも遅い。このままでは初日から遅刻するぞ」
ジンは黒い詰襟の制服を隙なく着込み、玄関へ向かった。
「誰のせいで準備に時間が掛かったと思ってるニャ!」
「尻尾のせいだろう」
「元を辿れば聖魔の儀のせいだニャ!」
三人は朝の首都を並んで歩き、黒騎士学園へ向かった。
王城に次ぐ広大な敷地を持つ学園は、高い石壁に囲まれていた。正門の奥には、黒い尖塔を備えた校舎や訓練場、実戦形式の演習に使われる森まで広がっている。
門をくぐる新入生は、全員が同じ黒い制服を身につけていた。
だが、身分の差まで消えたわけではない。
高位貴族の子息子女の周囲には、入学前から大量の魔石を与えられて育った悪魔の気配が漂っている。契約したばかりの存在を顕現させるだけで精一杯の平民とは、魔力量も圧力も明らかに違っていた。
魔石を買える者は、安全な屋敷にいながら力を得られる。
金を持たない者は、自ら魔物を倒さなければ一つの魔石さえ手に入らない。
努力を始める場所から、すでに平等ではなかった。
「見てみろ。平民までA組へ入ったらしいぞ」
「入学試験で少し成績がよかっただけだろう」
すれ違う貴族の生徒が、ジンたちを見て囁く。
ニーニャの犬耳が不愉快そうに動いた。
「初日から感じが悪いニャ」
「相手にするな」
「ジンは腹が立たないのかニャ?」
「実力は言葉では変わらない」
「随分と冷静ね」
クロエはそう言いながらも、黄金色の瞳で周囲を観察していた。
やがて、新入生たちは大講堂へ集められた。
壇上には学園長をはじめ、黒や灰色のローブを纏った教師たちが並んでいる。
「この学園へ入った以上、家名も爵位も関係ない」
学園長の低い声が、講堂全体へ響いた。
「騎士の価値を決めるのは、何者として生まれたかではない。誰を守り、何のために剣を振るうかだ」
クロエとニーニャが、僅かに視線を交わす。
二人とも家名を伏せ、平民としてこの場所へ立っている。
ジンにとっても、その言葉は他人事ではなかった。
クロード家は爵位を失い、両親の名には今も裏切り者の汚名が刻まれている。それでも、騎士を目指す意思だけは失っていない。
新入生代表として壇上へ上がったのは、第三王女シルフ・エスパーダだった。
背筋を伸ばし、王族として堂々と宣誓文を読み上げる。
その途中、シルフの視線がクロエとニーニャを捉えた。
ニーニャの尻尾が緊張で膨らむ。
しかし、シルフは二人の名を呼ぶことも、驚いた様子を見せることもなかった。ほんの僅かに目を細めると、何事もなかったように宣誓を続けた。
事情を察しても、他人の秘密を軽々しく暴くような性格ではない。
入学式を終えた三人は、本校舎三階にある一年A組の教室へ向かった。
教室へ入った途端、周囲がざわつく。
「クロード?」
「あいつが、裏切り者の息子か」
ジンは聞こえていないかのように、窓際の席へ腰を下ろした。
クロエはその隣。ニーニャはジンの後ろだった。
「屋敷でも一緒、依頼でも一緒、学園でも一緒なのかニャ」
「都合がいいでしょう」
「アンタは何で嬉しそうなんだニャ?」
担任が現れるまで、教室には新入生たちの話し声が満ちていた。
その中から、金髪の青年が立ち上がる。
整った顔立ちと、胸元を飾る高価な魔石。背後には三人の取り巻きを従えている。
アルベルト・ヴァレンシュタイン。
ヴァレンシュタイン侯爵家の嫡男だった。
彼の父親は四年前、ジンの父が率いる黒騎士団へ同行していた。敗戦後にはクロード夫妻の敵前逃亡を証言し、その失脚によって生じた権益の一部を手に入れている。
アルベルトはジンの机の前で足を止めた。
「よく入学できたものだな」
「何の話だ?」
「罪人の息子にも、騎士を名乗る権利があるらしい」
ニーニャの犬耳が立つ。
ジンは視線すら向けなかった。
「用がないなら退け」
「父親と同じだな。都合が悪くなると逃げる」
教室の空気が変わった。
クロエの笑みが消える。
それでもジンは動かなかった。
アルベルトは、相手が先に手を出すのを待つように言葉を重ねる。
「敵を前に逃亡した黒騎士団長。それに、夫と一緒に部下を見捨てた聖騎士。そんな二人から生まれたお前が、何を守れる?」
椅子が静かに床を擦った。
ジンが立ち上がる。
怒鳴り声はなかった。
表情から感情だけが消え、右眼が黄金色へ変わっていく。
「今の言葉を取り消せ」
アルベルトの口元には、薄い笑みが残っていた。
(怒らせればいい)
入学初日に侯爵家の嫡男へ暴力を振るえば、クロードを学園から追い出す口実になる。
「王国が認めた事実だ」
「もう一度だけ言う。取り消せ」
足元の影から、黒い霧が滲み出した。
殺気を向けられたアルベルトの顔が僅かに強張る。それでも、侯爵家の嫡男として後ろへ退くことはできなかった。
取り巻きの一人がジンの肩へ手を伸ばす。
「アルベルト様に向かって、その態度は――」
その瞬間。
教室の時間が止まった。
風に揺れていたカーテン。
宙を舞う埃。
開きかけた生徒の口。
すべてが完全に静止する。
誰も動けない世界の中を、一人の男が歩いてきた。
長い銀髪を後ろへ撫でつけ、顎には無精髭を生やしている。細い顔はやさぐれ、姿勢も悪い。身につけた灰色のローブには皺と汚れが目立っていた。
左眼には、金色の時計盤に似た紋様が浮かんでいる。
男はジンとアルベルトの間へ立った。
完全に停止した世界で、ジンの黄金色の右眼だけが、僅かに男の姿を追っていた。
「……その眼か」
男が呟く。
次の瞬間、時間が動き出した。
「なっ……!」
いつの間にか間へ立っていた男を見て、アルベルトが後ずさる。
男は胸元から煙草を取り出し、気怠げに火をつけた。
「入学初日から元気だな、お坊ちゃんども」
「貴様、誰に向かって――」
「親の金で悪魔に魔石を食わせてもらった程度で、随分と偉くなったもんだ」
アルベルトの顔が赤くなる。
男は興味を失ったように背を向け、教壇へ向かった。
机の上に置かれた灰皿には、すでに二十本以上の吸い殻が積まれている。どうやら騒動が始まる前から、教室の隅で煙草を吸っていたらしい。
男は椅子へだらしなく腰を下ろし、煙とともに深いため息を吐いた。
「シルベスター・デ・レオナルド。三十五歳。今日から一年A組の担任だ」
教室が静まり返る。
シルベスターは目つきの悪い瞳で生徒たちを見渡した。
「先に言っておく。俺の教室じゃ、家名も爵位も役に立たねえ」
その視線がアルベルトで止まり、続いてジンへ移る。
「親の権威を借りて喧嘩を売る奴も、死んだ親を餌に挑発されて我を失う奴も、戦場じゃ長生きできねえ」
ジンの眉が僅かに動いた。
「両親を侮辱されても黙っていろと?」
「違う。怒るかどうかまで他人に決めさせるなと言っている」
シルベスターは煙草を灰皿へ押しつけた。
「敵が挑発すれば怒り、上官が進めと言えば死地へ進む。それじゃ、首輪をつけられた犬と変わらねえ」
「犬を馬鹿にするなニャ」
「お前は黙ってろ、犬耳」
「ニャッ!?」
教室に僅かな笑いが起きる。
だが、シルベスターの目は笑っていなかった。
「他人に自分の生殺与奪を委ねるな。命令されたから死にました、なんて言い訳は墓の下でしか通じねえ」
新しい煙草へ火をつける。
「自分の目で見ろ。自分の頭で考えろ。自分で選んだ結果は、自分で背負え」
吐き出された煙の向こうで、シルベスターの左眼がジンを捉えた。
その眼差しには、初対面の生徒を見るものとは異なる感情が宿っている。
ジンは確信した。
この男は、自分の父親を知っている。
「質問があるなら後にしろ。面倒だから、今日はもう帰りたい」
「まだ授業が始まってないニャ!」
「だから面倒なんだ」
シルベスターは心底嫌そうに答えた。
こうして三人の黒騎士学園での生活は、学園一やる気のない担任との出会いから始まった。




