第20話 共同生活のルール
第20話 共同生活のルール
翌朝。
薄い朝日が、クロード家の屋敷にある長い廊下へ差し込んでいた。
「…………」
ジンは寝癖のついた黒髪を掻きながら、自室を出た。
昨夜は久しぶりに、屋敷の中から人の気配を感じながら眠った。
誰も使っていなかった客室にはクロエとニーニャが入り、玄関には二人分の荷物が増えている。それでも、四年間一人で暮らしてきた習慣は、一晩で変わるものではない。
まだ眠気の残るまま、ジンは廊下の奥にあるトイレへ向かった。
東側にある水回りは古く、扉の鍵も以前から壊れている。だが、これまでは屋敷にジンしかいなかったため、困ったことなど一度もなかった。
当然のように取っ手へ手を掛ける。
ノックをするという発想すらなかった。
「…………」
扉を開いたジンの動きが止まった。
そこにはニーニャがいた。
黒い寝間着の裾を乱さないように押さえ、便座の上へ両足を乗せてしゃがみ込んでいる。巨大な尻尾は邪魔にならないよう、背後へ高く持ち上げられていた。
幸い、扉と衣服によって見えてはいけない部分は隠れている。
しかし、犬のようにしゃがみ込んでいる姿を見られたニーニャにとって、それは何の救いにもならなかった。
二人の視線が重なる。
「…………」
「…………」
長い沈黙が流れた。
「何をしている?」
「見れば分かるニャ!」
ニーニャの顔が、耳の先まで真っ赤になった。
「どうして便器の上に乗っている?」
「尻尾が大きすぎて、普通に座ると邪魔なんだニャ! 何度も試した結果、これが一番楽だったんだニャ!」
「そうか」
「納得してないで早く閉めろニャアアアッ!」
羞恥と怒りが限界を超えた瞬間、ニーニャの全身から青白い雷が噴き上がった。
バチバチィッ!
「ニャハアアッ!?」
放電した本人が真っ先に悲鳴を上げる。
雷は床と扉を走り、金属製の取っ手を握っていたジンの右腕へ流れ込んだ。
「ぐっ……!」
身体を激しい痺れが駆け抜ける。
黒髪を逆立てたジンは、煙を上げながら廊下へ倒れた。手が取っ手から離れたことで、扉はゆっくりと閉じていく。
「二度と勝手に開けるなニャ!」
扉の向こうから怒声が響いた。
「……悪かった」
ジンは床へ横たわったまま答える。
やがて、廊下の奥から別の扉が開いた。
「朝から騒がしいわね」
現れたのはクロエだった。
朝のシャワーを浴びた直後らしく、艶やかな黒髪が濡れている。身体には白い大きなバスタオルを巻いただけで、肩や脚には水滴が残っていた。
クロエは廊下に倒れているジンを見下ろした。
「何をしているの?」
「ニーニャに感電させられた」
「朝から?」
「トイレを開けた」
「なるほど」
クロエは扉の向こうから伝わる殺気を察し、それ以上尋ねなかった。
ジンは起き上がろうとして、何気なくクロエへ顔を向ける。その姿が視界へ入った瞬間、頬が僅かに赤くなった。
反射的に目を閉じる。
「その格好で廊下を歩くな」
「自分の身体を見られて困るほど初心ではないわ」
「俺が困る」
「意外と純情なのね」
「いいから服を着ろ」
目を閉じたまま壁へ手をつき、ジンは痺れる脚で立ち上がった。
その様子を眺め、クロエが楽しそうに口元を緩める。
「私が裸で歩いているわけではないでしょう?」
「似たようなものだ」
「ニーニャの姿はしっかり見たくせにニャ!」
閉じた扉の向こうから抗議が飛んできた。
「事故だ」
「こっちは一生消えない黒歴史になったニャ!」
「だから謝っただろう」
「謝れば何でも許されると思うなニャ!」
静まり返っていた屋敷に、朝からニーニャの怒声が響き渡る。
四年間の一人暮らしでは、一度も起きなかった騒動だった。
「……共同生活を続けるなら、ルールを決める必要があるな」
ジンが深いため息をつく。
「賛成よ」
「まずクロエは服を着ろ」
「分かったわ」
クロエは悪びれた様子もなく、自分の客室へ戻っていった。
しばらくして。
三人は食堂の古いテーブルを囲んでいた。
着替えを済ませたニーニャは、腕を組んだままジンを睨んでいる。赤褐色の犬耳は後ろへ伏せられ、大きな尻尾が苛立たしげに床を叩いていた。
「まず、個室に入る前には必ず三回ノックするニャ」
「二回では駄目なのか?」
「三回だニャ!」
「分かった」
「それから、返事を聞くまで絶対に扉を開けないことだニャ!」
「鍵を直せば済むのではないかしら?」
クロエが紅茶を口へ運びながら指摘する。
「それはそれ、これはこれだニャ!」
ニーニャはジンへ指を突きつけた。
「今日の記憶も消すニャ!」
「それは無理だ」
「なら忘れろニャ!」
「努力する」
「今すぐ忘れるニャ!」
「無茶を言うな」
ニーニャの指先に青白い火花が走る。
「もう一度感電したいのかニャ?」
「屋敷の中での放電禁止も追加だ」
「ニャッ!?」
「家具や配管を壊されては困る」
「好きで放電してるんじゃないニャ!」
「なら、制御する練習をしろ」
「正論で言い返すなニャ……!」
ニーニャは悔しそうに頬を膨らませた。
「共有部分では最低限の服を着る、という決まりも必要ね」
「原因はお前だ、クロエ」
「バスタオルは服に含まれないの?」
「含まれない」
「厳しいのね」
「普通だ」
次に決めたのは、家事の分担だった。
掃除は屋敷が広いため、三人で場所を分ける。買い出しは交代制。料理は得意な者が担当し、できない者は片づけを手伝う。
「私は料理なんてしたことがないわ」
クロエが堂々と言い切った。
「平民ではなかったのかニャ?」
「あなたもでしょう?」
「私は簡単なものなら作れるニャ!」
「貴族令嬢としては珍しいわね」
「ニャッ……」
ニーニャの犬耳が硬直する。
二人はしばらく無言で見つめ合った。
「何の話だ?」
「何でもないニャ!」
「気にしないで」
揃って答える二人を見て、ジンは疑わしそうに目を細めた。
「ジンは料理できるのかニャ?」
「四年間一人で暮らしてきた。最低限はできる」
「なら、ジンが毎日作ればいいニャ!」
「分担すると決めたばかりだ」
「料理のできる者が担当するとも言ったニャ!」
「屁理屈ね」
「アンタも人のことを言えないニャ!」
結局、料理は当番制となり、最初にクロエが担当することになった。
「なぜ私なの?」
「公平なくじ引きの結果だニャ」
「あなた、風で紙を動かしたでしょう?」
「証拠はないニャ」
ニーニャの尻尾が得意げに揺れる。
「分かったわ。食べられるものが出てくるとは限らないけれど」
「待つニャ。やっぱり今のは無効だニャ!」
ジンは騒ぐ二人を眺め、小さく息を吐いた。
「こんなラブコメみたいな生活は、慣れないな」
自嘲するように呟いたが、その声には以前より僅かな柔らかさがあった。
そのとき。
玄関の方から、重い呼び鈴の音が響いた。
玄関の扉を開けると、黒騎士学園の制服を着た若い職員が立っていた。
「ジン・クロード殿、クロエ殿、ニーニャ殿へ、入学通知書をお届けに参りました」
差し出された三通の封筒には、交差する漆黒の剣と盾を描いた封蝋が押されていた。
黒騎士学園からの入学通知書だった。
ジンが自分の封筒を開く。
入学を認める文面の下には、所属する教室が記されていた。
「一年A組か」
「私も同じだニャ!」
ニーニャが通知書を広げる。
「私もよ」
クロエの所属も、一年A組だった。
三人は同じ屋敷で暮らし、同じパーティーで依頼を受け、さらに学園でも同じ教室へ通うことになる。
偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
クロエは通知書へ視線を落とし、黄金色の瞳を僅かに細めた。
彼女が前世で知っていた物語では、ジン・クロードは誰にも心を開かず、孤独なまま黒騎士学園へ入学するはずだった。
だが、すでに未来は変わり始めている。
今のジンは、一人ではない。
「明日から学園か」
ジンが静かに告げる。
「遅刻しないよう、今日は早く休め」
「その前にトイレの鍵を直すニャ!」
「分かった」
「絶対だニャ!」
ニーニャの声が、長く静まり返っていた屋敷へ響き渡る。
こうして三人の共同生活は、騒がしい朝とともに本格的に始まった。




