第18話 認識できない痴漢魔
第18話 認識できない痴漢魔
翌朝。
レグナ中央駅の構内には、夜明け前から大勢の労働者が集まっていた。
鉱山へ向かう者。夜勤を終えて家へ帰る者。荷物を抱え、東部の町へ移動する商人。
彼らが待つホームへ、鈍い汽笛を響かせながら古びた魔導列車が入ってくる。
貴族や裕福な商人が利用する特急列車とは違い、車体には塗装の剥がれや細かな傷が目立つ。座席も最低限しか設けられておらず、扉が開いた途端、待っていた人々が一斉に車内へ流れ込んだ。
「朝から多すぎるニャ……」
その光景を前に、ニーニャの犬耳が不安そうに伏せられる。
今日は普段の軽装鎧ではない。
目立たないよう、少しくたびれた白いシャツと膝上丈のスカートに着替えていた。スカートの下には動きやすい短いインナーパンツを穿き、普段使っている二本のダガーはクロエへ預けている。
「どうして私だけ、こんな格好なんだニャ?」
「武装した冒険者へ近づくほど、犯人も馬鹿ではないでしょう」
クロエはいつもの黒い革製パーカーとホットパンツ姿で、平然と答えた。
「だったら、アンタも着替えるニャ!」
「私まで囮になったら、誰が逃げ道を塞ぐの?」
「最初から安全な役を選んでるニャ……」
「嫌なら断ってもいいぞ」
ジンが確認すると、ニーニャは不満そうに頬を膨らませた。
「十二人も被害に遭ってるんだニャ。今さら逃げたら格好がつかないニャ」
やがて乗車を知らせる鐘が鳴った。
三人は他人を装い、別々に車内へ乗り込む。
ニーニャは中央付近。
ジンはそこから数人分離れた場所。
クロエは隣の車両へ続く扉の前に立った。
扉が閉まり、魔導列車がゆっくりと動き出す。
車輪が線路を叩く音が、次第に速くなる。
「せ、狭いニャ……!」
発車直後にもかかわらず、車内は身動きが取れないほど混雑していた。
右には鉱山帰りの男。左には大きな荷物を抱えた老婆。正面には眠そうな顔をした若い女性。
人の波へ押されるたび、ニーニャの大きな尻尾が行き場を失って左右へ曲がる。
「尻尾を踏むなニャ!」
「俺じゃないぞ!」
「だったら誰だニャ!?」
怒鳴っても、周囲の騒音に掻き消されてしまう。
汗や油、煙草、魔鉱石の臭いが鼻を刺激する。車輪の轟音と乗客たちの話し声が重なり、ニーニャの優れた感覚も役に立ちそうになかった。
少し離れた場所で、ジンの右眼が黄金色へ変わる。
神眼の視界には、乗客一人ひとりの魔力が淡い光となって映っていた。
八十、八十一、八十二――。
「……八十三?」
ジンは眉を寄せた。
見渡せる範囲にいる人間は、八十二人。
だが、魔力反応だけは八十三人分ある。
もう一度確認しようとした途端、意識が不自然に途切れた。
「何を数えていた?」
疑問に思った理由すら、記憶から滑り落ちていく。
ジンは右手の手袋へ指を押し当てた。
僅かな魔力を流し、革の表面へ数字を刻む。
八十三。
書いた数字を見れば、何かがおかしいことだけは思い出せる。しかし、存在するはずの一人へ意識を向けようとすると、視線が勝手に逸れてしまう。
「不可視化ではない……認識そのものを妨害しているのか」
犯人の姿は見えている。
神眼も、その魔力を捉えている。
それでも脳が、目の前にいる人間を存在しないものとして処理していた。
その頃、ニーニャの犬耳が僅かに動いた。
「……ニャ?」
誰かに触れられた気がした。
振り返る。
だが、そこには疲れた表情の乗客たちがいるだけだった。
「気のせいかニャ……」
前を向いた直後、再び不快な感触が伝わる。
今度は間違いない。
「誰だニャ!」
ニーニャが声を上げる。
周囲の乗客が驚いて振り向いた。
しかし、誰も怪しい動きをしていない。
鼻には見知らぬ男の臭いが届いている。
耳にも、すぐ近くから荒い呼吸音が聞こえていた。
確かに、誰かがいる。
それなのに、その臭いや音を一人の人間へ結びつけられない。
「そこにいるのは分かってるニャ! 今すぐやめるニャ!」
返事はなかった。
乗客たちは何に怒っているのか分からず、困惑した顔でニーニャを見ている。
人の壁に挟まれ、腕を動かすこともできない。逃げようとしても、足を踏み出す隙さえなかった。
さらに列車が大きく揺れる。
人の波が傾き、ニーニャの身体も押し流された。
その混乱に紛れ、犯人が再び接触する。
「またニャ……!」
犬耳が震え、尻尾の毛が逆立つ。
振り払いたくても、相手を認識できない。
捕まえようとして伸ばした手は、目の前にいるはずの犯人を避け、何もない空間を掴んでしまう。
ニーニャの額へ青筋が浮かんだ。
「もう……我慢の限界だニャ!」
全身から青白い雷が噴き上がる。
バチバチバチィッ!
「ニャハアアアッ!?」
放電したニーニャ自身が、真っ先に悲鳴を上げた。
雷は密着している乗客たちへ次々と伝わり、車内の至るところから叫び声が上がる。
「うわあっ!?」
「何だ!?」
「痺れる!」
吊り革や金属の手すりを青白い火花が駆け抜ける。
乗客たちは髪を逆立て、痺れた脚でその場へ座り込んだ。
だが、最も強い電流を浴びたのは、ニーニャへ直接触れていた男だった。
「ぎゃああああっ!」
誰もいないはずの空間から、男の悲鳴が響いた。
何も存在しない場所に、人間の輪郭をなぞるような雷が走る。
男の腰に装着されていた小型魔導具から、黒い煙が噴き出した。
バキンッ。
魔導具の表面へ亀裂が走る。
周囲の認識へ干渉していた術式が乱れ、それまで意識できなかった男の姿が、車内へ突然浮かび上がった。
「いたニャ! そいつだニャ!」
「くそっ!」
男はニーニャを突き飛ばし、痺れる脚を引きずりながら逃げ出した。
「ニーニャ!」
倒れかけたニーニャを、ジンが人混みの間から支える。
神眼には、壊れた魔導具の中で暴走する魔力経路が見えていた。
「クロエ、扉だ!」
「分かっているわ」
男が隣の車両へ続く扉へ駆け込もうとする。
その進路には、クロエが立っていた。
「退け!」
男は勢いを緩めず、クロエの横を通り抜けようとした。
クロエは身体を僅かにずらし、片脚を差し出す。
「がっ!?」
足を引っ掛けられた男が、床へ派手に転がった。
すぐさまクロエが背中を片足で押さえつける。
右手へ黒紫色の魔力が集まり、自動拳銃型の魔銃が形成された。
冷たい銃口が、男の額へ突きつけられる。
「動かないで」
黄金色の瞳が、倒れた犯人を冷たく見下ろす。
「次は雷より痛いわよ」
男の顔から血の気が引いた。
「わ、分かった……降参する!」
ジンが男の両腕を拘束し、壊れた魔導具を取り外す。
犯人は縄で拘束され、壊れた認識阻害の魔導具とともに、到着まで車掌室へ収容されることになった。
「姿を消していたわけではない。周囲の人間へ、自分を認識できなくする術式をかけていたのか」
「見えてるのに見つけられないなんて、卑怯すぎるニャ!」
ニーニャが怒鳴った。
赤褐色の髪も犬耳も逆立ち、大きな尻尾は普段の倍近くまで膨らんでいる。
その直後。
周囲から無数の視線が集まっていることに気づいた。
車内では、感電した乗客たちが痺れた手足を押さえている。
「犯人は捕まえたニャ!」
「だからって、俺たちまで感電させることはないだろ!」
「仕方なかったんだニャ!」
ニーニャは膨らんだ尻尾を抱え、必死に頭を下げた。
「ご、ごめんなさいだニャ……」
ニーニャが頭を下げると、近くにいた若い女性が痺れる手を上げた。
「でも、捕まえてくれてありがとう。私も以前、この男に狙われたの」
「そうだったのかニャ……」
「感電は痛かったけどね」
「本当にごめんなさいだニャ!」
夕方。
魔導列車は首都ザザンへ到着した。
犯人と認識阻害の魔導具は駅の警備兵へ引き渡され、十二件に及ぶ事件はようやく解決した。
「もう二度と囮役なんてやらないニャ……」
ニーニャは疲れ切った顔でホームへ降りる。
「見事に役目を果たしていたわ」
「アンタは安全なところから見てただけだニャ!」
「最後に捕まえたでしょう?」
「次は絶対にアンタを囮にするニャ!」
夕暮れの首都に、ニーニャの怒声が響き渡る。
こうして三人は、行きとは別の騒動を起こしながらも、無事にザザンへ帰還したのだった。




