第8話 静かなる逆鱗と、千年の宣戦布告
紀州の和歌山ラーメンを土産に、上機嫌で松本へと戻ってきた悠真と沙羅。
だが、高台にある神代神社の鳥居を潜った瞬間、二人の足が止まった。
「……っ、これは」
沙羅が息を呑む。
境内の石畳は砕け、御神木には鋭い爪痕のような裂傷が刻まれていた。
何より異常なのは、立ち込める澱んだ「呪い」の臭気。それは今まで戦ってきたどの怨霊よりも、濃く、そして「人の悪意」が混じった不快なものだった。
「母さん……? 親父……?」
悠真の声から、いつもの怠さが消えていた。
拝殿の奥、生活の場である居間へ踏み込む。そこには、激しい戦闘の跡があった。
最強を誇った母・美弥子の護符が焼き切られ、床に散乱している。その中心に、霊力を持たない父の眼鏡が、無残に踏みつぶされて落ちていた。
「……霊力のない父君を庇いながら、戦われたのですね」
沙羅が震える手で、壁に残された「文字」を指さす。
それは、美弥子が最後の力を振り絞って残した式神の伝言板だった。
『――悠真。お父さんは私が守る。奴らの狙いは、あなた。……来なさい。東京の「天空の監獄」へ』
直後、部屋の隅に潜んでいた敵の式神――黒い鴉が、不気味な声で語り始めた。
「……神代悠真。我らは平安の夜を統べる『黄泉の門』。貴様の身勝手な神威、ここで終わらせてやろう。両親の命が惜しくば、指定の地へ来い。……もっとも、貴様の魂が砕けるのが先だろうがな」
鴉は嘲笑いながら、霧となって消えた。
「悠真殿……!」
沙羅が悠真の顔を覗き込む。
だが、悠真は何も答えなかった。
怒鳴るわけでも、取り乱すわけでもない。ただ、冷徹なまでの無機質な瞳で、父の眼鏡をそっと拾い上げた。
その瞬間、周囲の空気が「凍りついた」。
霊感のない人間でも気絶するほどの凄まじい圧力が、悠真を中心に渦巻く。
「……行くぞ、沙羅」
その一言だけを残し、悠真は踵を返した。
普段の抜けた口調はどこにもない。
背中から溢れ出す霊力は、すでに制御を拒絶し、周囲の空間をピキピキとひび割れさせていた。
東京――。
現代の有力者たちが資金を投じ、平安の魔術と最新の建築技術を融合させて作り上げた、地上数百メートルの超高層ビル『アビス・タワー』。
そこが、敵の本拠地であり、両親が囚われた場所。
移動の車中、新幹線の中。
悠真はずっと無言だった。
沙羅は、彼の隣に座っているだけで、肌が焼けるような緊張感に晒されていた。
これまで見てきた「五〇点」や「七〇点」の悠真ではない。
今、隣にいるのは――眠れる神を呼び覚ましてしまった、この世で最も危険な「何か」だ。
タワーの麓に辿り着いた時、悠真は空を見上げた。
そこには、幾重にも張り巡らされた絶望的な結界が見える。
「……沙羅。離れてろ。これからは、加減ができない」
悠真が御朱印帳を取り出す。
その表紙が、持ち主の怒りに呼応するように、黒から「白銀」へと変色し始めていた――。




